「ベリーベリーストロベリー」3
「あ〜〜〜、着いた〜」
実験室の前で燐は息を切らした。
体力は無限大だがメンタルが弱い。勝呂達に会ったせいでひどく疲れた。
(ったく、何であいつらこんな所にいるんだよ)
「あー、悪ぃ。遅れて。チャチャッと済ませちまおうぜ」
燐はガチャっと扉を開ける。だが、雪男はそこにいない。
室内は仄暗かった。埃と薬品と薬草が混じった匂いがする。
壁は難しそうな書物や標本で埋まっていた。
難解な調合が書かれた書類や魔方陣が描かれた革の巻物など山積みになっている。
照明は壁のろうそくだけだ。
「おっ…さすが凄い雰囲気だなぁ」
おっかなびっくり、燐は雪男の姿を探した。
ドアを開けた時は狭い室内かと思ったが、迷路のようになっており、意外に広い。
何処も袋小路になっていて、燐は長い通路を何度も戻り直した。
しかも棚から溢れた小物や書類にすぐ引っかかりそうになる。
これを壊したら烈火の如く雪男から怒られるだろう。
「うわー、面倒臭い所だぜ。確かに雪男が好きそうなとこだけど」
落ちかけたフラスコを何とか受け止め、片付けながら燐は溜息をついた。
雑然としているように見えるが、棚には数字が書いた札でキチンと整理されている。
こんな場所に燐は5分と持ちそうにない。
ようやく燐は調合室と書かれた扉に突き当たった。
他は大体当たったし、残るはここだけだ。
「おぅ、雪男〜。もう探したぜぇー」
ゲッソリしながら扉を開けた。
いきなり飛び込んできた光に目が眩む。
壁の巨大なステンドグラスから西日が部屋一杯に差し込んでいた。
青や紅い光の様々な色彩が白い壁や机を美しく染め上げている。
その中で雪男はフラスコを試験管に傾け、調合に集中していた。
その動きは精密で何一つ無駄がない。
薬品を注ぐたび起こる化学変化を見守るまなざしは真剣だ。
燐は思わず息を呑んだ。
ステンドグラスを背にした雪男の姿は荘厳で、美しく何故か燐の胸を打った。
医学と魔法の徒である弟はその道に尽くし、殉じている。
まだ祓魔師になる道の途についたばかりの自分とは比べ物にならない。
立ち入ってはならない聖堂を垣間見た気がした。
これが自分の知らなかった雪男のもう一つの顔なのだ。
やがて、一段落したのか、雪男はフラスコを置いた。
燐の存在に気づき、顔を上げる。
「あ、すいません。実験に没頭していて。調合を間違えると大変なので。
あなたが助手の方ですね。理事長から連絡は伺いました。
大層な熟練した腕をお持ちだそうで心強いで…」
淀みなく述べられた言葉が途切れた。
フードを脱いでも、当惑したまま目を合わさない兄の顔とその姿を驚いたように見つめる。
ややあって、心から呆れ返ったように溜息をついた。
「…理事長ときたら」
「そ、そこまでガッカリすんなよ…」
「いや、理事長推薦と聞いた時点で予測しとくべきだったよね。
でも、何でそんな格好してんの?」
「メ、メフィストの野郎がよ。正式な助手はこれ着ろって」
「それを真に受けたの? 騙されたんだよ」
「お、お前だって着たんだろ!? 見たぞ、俺。アルバム!」
「ううっ…!」
雪男は動揺を隠す為に眼鏡の位置を直す。
「ぼっ、僕は仕方ないんだ。
そうでないと祓魔師の奥儀教えないって。
教師専用の書庫で勉強したかったし。
それに僕はまだ子供だったからいいんだっ!」
「お、俺だって…」
(お前の為に)
と、続けようとして燐は言い淀む。
親切の押し売りのように聞こえそうだ。
弟を助けたいと願う心は、押し付けがましくあってはならないと思う。
ただそうしたいだけだからしている。それ以上でも以下でもない。
「は、早く祓魔師になりたいからだ!」
仁王立ちになって建前を叫んだ。雪男は首を傾げる。
「ふーん、前向きで結構だけど、ここは兄さんに手伝ってもらう事は何もないよ?
危険過ぎて兄さんに触らせられない」
「ううううう」
それは重々解っている。
だが、ここまで様々な苦難の道を乗り越えてきたのだ。
帰ってねと言われても引き下がれない。
「何か俺でも手伝える事あるだろ?試験管洗うとか分量量るとか。
俺が料理得意なの知ってるだろ? それと同じ同じ」
「試験管握り潰すのがオチでしょ。
いいよ。兄さんはそこで見学してて。何も触らないでくれるのが一番いいから」
「ええええええ」
燐はブーブー文句を垂れる。
雪男は無視して、調合を再開した。
燐は少しだけ大人しく座っていたが、すぐ退屈した。
薬品棚を眺めたり、珍しい器具を弄り始める。
そのたび「うおっ!?」「おっとと」と、カチャンコチンと喧しい事この上ない。
雪男は何とか黙って耐えようと努めたが、遂に根負けした。
ドス黒い怒りの顔で笑いながら、燐を睥睨する。
「触らないでって言ったよね、兄さん。どうして大人しく出来ないの?」
「だってよー、こんな格好してまで頑張ってるのに何もさせてくんねぇってさ。
俺だって早く一人前になりてぇんだよ。それにまだ何も壊してねぇだろ!」
「まだ、ね」
燐は大きく溜息をついた。
日頃、勉強しない兄からすれば、やる気になるのは大変な進歩だ。
危険だからと遠去けてばかりではせっかくの士気を削ぐ。
兄はこれからもっと熾烈な試練に立ち向かう事が増えるだろう。
壊すのを恐れても始まらない。温かく見守ってやらねば。
(でも、見えている地雷を踏むというのは…)
仕方がない。
自分がよくよく注意してやれば、危機回避も可能な筈だ。
その為に修練を積み、兄を守れるように研磨を重ねたのだから。
(しかし、兄さんは時々僕の予想の斜め上を行くからなぁ)
雪男は背筋を伸ばした。眼鏡をかけ直す。
「解ったよ。その代わり、絶対僕の言う通りにする事。
分量と順序を間違えない事。器具を壊さない事。
まずはマントを脱いで手を洗ってね」
「おう!」
燐は嬉々として調合テーブルの前に立った。
見た事もない薬品や器具が並んでいる。ままごとみたいでワクワクした。
「で、お前、さっきから何をやってるんだ、雪男?」
「明日の授業の実験の準備だよ。
こないだの鬼族(ゴブリン)は失敗しちゃったから、別の魔族召喚を考えないとね」
「うっ! わ、悪かったよ。俺のせいで」
燐は神妙な顔をする。雪男は笑って肩を竦めた。
「別に気にしてないよ。むしろ失敗は早めにしておいた方がいいんだ。
色々対処を覚えるからね。学ぶ事も多いし」
「そうか!俺がやった事はよかったんだな!」
「いや、そうは言ってないから」
喜色を浮かべた燐に雪男はぴしゃりと告げる。
燐は指導通り、薬品を計り始めた。料理で慣らしてるので手際はいい。
「で、今度は何を召喚するんだ?」
「ニンフ。花の妖精だよ。しえみさんが喜ぶかなって。
あのパンジーに憑いていたのは下級霊だから、嫌な思いを忘れてくれたらいいなって。
ニンフは穏やかで美しい精霊だから」
「ふーん…。
でも、大丈夫じゃねぇの?しえみはあんな事で花を嫌いになったりしねぇよ」
雪男はちょっと驚いたように燐を見た。
「そうだね。
でも、彼女はまだ授業に不慣れだから、早く皆についていけるようになって欲しいんだ」
燐は優しい笑みを浮かべる弟の横顔を見た。
しえみは雪男を「雪ちゃん」と呼ぶ。
自分の知らない訓練生の雪男の頃からの知り合いなのだろう。
しえみが雪男を見る目はいつもキラキラしている。自分へのまなざしと違う。
雪男もしえみに優しく接するし、目元も柔らかい。チリッと胸に火花が散った。
(…あれ、俺、何で面白くねぇんだろ)
同じように雪男も、もやもやを抱えていた。
燐は驚くほど早くしえみの中に入り込んでしまった。
自分が慎重にしか人付き合いできないのと正反対だ。
人に敬遠される兄の方が人と真正面に向き合える。
あれほど人間達に疎まれていたのに、それが出来るのは燐が人間を信じているからだ。
かなわないと思いつつ、少し淋しかった。
誰よりも兄にいつまでも人間のままでいて欲しかった。
悪魔の落胤である事も知らないで欲しかった。
それがかなわないと知っていても。
兄を父に代わって守らねばならない。
それは裏返せば、いつまでも兄を庇護下に置きたいからともいえた。
兄が悪魔のカリスマに頼らずとも、人と信頼を築けるようになれば、もう雪男が傍にいる必要はなくなる。
それは幼少の頃立てた誓いの終わりであり、これまで努力してきた日々の終焉でもあった。
燐が自分の存在理由だと雪男はよく知っている。
兄の幸せを誰よりも望んでいるのに、兄の孤独を何処かで望んでいる。
自分だけが兄の理解者。
自分だけが兄の友人。
自分だけを必要とすればいい。
その歪んだ欲望を雪男はずっと押し隠してきた。
兄がしえみという初めての友人を得た事は、確かに望んでいた事であったから。
(僕は兄さんに依存してる)
幼い頃から悪魔が見えた。
そう言うと変な奴だと笑われた。
異質なものを人間は執拗に排除しようとする。
いじめられて泣いてる時、兄はいつも飛んできてくれた。
それが嬉しくて、でも申し訳なくて、変らなければと願っていた。
兄はいつも自分には優しい。
でも、皆に嫌われてる。自分を守る為に誰かを殴るから。
兄が誤解されてるのは自分が弱いからだ。
本当に異質なのは自分なのに。
でも、誰にも見えない悪魔に怯える自分に何が出来るだろうか。
その時、竦んでる雪男に父が道を示してくれたのだ。
『一緒に父さんと戦わないか? 兄さんを守るために』と。
守られるのではなく、守る。
それが嬉しかった。
だから、必死に努力した。
でも、ほんの少しの事で揺らぐ。
(父さん、僕もあなた程、強くいられるだろうか)
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