「しっぽのきもち」

 

 ビャ〜ッと大きな泣き声が浴室から響き渡った。

「あ〜、もう…」

 素っ裸のまま、男一人と幼児が二人。
 双子に挟まれて、獅郎は頭を掻きながら立ち尽くす。
 彼を遮蔽物にして、双子は対峙していた。
 雪男はオンオン泣いているし、燐はまだ怒りが収まらぬのか弟を睨みつけていた。
 隙があったら、また叩こうとするので、獅郎は自分を盾にして雪男を守っている。

「燐、お前、お兄ちゃんだろ。いい加減にしろ」
「俺、悪くねぇもん! 先にやったのは雪男だろっ!」

 キカン気の強い子供は頭に血が上ると言う事を聞かない。唸りながら膨れっ面する。
 ギロリと獅郎を見返すと、また雪男の泣き顔を忌々しげに睨んだ。

「あれ、どうしたんですか?」

 修道士の井川が騒ぎを聞きつけて顔を出した。

「あ、まぁ、こいつらがな…」

 獅郎が顔を上げた一瞬の隙を突いて、燐はまた雪男の頭をピシャンとぶった。
 雪男は火がついたように泣き出す。
 そのまま、身を翻し、燐は脱兎の如く部屋を飛び出した。

「あっ、こら燐!」

 おかげで廊下はビショビショだ。
 獅郎は溜息をつき、バスタオルを一枚井川に放る。

「すまんが、燐をとっ捕まえて、よく拭いてやってくれ。風邪引いちまう」
「はぁ、一体どうしたんですか?」

 修道士の中で井川は燐を然程恐れていない部類だったが、ベルセルク染みた怪力は別問題だ。
 たかがタオルで拭く為に結界を張る事態にしたくない。
 憤怒さえ収まれば、至って素直なのだから、事情は聞いておきたかった。

「珍しいですね。ケンカしても、燐君が雪男君をぶつなんて滅多にないのに」

 怒りの余り、幼稚園で獅郎の肋骨を折って以来、燐は家族を傷つける事を恐れるようになった。
 他人の無頓着な言動には相変わらずキレるが、理由なく人を叩く子ではない。
 弟の面倒をよく見るし、日頃は仲のいい兄弟なのに。

「いや、雪男の奴がな。燐のしっぽをいきなりギューッと握っちまってな。
 燐の奴、よっぽど痛かったんだろうなぁ」
「ああ、それで…」

 井川は合点が行った。
 覚醒していない燐のしっぽは、まだ子犬程度だったが悪魔の急所だ。
 井川も男だから、その痛みは想像できる。

「たまの事で一緒に風呂に入ったのがマズかったかな?
 この歳だと体の違いに興味を持ってもしゃーねぇか。
 燐の事は頼むわ。俺も後で行くから」
「はぁ、出来ればお早く」

 井川は猛獣狩りに赴くような顔つきでタオルを握り締めた。決死の覚悟で立ち去る。
 獅郎はもう一度溜息をつき、ようやく泣き止み始めた雪男の頭にバサッとバスタオルをかけた。
 涙でドロドロな雪男はタオルをギューッと握り締め、顔を隠す。

「どした、雪男?」

 獅郎は雪男の傍らに跪いた。
 自分に正直で奔放な燐に比べ、雪男はひどく扱いやすい子供だった。
 未熟児だっただけでなく、抵抗力のない幼児に魔障は強過ぎる。
 今も病弱で成長が遅かったが、精神面は歳相応でない所があった。
 聡い子だから、大人ばかりの修道院の空気を読んでいるのだろう。
 大人にどうすれば気に入られるか、兄の分まで学ぼうとしているかのようだった。
 獅郎はそれをどうしてやる事も出来ない。
 その雪男がこんな事をしでかすのはよくよくの事だ。

「…ズルイんだもん」

 雪男はようやく蚊の鳴くような声で言った。

「何がだ?」
「だって、双子なのに兄たんだけしっぽがあるんだもん。僕も欲しい」

 この頃の雪男はまだ舌足らずだった。『兄ちゃん』と発音出来ない。
 幼児は頭の中身より身体能力でお互いの優劣を決める。
 動きも鈍くて、よく転ぶ雪男は他の子供にからかわれてばかりだった。

 だが、兄はかっこよかった。
 腕力があって、敏捷で、足が速く、誰よりも高く飛べる。
 雪男の出来ない事を何だって出来た。
 だから、ずっと憧れていたし、その秘密は何だろうとずっと不思議に思っていた。
 双子なのに、自分は何故こんなひ弱で、しかもいつも怖いものに取り囲まれているのか。
 兄も他人と同じく怖いものが見えないらしい。
 きっと兄が強いから怖いものも寄り付かないのだろう。
 それが羨ましかった。

 二人の違う理由が何処かにある。
 それさえ手に入れたらきっと兄と同じになれるのだ。
 それはきっと目に見えるものに違いない。
 兄にあって、自分にないもの。
 幼い雪男がそう思うのも無理なかった。

 そして、今日遂に発見した。
 兄には子犬のように立派なしっぽがある事に。

 赤ん坊の頃は一緒だったが、物心つくと二人別々に風呂に入るように言われた。
 然程、妙な事とは思わなかった。
 元気な燐は遅くまで外で遊び回る事が多い上、いつも泥だらけでまず外で手足の泥を落とさねば、とても浴槽に入れられない。
 雪男は本を読むのが好きだったし、集団生活の規則を守るのに慣れていた。
 だから、普段も入浴時間がかぶる事はなかったのだ。

 だが、今日は珍しく多忙な獅郎が教会にいて、それで父さんと一緒にどうだという話になった。
 家族一緒というのが嬉しくて、二人ではしゃぎながら浴室に行った。
 そして、服を脱いだ時、雪男は燐の秘密を見てしまった。
 何となく記憶があるから、もっと幼い頃も燐にしっぽはあったのだろう。
 だが、今の燐のしっぽはふさふさして、柴犬のしっぽと同じ位の長さになっていた。
 黒くて立派でピンと立ってかっこいい。
 まるで誇らしげに散歩する犬のようだ。

(これだ!)

 と、思った。
 父を見上げると、特に燐のしっぽを不思議に思ってないようだ。
 父にはしっぽがないから、恐らく元気な子供はしっぽがあって、大人になったら消えてしまうのだろう。
 図鑑で読んだ植物の種の子葉のように、子供に必要な栄養をくれるのだ。
 雪男にはこれがないから、きっと虚弱体質なのだろう。
 燐の元気の印。
 風呂の中で機嫌よくフリフリしているしっぽを見ながら、雪男の胸に羨ましさがこみ上げてきた。

(これがあったら、兄たんと一緒に遊べる)

 幼い頃から寝込んでばかりいた。
 誰かの世話になるのも、兄が遊びに行くのを見送るのも嫌だった。
 どうしてこれが自分にないのか。

(握ったら、どうかな?)

 病気みたいに『移る』かも知れない。
 雪男が病みついている時、傍にいたがる燐を『移る移る』と追い払われていたのを、雪男は何度も聞いていた。
 きっと、あのしっぽも雪男がギュッと握ったら、手からツゥーッと伝わって、明日にはピョコンと生えてくるだろう。
 そうすれば、雪男もみるみる元気になる。
 兄と一緒に駆け回ったり、街を探検できるのだ。
 兄が身振り手振り話すのを枕元で聞くのも楽しいが、やはり一緒に体験したい。
 実際に見たり、感じたりしたい。

 例え、寝込んでない日も雪男はとても燐の足に追いつけなかった。
 一緒に遊ぶと熱が出て、余計に寝込んでしまうのだ。
 いつもいつも、兄の背中を見送って淋しい思いをするばかりだった。

 でも、しっぽさえ生えたらそんな切ない日々は終る。
 塀の上で並んでアイスを食べたり、樹の上で涼しい風を感じたり、カブト虫を捕まえたりできるのだ。
 夏の熱い線路を何処までも歩いていける。
 原っぱの虫が走るたび、飛び出すのも見れる。
 ブランコを空高く漕ぐ事だって出来る。
 鉄棒だって大車輪を出来るようになる。
 一緒に笑ったり、喜んだり出来るのだ。
 兄と一緒なら何処へだって行ける。
 空だって捕まえられる。

 なのに、兄のしっぽを握った結果は、凄まじい悲鳴とビンタだった。
 痛かったけれど、痛くて泣いた訳ではなかった。

『お前は俺の世界に来んな!』

 そう宣言されたようだった。その拒絶が辛かったのだ。
 自分は兄と同じ世界にいられない。
 入ってはいけない。傍にいられない。
 二人には越えられない壁がある。
 それを燐は痛みと共に突きつけてきたのだ。
 撥ねつけられるとは思ってもみなかっただけに、それが悲しかった。
 あんなに優しい兄が世界を分けてくれない。
 兄と同じものを感じる事も見る事も出来ない。置いていかれるばかり。

 自分は永遠にこちら側。
 兄の走る場所には辿り着けない。
 それが辛い。何よりも悲しい。

「そうだなぁ。でも、俺もねぇんだ」

 獅郎はそう呟いて、雪男の髪をわしゃわしゃと拭いた。

「誰もしっぽを持ってねぇ。燐だけなんだ。解るな?」
「う〜」

 よく解らなかった。
 しっぽを持ってるのは兄だけなのか?兄だけが特別なのか?
 雪男は銭湯に入った事もないし、体が弱いから幼稚園のプールもいつも見学だった。
 それに他の人は関係ない。肝心なのは兄だけだ。
 ただ、自分は何か欠けているから弱い。
 劣っているのはしっぽのせいだと思ったのだ。
 ならば、何が違うというのだろう。納得出来ない。

「僕もしっぽが欲しいよ。兄たんと一緒になりたい。どうしたら生えるの?」

 雪男の必死な面持ちに獅郎は苦い顔をした。
 未熟児だった雪男はサタンの洗礼から免れた。
 だが、魔障からは逃れられず、ヴァチカンは雪男をサタンの落胤の一人と看做している。
 疑わしきは…という訳だ。
 今は正常な人間でも、いつ覚醒するか解らない。
 獅郎が燐だけでなく、雪男も手元で育てているのはその為だ。

 二人がかわいい。
 燐は凶暴性と暴虐の血を備えているが、家族思いのいい子だ。
 力を誇示して、周りを屈従させる事もない。
 他人の為に怒ったり、思いやったり出来る優しい子なのだ。
 雪男はその兄を一途に慕っている。
 何より二人共、人の心の痛みを感じ取れる感受性を持っている。
 それが何より得がたい資質だった。

 このまままっすぐ成長すれば、心に幅のある豊かな人間になるだろう。
 いつまでも真実など知らず、ただの人間として成長して欲しかった。
 サタンの炎は決して人の心まで焼き尽くせはしない。
 それがかなわぬ願いでも、出来るだけその瞬間を引き伸ばしたかった。
 そして、それは今ではない。

「一緒にはなれない。人間、誰でも生まれた時から一人なんだ。
 燐は燐。お前はお前だ」
「どうして?僕達、一緒に生まれたのに!そんなのやだよ。一緒がいいよ」
「そうだ。一緒になりたいけど、なれない。
 だから、相手を愛しく想う。大事にしようとするんだ。かけがえのないただ一人の相手だから」
「うん…でも…」
「淋しいな」
「うん…」

 雪男は俯いた。父までがそう言う。
 では、やはり兄の場所には辿り着けぬのか。いつも見送るだけなのだろうか。
 またポタリと瞳から涙が零れ落ちた。
 獅郎はそっと拭ってやる。

「例えば、お前は怖いものが見えるよな、雪男」
「うん」
「でも、燐には見えない。他の人にも見えない。
 お前は見えるせいで嫌な思いを一杯するだろ?」
「うん」

 皆も見えると思っていた。何で平気な顔をしていられるんだろうって。
 だから、怖いと同じ思いを分かち合おうと、蠢く存在について話した。
 でも、周囲からの反応は『変な奴』『気持ち悪い』という烙印だった。
 関心を引く為に嘘をついてるのだとすら言われた。
 孤児で病弱である事も相まって、一度押されたスタンプは一向に雪男から剥がれ落ちない。

「燐もそうだ。しっぽなんぞあるせいで、その…元気過ぎて力が有り余ってて、皆から誤解されたりする」

 雪男は必死に首を振った。

「兄たんは悪くない!変な事言われたら怒るの当たり前だもん。
 花壇を踏んだり、子犬に石を投げるの怒っただけだもん。
 それに僕をかばって戦ってくれたんだ。兄たんは優しいよ!」

 いつだってそうだった。燐が怒る時はちゃんと理由がある。
 でも、周囲は結果しか見てくれない。
 怪我をさせた燐だけが悪いと責めるのだ。
 獅郎は大きく頷いた。

「そうだ。俺達は燐が優しいと知っている。
 でも、ちょっとやり過ぎだって事も解ってる」
「それは…しっぽのせいなの?」
「ああ…だから、燐はしっぽを隠さなくちゃいけない」

 雪男は幼い頭で必死に考えた。
 獅郎の言いたい事は何となく解った。
 しっぽのある事は雪男が思う程良い事ばかりではないのだ。
 そして、自分が怖いものを見える力と同じく、誰かに気軽に吹聴していいものでもない事を。
 喋ったら、烙印を押される。
 その拒絶の惨さを雪男は身に染みて知っている。
 望んではいけないし、口にしてもいけない。嫌な思いをしたくなかったら。

 でも、それでも。

(僕は…)

 兄と一緒に見たい。同じ夏の空を。同じ目の高さで。

「しっぽなんかなくてもいいよ。
 ただ、僕…兄たんと一緒にいたいんだ。
 しっぽがなくても、一緒にいてもいいんでしょ?」

 獅郎は微笑んだ。

「ああ、もちろんだ。一緒にいられるさ」
「ホント?ホントに一緒にいてもいいの?」
「それにはお前が頑張らないとな」
「どうしたらいいの?しっぽないのに」
「人はしっぽなんかなくたって、知恵と努力で何とかしてきた。
 お前だって頑張れば何でも出来る。怖いものとも戦えるようになる。
 体を鍛えて、一杯学べばな」

 雪男の顔がパッと輝いた。

「ホント?
 僕も兄たんみたいにミキサー車の上、走り回ったり、クレーン車によじ登ったり出来るようになるの?」
「そんな事しとるんか、あいつは! 後でお尻ペンペンだな」

 獅郎は苦い顔をして呆れた。お尻ペンペンという言葉に雪男は思わず笑う。
 と、二人同時にくしゃみした。

「おっと、こりゃイカン。雪男、バンザイだ。ポンポンしてやる。
 燐もペンペンしたら、ポンポンな」

 雪男が両手を挙げると、獅郎はシッカロールをポンポンして、全身を真っ白にしてくれた。

 

「へぇ、世界にゃ俺みたいにしっぽのある奴いんだな」

 双子は風呂上りの熱を冷ましながら、寝っ転がってTVを見ていた。
 世界ビックリ人間では獣から進化した名残という人間が紹介されている。
 そのしっぽは燐よりずっと長くて膝までもあった。

「でも、あの人、兄たんみたいに毛が生えてないね。ツルッとして紐みたい」
「そりゃ、俺のしっぽは世界一だもん。あいつはしっぽを動かす事も出来ねぇじゃん」

 燐は誇らしげにしっぽをブンブン振って見せた。

「だよね!凄いな、兄たんは」
「だろう!」

 誰かに怒られてばかりなので、褒められると燐は本当に嬉しそうな顔をする。
 雪男が謝った上、アイスキャンデーをくれたので、燐はご機嫌だった。
 ケンカなどすっかり忘れて二人でじゃれ合っている。

「…いいんですか、藤本神父。二人にあんな番組を見せて」

 井川が心配そうに囁いた。
 敬虔な井川にとれば、低俗極まりなく思える。子供らへの悪影響が心配だった。

「いいんだよ。びっくり人間でいられる内が華さ。
 あいつらがそれを信じてられるなら、俺はどんな努力も惜しまねぇ。
 燐の相手させて悪かったな」
「いえ、藤本神父こそ。屋根まで登って燐君追いかけて」
「なぁに。いつもの事さ。クリスマスの予行演習と思えばいい」

 獅郎は笑った。
 いずれにせよ、人はサンタクロースがいない事に気づく。
 サンタにサタン。
 一字違いだというのに、その存在の有無に気づく時は夢の終わりだ。
 恐らく、体だけでなく心からも血を流すだろうが。

 だったら、この夢くらい、もう少し見ていよう。
 自分のような人間に許されると思ってもみなかった夢を齎してくれた双子の為に。
 初めて、人間らしい気分を味合わせてくれたお返しに。

 燐が振り返って叫んだ。

「なぁ、ジジイ!俺もTVに出たい!」
「バァカ。お前のようなガキが相手にされっか」
「くそー、いいじゃんか。俺のしっぽの方が絶対立派なのにぃ」
「ダメだよ。同じネタがかぶっちゃいけないんだよ、兄たん。違うの考えなくちゃ」
「チェー、けどよぉ」

 しっぽを隠す事を学んだ雪男がさりげなく牽制している。

(何となく役割分担が出来てきたな)

 自分だけでは夢を守れない。
 いずれそっと揺すぶって起こす事になるだろう。恐らく先に雪男の方を。
 でも、それまでは子供の安らかな眠りを守るのが大人の仕事だ。

「じゃさ、じゃさ、タンス持ち上げるのとかは?お手玉とかしたらTV出られる?」

 燐はまだ諦めてなかった。
 早速タンスに手をかけて、持ち上げ始める。

「兄たんっ!」
「燐ぃぃぃぃぃぃんっ!」

 こんな夢があってもいい。
 まぁ、ほんのしばらくの間でも。

エンド

仔雪男と仔燐。幼稚園くらい。
ちっちゃくても、やっぱり燐にしっぽが欲しい。
普段の扱いに慣れてるとこみると昔からあったんじゃないかなーと思う。
獅郎と燐編は書きたいなぁ。


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