朝はまた来る(ロイバージョン)

 

 

 そして、また朝が来た。
 目など開けたくないが、目は覚める。寝癖だらけのボサボサの頭で起き上がった。
 虚ろな目が部屋の惨状を写す。脱ぎ散らかした服。読み捨てた雑誌や本。書類。紙屑。酒瓶。つまみの袋。サンドイッチの食べ残し。溶ききった氷。砕け散ったガラスのコップ。
 だが、それを見ても何とも思わない。何の意味もない。
『相変わらずお前はだらしねぇなぁ、ロイ。これ見たら女共が逃げちまうぜ』
 勝手に押し掛けてきて、そう言いながらも、片づける訳でもなし、足で自分の座る場所だけ作っていた男はもういない。
 あの声に叱ってほしい。うるさいと反論したい。私の事なんかほっといてくれと言いたい。叫びたい。
『ヒューズ!』
 あの夜から私はずっと見えない相手に叫び続けてる。いつか声が届く事を祈りながら、声が枯れるまで叫び続けてる。同じ名を。只一つの名を。
 胸の奥で、心の中で叫び声は止まない。
 目が用心深く、電話だけ避ける。コードはあの日から引っこ抜いてある。部下には電話の故障だと言ってある。仕事でない限り、極力電話を取る気になれない。ベルに怯える。動揺する。期待する。無言の発信音など二度と聞く気になれない。
 喉が腫れてる。目が乾いてる。泣いた訳でもないのに。
 身動きもできない。ただ途方に暮れている。
 今日は休みだ。セントラルに来て、初めての。
『いい店を見つけといた。中央に来たら、栄転の祝いをしてやるよ』
 そう言った男の約束は宙に浮いたままだ。その店の名すら聞かないまま。
 あいつ以外と何処へ飲みに行く気にもなれない。
 もう一度、ベッドに突っ伏して、埋没して、何もかも忘れて、泥のように眠ってしまいたい、消えてしまいたいけれど、シーツの感触は、毛布の暖かみは否応なく、あいつを思い出して、背中だの、器用な指先だの、口から匂った煙草の香りだの、唇だの迫ってきて、押し寄せてきて、たまらなくなって転がるようにベッドから逃げ出す。滑り落ちる。
 崩れるようにベッドの脇に座り込み、ぼんやりと床を見つめる。
 そのまま、啜り泣いて、顔を覆って、我を忘れてしまえたら楽なのに、どうしても出来ない。
 胸の奥で、喉の奥で、冷たくて熱いものがどっしりと腰を据えて、吐き出せない。頭まで血が上らない。手足が、指先が冷えて、あいつも最後の時はどうだったろうか、夜気に、石畳の冷たさに体温を奪われていくのは、どんな気分だったろうかと、そればかり反復する。反復する。反復し続けて、辛くて、止めたくて、止められなくて、拳を床に叩きつけて、喘いでやっと止まる。
 捜査は呆気なく打ち切られ(先に殺された将軍達の捜査の方が優先されたと、説明を受けた)手がかりも切れ、目撃者も現れず、犯人は雲を掴むようにかき消え、あいつの事は迷宮入り書類のファイルの一項目となり、遺族には特謝の年金が組まれて、公式には完全に手から放れて、薄暗い倉庫の中へ片づけられる。
 あいつを埋もれさせるものか。
 このまま終わらせるものか。
 怒りで目が眩みそうになる。何故、もっと早く言わなかったんだ、ヒューズ。私に心配かけまいと思ったのか?余計な事だと思ったのか?お前はいつもそうだ。勘がいい癖に、自分自身だけで判断して、ぎりぎりまで黙っている。 それがどれだけ人の心を苛つかせるかお構いなしに。
『軍がやべぇ』
あいつが最後に言い残した言葉。エルリック兄弟。賢者の石。何故、大総統自らが第五研究所掃討の陣頭指揮に立つ必要があったのか。 その意味を見つけずにはおかない。
 中央に異動になると同時に捜査資料に取り組んだ。書庫に入り込み、あいつを殺したものを探し求めた。
 だが
『ひどい顔ですね。もう何日寝てないんですか。このままだと倒れますよ。どんな事情があろうと、言い訳を並べようと明日は休んで下さい。ああ、あなたにこんな事を言う日が来るなんて』
 と、ホークアイ中尉に溜息をつかれながら、資料を取り上げられ、司令部から放り出された。
 仕事でもすれば、軍服を着れば、部下に囲まれていれば、まだ正気でいられるが、今日は休みだ。
 何も出来ず、どうしようもなく、肩書きも取れて、ただの無力な若造に、人間に、ロイ=マスタングという只の男に成り下がって、こんなゴミタメに埋もれている。
 あの日、ヒューズの検死に立ち会った。
 ホークアイ中尉はまなじりを吊り上げて止めたが、私は聞かなかった。
 捜査の為だ。手がかりの為だ。公私混同なんてしていないと言い捨てて、あいつの遺体に付き添った。見ずにいられなかった。
 メスに切り刻まれるあいつを見つめ続けた。綺麗な中身だった。煙草飲んで、酒飲んで、戦場で粗食に耐えた身体にしては綺麗な中身だった。
 人のいい笑みの下で結構冷徹で、腹黒い面も持ち合わせてたから、何処か黒い部分があるだろうと、嗤ってやろうと思っていたのに、健康で良好で、銃弾が脊髄や肺やら粉砕している以外死因はなかった。
 あいつが死んだ理由はそれだけだった。
『何もなかったら長生きしたでしょうな』
 残念そうに呟いた検死医の言葉を聞いた時の、あの時の足元が轟くような震えは今も続いてる。
 葬式の時、どうにか涙一つでこらえた悲しみも、一人になると、夜になると、明け方になると、日を重ねると、却って膨らんで、大きくなって、重くなって、虚無となって、思考を停止させる。
 食欲もない。吐き気ばかりで、喪失感で心に穴が広がるばかりで、埋まらない。
 私はどうしたんだ、戦争で人の死なんか見慣れてきたじゃないか、山のように殺したじゃないか、街ごと消したじゃないか、そう自分に言い聞かせても止まらない。
 指先一つで人殺しになったくせに、たった一人が死んだだけでどうしてこんなに世界が崩れてしまうのか、壊れてしまうのか解らない。犯人への怒りは、軍部への憤りはと思っても、心は動かない。
 真っ白な無力感と悔しさで心の何処かが疼いてもいい筈なのに、ただうなだれて床を見つめてる。
「おい、ヒューズ。私はお前の中身まで見てしまったぞ。お前の女房にも見せてないだろう、そんな所は」
 おかしな優越感がこみ上げる。低く笑う。
「悔しかったら、出てこい………ここに来い」
 自分でないような乾いた声が唇から漏れる。懇願する。何もない空間に願いだけが拡散する。
 うつろな目が白いシャツの上に止まった。
 あいつがたった一枚残していったシャツ。真夏日に汗みずくになったからと脱ぎ捨てていった。いつか取りに来るからとそのまま忘れてしまった。
 もう汗で黄ばんでしまったけれど、そのシャツで顔を覆うと、あいつの匂いが一杯に広がって、聞こえない筈の声が耳たぶを噛んで、鼓膜を震わせる。
『……ロイ』
 あの低い声が脊髄を伝って、私の下腹部を痺れさせる。
 あいつが結婚して、夜の関係は何となく疎遠になってしまった。戦時下だけの事と割り切って、気づかないようにしていたのに、今になってこみ上げて、膨れ上がって、どうにもならない。あいつにもっと触れておけばよかった。抱かれておけばよかった。理由なんて後でつければよかったのだ。
 片意地張って、平気なふりして、対等でいたくて、必死だった。あいつが
『しょうがねぇなぁ、お前は』
  と困った顔で笑うのが好きだった。あいつさえいればよかった。
 でも、忘れようとした。あいつの熱さを望んでも、それを飲み込むのが大人だと思っていた。親友でいい。それだけでいい。あいつを失う位 なら、セックスなど何程でもなかった。
 だが、今になって、こんなにもあいつが恋しい。あの無骨な手が、ざらついた顎髭の感触が欲しい。
『……ロイ』
 あいつのまなざし。
『……ロイ』
 あいつの匂い。
 頭が熱い。体が熱い。冷え切っている筈の身体が熱くて押さえきれない。
「ヒューズ」
 駄目だ、いけないと思いながら、シャツを下半身にあてがう。シャツが、ヒューズのシャツが私のアレに絡みつく。
 理性が吹っ飛んだ。
「あ……」
 私はしごく。目を瞑り、あいつの指、あいつの声、脂臭い息、腕の強さ、胸の暖かさを一杯に感じ、必死に何も考えず、ただそれだけを、あいつだけを味わって、想って、息を切らし、他に何も要らず、声を上げ、喘ぎ、昇り詰め、顎を上げて、腰を震わせ、あいつを、ヒューズを感じる。
「あ……っ、ああっ、ヒューズッ、ヒュー…!」
 身体が弛緩する。どろりと熱いものをシャツに吐き出す。天井を見上げたまま、放心する。自慰なのに、こんなにもキツイ程、感じるなんてどうかしてる。嘘っぱちの快感を嫌悪する。
 胸が痛い。
 私はシャツを握り締め、もう一度顔に押し当てる。私はどうかしてるんだ。理性が囁くがどうにもならない。自分の雄の匂いが剥ぎ取りたい程疎ましい。
 シャツをもぎ放し、腹にずっしりと重い痼りを抱えたまま、どうにか洗面所に向かう。鏡が灰色の顔を写 す。死んだ魚のような目が私を見返す。まばらな無精ひげも、ばさばさな髪も、二日酔いの充血した寝不足の目のくぼみも、自分自身とは思えず、他人のような気分で歯を磨く。
 目の端にヒューズの残していった歯ブラシが写る。東部に置いてきた筈なのに、無意識に置いたのか。何で捨てきれないんだ、片づけなければと激しく思うが、動けない。
  どうしても触れられない。多分永遠に直さないんだと解っていて、このまま化石になるのだ。
 たった一本の歯ブラシ。
  何気ない朝のキス。照れ屋の私にいつも仕掛けてきたヒューズのキス。目覚めのキス。あの時のキス。歯磨きをした後のミント臭い口づけの味が、突然口一杯に広がった。
 
吐き気がする。もどして、殆ど残っていない夕べの残滓を洗面 所にぶちまけて、洗面台に縋り付いた。胃液で喉が痛い。
 ひどい顔だ。
 鏡の中の私は。
 戦場でもここまでひどい顔はしてなかったなと思う。身体を、心を切り刻んで鮫に与えるような日々だったにも関わらず。
 あいつがいた。たったそれだけで私はまだ人間らしい顔をしていられた。あそこより腐った日常はないと思っていたのに。
 過去への思いは海鳴りのようだ。また声が、あいつの匂いが押し寄せてくる。翻弄されて、苦しくて、目眩がして、コートをひっつかんで外に出た。
(しかし)
 何処へ行ったらいいのだろう。久しく訪れていないヒューズ家か。独身の時はよく行ったあいつの家も結婚してから足が遠のいた。のろけを直に聞かされ、見せつけられるのが苦痛だったし、幸せそうな二人を見ると、胸がどうしようもなく疼いて、顔が強ばった。エリシアが生まれた時行ったのが最後ではないだろうか。東部に配属されたのも言い訳になった。
 今更行っても、あいつの妻、あいつの娘、あいつの所有物に囲まれて、正気でいられるとも思えない。
 グレイシアと私の見ていたヒューズは多分違う。同じだけど、違う。親友の友人として、彼女を慰めるのが礼儀だろうが、今は駄 目だ。まだ駄目だ。
 だが、そうなると当てがない。
 朝。気持ちのいい朝。誰にも例外なく訪れるいつも通りの朝だけれど、私にはやるせなく、重苦しく、時間の経過を示すものでしかない。空もどんよりとして暗かった。
 でも、部屋には戻れなくて、行き場がなくて歩き始める。寮はかつてヒューズも住んでいて、あの頃、あいつと同じ空の下にいて、今も『よぉ』とか言って角を曲がってきそうだ。
 しかし、やはりそんな事はなく、知った顔は現れず、他人に、通勤客に混じり、同じ方角に向かって流される。
 目を上げると、セントラル駅だった。何度となく同じ列車に乗った場所。出迎え、出迎えられ、あいつの顔を見ると肩の荷が下りたように安らいだ場所。
 士官学校から中央へ。訓練で遠征し、イシュヴァールの内乱もここから出発し、ここに戻った。
 あの頃の私もヒューズも列車に乗る前と降りた後では何処かしら違う人間になっていた。それが成長と呼ぶか、変化と呼ぶか解らないが、いつも私達が向かう先は人生の重要な転機だった。
 もうあいつがこのセントラル駅の長い階段を駆け下りてくる事はない。私がここに待ち続けても、あいつは列車から降りてこない。膨大な通 勤客の中に眼鏡で髭の男は大勢いても、俺を見て心から嬉しそうな笑みを浮かべる奴は、片手を上げて
『よぉ、ロイ。何だよ、俺を見てちっとは嬉しそうな顔をしろよ』
  と言う男はいない。
 今なら笑ってやるのに、心から笑ってやれるのに、あいつが驚いてもいいから駆け寄って抱きしめるのに、大人げない真似もできるのに、あいつは降りてこない。
 列車が客を全部吐き出して、階段を下りてくる客がまばらになっても、私の前に影はささない。
 私は取り残されたように立ち尽くし、おもむろにきびすを返した。構内から出ると、顔に雨が当たる。隣の男が舌打ちをして空を見上げる。傘の花が幾つも開いていく。
 でも、私は傘など持っていない。持っていても多分ささない。後ろの人に押されるようにして通 りを渡る。
 朝は忙しい。誰も彼も目的地に向かって、脇目も振らず歩いていく。花屋のこぼれんばかりの色彩 にも、朝のパンを焼く茶店の香りも、売店の朝刊の見出しにも皆気を取られない。
 私はその人の波に流される。同じ方向に向かっていく。でないと歩けない。立ち止まって、うずくまって、切なくて、潰されてしまう。
 雨が降る。私を濡らす。髪から雫が落ち、コートが重くなっても気にならない。むしろ、もっと雨が強くなればいいと願う。
 だが、ここはセントラルだ。
 ほんの少し前まであいつは確かにこの空の下にいて、何処を見ても、何を見てもあいつに結びついて、あいつを思い出して、あいつに取り囲まれて、匂いが、顔が、思い出が私を責め立てる。
 あいつを探してしまう。いつでも。どんな時も。交差点、公園のベンチ、ビルの角、新聞の記事の片隅。解っている。そんな所にあいつがいる筈がない。でも、行きつけの店、いつもの席、踏切の横。あいつがいる。あいつがいるように思ってしまう。
 振り捨てたい。投げ出したい。愛おしい。恋しくて、切なくて、頭に紗がかかって爆発しそうだ。  こんなにあいつを感じるのに、あいつが見えるのに、あいつに囚われているのに、私を抱きしめる腕だけがない。あいつの姿だけがない。
 匂いも、煙草の紫煙も、背中も、黒髪も、がっちりした胸も、髭も、あの笑顔も何処にもない。
 あいつが戻るなら、地に這い蹲っても、禁忌を犯しても構わない。寝ても醒めても人体錬成の数式が駆け巡る。しかし、誰にも弱音など吐けず、打ち明けず、飲み込んで、歯を食いしばって、耐える。声にならない叫びが澱のように腹にたまって降り積もっていく。
『俺が死ぬ訳ないだろう』
 戦争に行って、情報部だから行き先も不明瞭で、音信不通になっても、あいつは帰ってきた。私が殿を負かされた時も、人間兵器として前線に立たされた時も、戦果 という名の虐殺を遂げた後も、あいつは、あいつだけが私をただの人間として扱った。
『俺が死なないんだから、お前なんてまだまだ先だ』
 訳の解らない理屈を言って、私を苦笑させた。
『こんだけ殺しちまったら、その分、簡単に死なせてもらえないんじゃないかな、俺達は』
 そう言ってたのに、一人だけ呆気なく消えるなんて、死ぬなんてあるか。
 あの生き地獄から生きて戻ってこれたのに、私なんかより生きる事を楽しんでいたのに、満喫してたのに。私を一人にしないと言ったのは何処のどいつだ。
 何でここにいない。
 何で還ってこない。
 今。私が一番必要な時に、今。
 私は丘の上に立つ。
 戦没者の墓が眼下に広がる。内乱、国境紛争、軍事テロ。軍人の死は様々だ。名誉の戦死。英雄的行為。葬式は死者を様々な美辞麗句で飾る。手向けにする。
 なのに、あいつの死の理由だけはそこに含まれていない。
 私はヒューズの墓の前に立ち尽くす。びしょ濡れの、寝癖がついた無精髭のだらしない男があいつの前に立っている。打ちひしがれた捨て猫のような有様で、歪んだ顔で立っている。
「帰ってきてくれ……」
 声が漏れた。
「ヒューズ……」
 空を見上げる。雨が強く降ってくる。痛い。苦しい。千の矢が私に刺さる。天から降ってくる罪の、罰の、悲しみの雨が。
「ヒューズッ!」
 殺したのに、大勢殺したのは私なのに、私が死ぬべきなのに、天は私を裁かない。私の一番大事なものを、半身を食いちぎって、奪い去って、取り上げて、お前はここにいろと、地に這いずって、たった一人で望みをかなえてみせろと、千の矢が私に強要する。
 一人で何処までも生きろと。
 あいつがいない。
 あいつがいないままで。
「ヒューズーーーーッ!」
 叫ぶ。天に叫ぶ。声が嗄れて、裂けて、口から雨が入る。この雨に打たれて、溺れて、死んでしまってもいい。
 あいつを返して。あいつをここに寄こして。あいつの声を聞かせて。
 何もいらない。大総統の地位も、未来も、出世も肩書きも何もいらないから。捨てていい。この身体も命も全部いらないからあいつを返してくれ。
 それはできない。
 許されない。
 私の選んだ道。私が私である由縁。あいつが支えてくれた道。
 解っている。
 知ってる。
 だけど、今、この瞬間だけ、刹那だけでいいから、何をなくしてもいいから祈る。全身全霊で、砕け散るように、溺れるように、決してかなえられないと知っているから祈る。
 願う。
 悲鳴を上げる。
「ヒューズッ!」
 私を一人にしないで。私を抱いて。私を犯して。何一つ変わらないと、大丈夫だと笑って。
 雨が痛い。
 泣いてる。
 私は泣いている。声の限りに、絶叫して、雨にまぎれて、雨のせいで、雨の鞭で。私は泣いている。私は私の中のもの、胸の中にたまったもの、どうしても吐き出せなかったものを天に叩きつける。
『お前ってさ、何かのせいにしないと絶対泣けないんだよな。俺とか、傷の痛みとか。自分だけの理由じゃ泣けないんだよな』
(ヒューズ!)
 震えるように、壊れて、頽れて、私は芝生に両膝をついた。
 そうだ。これが私だ。私は泣けない。私は私の為には泣けない。何があっても。どんな事があっても。私は私でしかない。どっと悲しみが満ち溢れた。こんなに辛くても、苦しくても、私は己を捨て切れはしないのだ。
 それでも、私は泣く。慟哭する。やっと許された涙に身を任せる。私の半身の死を。あいつの死を。この空虚な絶望を悼んで。
 何よりも私は私自身を悼んでいるのかも知れない。

 


 私はヒューズの墓と向かい合ったまま座った。泣いて、泣き尽くして、顔や体が熱い。冷え切った身体に生まれた熱に己の中の生を感じる。したたかにしぶとく実感する。死と差し向かいになって、生を覚える。あの戦場での日々のように。
 熱を持ったせいで、急に濡れた服を気持ち悪く感じた。
(こんな様を見られたら、ホークアイ中尉に怒られるな)
 まだスカーの所在やヒューズ殺しの犯人は不明だ。この雨では発火布も使えず、芝生の上では錬成陣も書けない。  
  それでも、何も怖くない。泣き尽くした後、自分の中がこんなにからっぽだと初めて知った。
 あいつがこんなにも自分の中を満たしていたのだと。
 誰かが私を狙っていても、殺意を持っていても、もう何も怖くなかった。
 でも、誰も現れず、殺そうともせず、尾行してきた者もおらず、後ろから傘を差し伸べる優しい手もない。
 偶然なんてない。これはドラマでもない。
 私は一人だった。
 世界から切り離されて、ヒューズの墓と二人ぼっちだった。この瞬間が、この空間がこれからずっと私の心象風景となっていくのだろう。将軍になっても、大総統になっても、もう私の横に立つ親友は、半身はいない。あいつが埋められた時、私の一部もきっと埋められて、朽ち果 ててしまったのだろう。
 私は永遠にこの墓を引きずって、向かい合って生きていく。
 私達は一人だった。
 私はヒューズの墓を見る。雨が緑を鮮やかに浮かび上がらせていた。気の早い雑草が、芝生が、生命が墓の上を浸食している。
 流れにそって。
 一は全、全は一の掟に従って。
 私はしゃがんだまま、その草をむしり始める。
 綺麗にする為でも、整える為でもなく。
 私はむしる。
 いつまでも、しゃがんでむしっている。



エンド

04,4,14

 

某ヒューズ追悼祭出品作。ウェブ拍手のヒューズサイドと対の話。
だから、このロイの後にはヒューズがいる。
でも、それだけ。

まんま、ドリカムの「朝はまた来る」

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