「オフリード」 1 (雪燐)
「何だ、こりゃ」
燐は自分のベッドを見下ろして呆れ返った。
雪男が祓魔師の制服のまま大の字で寝ている。
靴も履いたままで、珍しく高いびきだ。
顔を近づけるまでもなく、キツイ臭いが鼻を突いた。
(うっ、酒臭ぇ!)
雪男がこんな醜態を晒すなど滅多にない。
お堅く未成年の雪男がいくら色んな事に疲れても酒に逃げる訳がなかった。
犯人はシュラだろう。
いたずら好きの彼女の事だ。
溜め込みがちな雪男をストレス発散させると称して、歯止めが利かなくなったに違いない。
生真面目な雪男は格好の玩具だから。
(…ったくよぉ。やり過ぎだぜ、あの女〜)
ベッドが泥だらけだ。燐は何とかブーツを脱がせたが、コートまでは無理だった。
雪男は完全に出来上がっていて、ピクリとも動かない。
(未成年にここまで呑ますか、普通?)
シュラは酒癖が悪かったし、雪男は絡まれるとムキになる所があった。
明日は休日だからシュラも悪ふざけが過ぎたのだろう。
だが、雪男がベッドを間違えるとは、余程前後不覚に酔ったらしい。
見た目は結構強そうに見えるが、殆ど呑んだ事がない筈だ。
燐の監視役となってからは洋酒入りの洋菓子も敬遠してるほどだから。
背伸びばかりして張り詰めている弟は父の死以後、滅多に素で笑う事が減った気がする。
シュラがお目付け役についてから、雪男と離れる事が増えた。
雪男は学生と教員の二足の草鞋だし、正式な祓魔師でもある。
任務で出向する事も多くなった。
人手不足もあるのだが、うるさ型の雪男を遠ざけたいシュラの思惑も働いているのだろう。
(せっかく久しぶりに逢えたってのによぉ)
燐は雪男の傍らに腰を下ろした。
部屋は同室だが、毎日薬学の授業がある訳ではない。
雪男の帰宅が深夜に及ぶ事もある。
その頃、燐は高いびきだ。
そんな訳で弟の顔をじっくり見たのは久しぶりだった。
(そういや、雪男の寝顔を見たのっていつ以来だっけ?)
弟が病弱だった頃は寝顔と泣き顔がディフォルトだった。
だが、今は三時間睡眠だから、常に起きている印象がある。
体を重ねる事を覚えたものの、同じベッドで朝を迎えるという甘い関係には至っていない。
雪男は休日でも仕事で出かけるし、勉学や授業の準備も怠らない。
燐は燐でシュラと特訓の日々だ。
その合間を縫って、息せき切って愛し合う状況だった。
普通の恋人同士なら、とっくに我慢出来ないか、尻すぼみになりそうだが、兄弟だからか、まだ険悪なムードはなっていない。
お互い忙し過ぎるせいだろうか。
でも、久しぶりに逢うと、ホッとすると同時にドッと身体中に切なさがこみ上げてきた。
見慣れてる筈の雪男の顔も寝顔というだけでいつもと違って見える。
妙に胸がザワザワして、鼓動がうるさい。
(何だ…俺…変だ)
普通なら酔っ払いなど面倒だと思うだけなのに、上気した弟の顔が妙にそそられる。
睫毛が長いとか顎の線とか、普段目に止めない所ばかり見つけてしまう。
雪男は自分に比べ、顔立ちが少し地味だ。
昔はかわいかったのに、最近はいつも額にしわを寄せてるか、商業スマイルを浮かべている。
のび太か銀魂の新八に似てると(ケンカしてる時は)思うのだが、寝てると仮面が外れて、ごく歳相応な顔だった。
背も高いし、優等生で人当たりも柔らかいから、相当女子に人気あるらしい。
(こいつの本性知らねぇから。…ったく、ベッドでのこいつを教えてやりてぇよ)
溜息が出る。特に雪男が女子に囲まれてる時は何となく面白くない。
(でも…まぁ、雪男も…そのかっこい…いや、マシな時はあるからな。俺様程じゃねぇけど)
何となく顔が紅くなる。
戦闘時の雪男のガン捌きは燐でも見惚れる時があった。
二丁拳銃の使い手で体も筋肉がつき、身長も燐より7センチも高い。
ぷにぷにしていた掌もいつの間にか潰れまくったマメと固くなった皮膚でささくれ立っている。
関節も太い。こうなるまでどんな努力をしてきたのだろうか。
(ジジイにそっくりな…手)
獅郎も同じ手をしていた。大きくて強くて、とても優しく温かい手だった。
でも、やはりささくれ立って傷だらけだった。
クロは燐は獅郎と同じ匂いがすると言う。
(血が繋がってないのに、俺達どんどんジジイに似てくんだなぁ)
何となくそれが嬉しい。血よりも育ちなのだろうか。
昔は本当の親がどんなものか気になった。
でも、今思い出すのは獅郎との幸せだった日々ばかりだ。
自分という忌むべき存在を丸ごと愛してくれた養父。
そして今、自分を無条件に愛してくれるのは雪男だけだ。
獅郎も雪男の手も誰かを守ろうとする手だ。
(俺はこの手が…好きだ)
燐はそっと雪男の手に触れた。
少し火照っていて熱い。その体温にずっと触れていたいと思う。
指で手の甲を撫でた。
「…ん」
雪男が身じろぐ。燐は飛び上がった。
「おおお、脅かすない」
熟睡してると思っていただけに、心臓の鼓動が跳ね上がる。
燐はビクビクしながら雪男の顔を覗き込んだ。
やはり完全に眠っている。起きる気配はない。
「もう、起きるか寝るかはっきりしろよ」
燐は溜息をついた。何か淋しい。
いつもは小姑かおかんのようにうるさいが、いないと物足りない。
「平和そうに寝やがって」
いつも雪男を置いて爆睡するのは燐の特権だったのに。
じっと寝顔を見てるのも飽きてきた。
「うりゃ」
試しに両頬を摘んでふに〜と引っ張ってみた。
意外と伸びる。鼻を押さえてブタにした。
「ワハハハハ、面白ぇ! ブタめがね!」
散々笑い倒して、すぐ虚しくなった。
リアクションがなければつまらない。何だか体も心もジリジリする。
「もう〜、起きろよ。雪男ぉ」
燐は雪男の顔を覗き込んだ。
「起きねぇなら、いらずらスっぞぉ?」
(ちょっとだけ…だから。そうそう、ちょっとだけ)
身を乗り出して、雪男に屈みこむ。
やはり息が少し酒臭い。煙草とは違う大人の香り。
シュラには何とも感じないのに、雪男からは強烈な風が吹いてくる。
クラッとした。
(お、俺、酒の匂いだけで酔ってんのかな?)
解らない。雪男のコートの襟元からこぼれる体臭と相まって、妙に興奮している。
キスなどもう何回もやったのに。
唇をおずおずと重ねた。触れるだけのキス。
少し乾いたザラついた唇の感触が痛い。
でも、掌と同じく燐の官能を刺激する。
角度を変えて、唇を幾度も啄ばんだ。
「…んぁ」
「〜〜〜っひ!」
くすぐったいのか雪男がまた身じろいだので、燐は慌てて飛び退った。
が、変化はない。心臓が飛び出さんばかりにバクバクいっている。
驚かされた事に腹が立った。もう少し何かせねば気がすまない。
(へへっ、こ、こんな程度じゃイタズラって言わねぇよな)
もう一度燐は雪男の上にかがみ込んだ。
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