「ベリーベリーストロベリー」 5

 

「うわっ、甘っ! 何だ、この匂い…」

 燐は咄嗟に腕で鼻を押さえた。
 何処かで嗅いだ香りだ。しえみの花園に似ている。
 だが、これは馥郁とした香りでなくもっとキツイ。女の香水のように生々しかった。
 少し嗅ぐだけで、頭が酔ったようにくらりとする。

「雪男?すまねぇ、何処だ?」
「ダメだ、来るな…ここを出て…って」

 低く押し殺した声がすぐ傍で聞こえた。
 燐は倶利加羅を乱暴に振り回す。煙が風で少し薄れた。

「雪男!」

 弟は調合台を背にして蹲っていた。
 だが、雪男は一人ではない。
 透き通るように美しい見知らぬ女が、背後から絡みつくように抱いている。
 女は絹のような金髪の間から雪男を覗き込んでいた。
 妖艶なまなざしだったが、燐は生理的な嫌悪感に鳥肌が立つ。
 思わず一歩踏み出した。

「雪男に触るんじゃねぇ!離れろ!」
「ああ、この子なのね。あなたの心を捕えて離さないのは。
 驚いた。男の娘なの?」

 女は燐の恫喝など意に介さず、雪男の耳に囁いた。
 その間も艶かしく雪男の身体をまさぐっている。
 長い指が雪男の頬に触れるたび、燐の体温が一度上がる気がした。

「うっせーよ!気色悪い!
 雪男もシャキッとしろよ!お前ならこんな奴何でもないだろ?」
「…うっ」

 だが、雪男は動かない。女に身体を弄られるままになっている。
 燐はムカムカしてきた。
 他人が雪男に触っているのを見せつけられるのがたまらなかった。

「いい加減にしろ!雪男から退け!」

 燐は倶利加羅をスラリと抜いた。同時に青い炎が噴き上がる。
 だが、女は全く怯まなかった。まるで陶酔したようにその炎を見つめる。

「ああ、いいわ…。炎ごと私を焼き尽くして」

 逃げるどころか、女は雪男の体内に潜り込んでしまった。
 雪男は辛そうに両腕を抱いて呻く。
 燐は慌てて駆け寄った。
 『来るな!』と雪男が叫んだが聞こえない。心配そうに覗き込む。

「雪男!雪男?大丈夫か?」
「…何で来るんだ?…もう、ホントに兄さんは。
 いいから出てけよ。
 誰か…治療師か医工騎士を…呼んできて。ニンフェットに…」
「嫌だ!俺のミスだ!俺が何とかする!」
「…解って言ってんの?」

 雪男は呼吸を荒げながら、身を縮めた。
 身体中が疼く。
 あの女が触っている。
 自分の隠していたものをこじ開けようと誘っている。
 衝動に負けそうだ。雪男は固く目を瞑る。
 兄を見たくない。

「さっきのあいつ、何だよ?離れさえすれば、俺が斬ってやったのに」
「ニンフ…だよ。
 召喚ミスで暴走してしまったんだ。
 小鬼は凶暴化するけど、ニンフは性衝動が激しくなる。
 人間の男が欲しくなってたまらない」
「えっ!じゃ、あの女、雪男に…」

 燐は真っ青になった。
 雪男はニンフに逆レイプされてるって事か?
 自分のせいで。冗談じゃない。

「ブッ殺す!! あいつ、俺の弟に!」
「違うって!!」

 雪男は声を荒げた。
 憑依による激痛なら耐えられる。
 だが、快楽はどうにも抗いようがない。
 理性が今にも擦り切れそうだった。
 燐の甘い匂い。汗と肌の香り。唾液の味。女の子の姿。
 それが欲しくて、滅茶苦茶にしたくて仕方ない。
 煽ってるのはニンフだが、この欲情は自分自身のものだ。
 爪を立ててコートにしがみ付いてるのが精一杯だった。

 なのに、このバカ兄と来たら無頓着に喋ったり、動いたりするたびフェロモンを振りまいている。
 怒りの余りぶん殴ってやりたかった。
 しかも燐が背を向けたら耐え切れず、襲い掛かってしまいそうだ。

「彼女は炎に怯えるどころか、欲情して逆上せてしまったんだ。後は鎮めるしかない」
「鎮めるって?」
「だから!…恥ずかしいだろ?解れよ!言わせるなっ!」
「解んねぇよ!ちゃんと言えって!」
「…だから」

 雪男は躊躇した。
 死ぬまでこの想いは秘めておくつもりだった。墓の下まで自分が持っていく。
 兄を守る。
 それ以上でもそれ以下であってもならない。
 純粋なままでなくてはならない。劣情とすり替えてはいけないのだ。
 だが、どうしようもなかった。
 唇から吐息が漏れるように口走る。

「…兄さんを…抱きたい…」

 燐の顔は一瞬強張った。
 俯く弟をジッと見つめていたが小さく呟く。

「…いいぜ。それでお前、それ治るんだろ?」
「ダメだ。解って言ってのかよ?兄弟なんだぞ、俺達!?」
「そんなん生まれた時から知ってらぁ。
 別に小っせぇ頃、ちょっと…色々したじゃねぇか。
 だから、今更怖くなんかねぇよ」
「あんなの子供のじゃれ合いじゃないか!
 …これは違う。僕は、僕は兄さんと本当に…」

 だが、燐は首を強く振った。

「いいって言ってるだろ!?
 俺が誰彼構わずああいう事させると思ってんのかよ?
 お前だから…よかったんじゃねぇか、バカ!
 第一、治療って他の奴にお前のそんな姿見せてたまっか。
 お前に触っていいのも、俺に触っていいのも俺達以外イヤだぜ、俺は」

 燐は雪男の肩を掴んで覗き込んだ。

「それとも、お前は俺がキライか?」

(ズルイよ、兄さんは)

 雪男は唇を噛み締めた。
 拒否できる訳がない。
 ずっと欲しかった。
 でも、それは兄弟愛の延長の感情だと押し潰し続けてきた。
 だけど、忘れられない。
 どうしてもお互いが必要だった。

「…イヤじゃない。嫌な訳がない。
 でも、しちゃいけないんだ」
「バーカ」

 燐は雪男を抱き締めた。

「たまには兄貴らしい事させろよ」

(こんな事、兄弟はしないんだよ)

 最後に残った掠れて読めなくなった思考は、深く合わせた唇の中で溶けて消えた。


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