「赤ちゃんとわし」


 最初、見た時はエラくタレ目な赤ん坊としか思わなかった。


 抱き上げたら、いきなり、あの当時から残り少ないわしの髪の毛を引っ張って、ゲラゲラ笑いおったので『かわいくねぇガキ』だと思って、いきなり疎遠にする事に決めた。
 どちらにせよ、わしは表の鍼師の顔とブックマンとしての裏の顔を使い分ける為、日々多忙であった。血が繋がっている唯一の孫だからといって、特別 扱いする気はない。
 優秀でさえあれば、他人でもよかった。むしろ他人の方がよい。適合者はイノセンスが選ぶが、ブックマンの後継者は人、つまりわしが選ぶ。闇の世界を記録し、つぶさに観察する。こんな因果 な生業を子孫に伝えるのが正しいとは、わしは望まなかった。
 幸い、わしの息子は学者というより、かなり血の気が多い方だったので、後継者には選べなかった。実のところ、内心落胆しないでもなかったが、よき戦士となった息子を誇らしく思わぬ 父親などいないであろう。



 闇を見る者は、また闇に魅入られる。
 奥深い言葉だ。



 だから、闇に踏みとどまれる強い意志を持つ者でなければならぬ。深き竹林のような清々しい深慮と凛とした佇まい、語りかけるような声で話す穏やかな瞳を持つ青年。若き日のわしを思わせるような涼やかな若者にふさわしい。
 たまに出会うたびに、わしの残り少ない髪の毛を引き毟るような凶事に及ぶ赤児には用はないのだ。



 だが、息子の都合で、嫁と赤児がわしの家に住む事になった。仕方がない。仕事の邪魔さえしなければと、わしは受け容れた。



 ところが、赤児ははしっこかった。
 何処からか書斎に入り込んできては、わしの大切な蔵書や資料を箱から掴み出す。振り回す。わしに投げつける。
 這い這いしたばかりの赤児に説教しても益はない。追い出す為近づこうとすると、またも、わしの残り少ない髪の毛を掴んでやろうとする素振りを見せる。お互いにじりじりと隙を窺い、物音を立てて他に注意を引きつけた所で、さっと両脇を掴んで抱きかかえ、母親の所へ連れていく。
 息子が選んだ嫁はあやつと真っ向から正反対のおっとりした女で、乳飲み子が長時間いなくなったというのに、全然慌ててはいなかった。
「まぁ、またおじいちゃんに遊んでもらったのぉ。よかったわねぇ、ラビ」
 洗濯物を畳みながら、のんびり笑っている。これだから、孫が家の中で行方不明になるのだ。
「なぁ、あんた、もう少し気をつけて下さらんか。わしの所にあるのは貴重な蔵書なんじゃ。それに埃はひどいし、本が崩れてきたらどうなさる」
「だから、掃除致しますと前から言ってますのに、お義父さん承知して下さらないからぁ。それにラビは私よりお義父さんとおった方が安全だしぃ」
「しかしだな、わしも目が届かん時があるから。この子に言い聞かせても解っとらんし」
「そりゃそうですよぉ。まーだ、赤ちゃんなんですから」
 嫁は笑ってラビを抱き上げた。ラビはわしを名残惜しそうに見るが、母親の胸にすぐ顔を埋めた。
「ははぁ、ラビは本当におじいちゃんが好きなのねぇ。
 お義父さんも駄目ですよぉ。赤ちゃんはすーぐ抱き癖がつくんだから。腰を痛めてしまいますよぉ」
 嫁は春の日差しみたいにゆらゆら笑っている。



(駄目だ、こりゃ)



 わしは溜息をついた。柳に風。のれんに腕押し。こんな田舎娘を何故、息子が口説き倒してモノにしたのか恨んでも仕方がない。



 その後も赤児の侵入は続いた。
 ドアに鍵を掛けようが、バリケードを築こうが、赤外線サーチ付自動反応機関銃を設置しようが、ふと振り向くとラビがダンボールと本の海で溺れている。
(何処にでも入り込んでしまう特技はわしの遺伝じゃな)
 しかも本に飽きると、わしの残り少ない髪の毛にテロ活動を及ぼうとするから始末に負えない。
 子供は禁止されている事、悪いと解っている事に限って喜んでやりたがる。
 わしがわざと知らぬ顔をしていると、本当に悪魔のような笑顔を浮かべてそろそろ近づいてくる。おむつパンパン揺らしながら、よだれだらけのにちゃにちゃした手で、わしの哀れな髪に危害を加えようとする。振り向いて睨むと『キャア』と甲高い声を上げてちょっと離れる。また本を読み出すと近づいてくる。ふざけているのだ。
 わしが弱って抱き上げると、ニパァと笑って大はしゃぎになる。
(きっとわしの関心を引きたいんじゃな)
 解るが、それでは仕事にならない。湿気でむわむわした赤児によだれを垂れ流されると本も傷む。
「もう、どうしたいんじゃ、お前は」
 溜息をついたが、ラビはニカニカ笑うばかりだ。
 仕方がないので、ラビを胸元に紐でくくりつけて仕事をする事にした。背中だと、わしの残り少ない髪の毛が惨事に遭うからだ。
 こうするとラビは大人しかった。
 しばらくわしの顎髭を握ったり、笑ったりしていたが、指をチューチュー吸っている内に、いつの間にかカクンと寝てしまっていた。
 わしはそれに気づいて、ラビを見下ろした。
 本の劣化を防ぐ為に部屋はいつも薄暗いが、わしの平机だけは窓からの日差しが仄かに差し込む。そのぼんやりとした日溜まりの中で、初めて孫の顔を間近に見た気がした。


(……こやつも寝ていれば、なかなかかわいいのぉ)


 悪戯小僧もよく見れば、なかなか好青年になりそうだ。息子も嫁も、そしてわしも顔がいいんだから当然か。
 嫁はわしの腰を心配したが、鍛え上げた肉体を持つエクソシストには要らぬ世話だ。
(まぁ、当面はこれでいこう)
 わしはラビを胸に抱いたまま、本を読み始めた。これで仕事がはかどるなら安いものだ。仕事の合間には、孫の顔もゆっくり見れるし。





「あらあら、今日もすいません。おかげで助かりました〜」
 嫁はあいかわらずおっとり笑って、ラビを迎えにきた。赤児はよちよち歩いたが、すぐ転んでふぎゃーと泣く。すぐに両手を伸ばして母親に抱っこをねだった。
「まぁま、やっぱり抱き癖がついちゃったわねぇ」
 嫁は困ったように笑った。
「まぁ、甘えられる内に甘えておくのもよい事だ」
 子供は抱かれる事で安堵を得る。子供の情操教育はやや疎いが、性格の形成には重要な事らしい。やり過ぎると依存度が高くなって、それはそれで困った事だが、エクソシストのいる家庭で穏やかな幼児生活を送る事自体非常に珍しいのだから、この子は幸せなのだろう。息子がこの娘を選んだのも何となく解る気がする。
「それで明日は何時から、この子を預かって下さるんですか〜?」
 嫁はふんわりとした笑顔で怖ろしい事を尋ねた。
「………え?」
「明日は裏の畑さぁ、行ってきますから、早い方が助かるんですけどぉ。お義父さんは家にずっといなさるんでしょお?」
「い、いや、そうじゃが」
 季節は初夏だ。家事に畑。嫁の仕事はいくらでもある。食事の世話から洗濯までやってもらっているのだから、駄 目とは言えない。
「ラビ、ほら、おじいちゃんにバイバイしなさい。また明日って」
 ラビはニパッと笑って、わしに握ぎ握ぎする。その顔が少し勝ち誇っているようだ。



(ムムッ、まさか、わしはこやつらにハメられたのかっ!)



 だとしたら、ちょっと悔しい。まして、この子は赤児だ。末恐ろしい子だと思う。

 





 後年、書斎の本の大半を記憶していた事が判明し、ラビは自動的にブックマンの後継者になった。闇の記録は門外不出だからだ。本を投げて遊んでいただけと思っていたら、全く抜け目のない子である。
「しようもない奴じゃ」
 わしは溜息をついた。結局、適合者である事も同時に判明し、ラビはブカブカの子供用団服を着て、ニマニマ笑っている。
「だが、今日からお前とわしは祖父と孫ではなくて、師匠と弟子じゃぞ」
「解ったよ、パンダ」
「こやつ、少しは師匠に謙譲の心を持たんか」
「だって、急にさぁ」
 ラビはニパッと笑っている。口は悪いわ、言う事は聞かないわ、息子と嫁の悪いところばかり似て、わしの学者風青年を後継者にする夢を見事に砕いてくれおって。
(こやつめ…)
 わしはちょっと苦々しい気分になった。一筋縄ではいかないのがブックマンの性であるとはいえ、とんでもない後継者を持ってしまった予感がする。どうしてくれようか。
「まぁ、とにかく今日はめでたい日。わしからお前にはなむけの言葉を贈ろう」
「はぁい」



「おめでとう、ラビ。将来はわしのように若ハゲの遺伝で悩まされる事を心から祈る」



「ちょっ、ちょっと何だよ、それ!!全然お祝いの言葉じゃないじゃん!」
「うるさいわ。わしの残り少ない髪の毛を遂に一房にしおってからに」
「赤ん坊のかわいい悪戯じゃないさぁ! いつまでも根に持って大人げない爺ぃだなぁ」
「何処がカワイイじゃ! このへっぽこ未熟者が」
「へっぽこ! ひっでえ! 俺は絶対ハゲになんかならないよーだ、因業爺ぃ! これからもっと伸ばすからな」
「フン! 今に解るわ。その時、泣きを見るなよ」
「ならないよーだ」
 ラビはテテテっと走り出した。振り向いて、またいつものように屈託なくニパッと笑う。


「行こうよ、パンダ」


 わしはやれやれと足を踏み出した。


 よくも悪しくも憎たらしい、このかわいい孫。

エンド

結構、好きな二人です。

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