「後悔」

 

「おい、本当にこっちの道でいいのか?」


 神田は周囲を見回しながら言った。風景がどことなく見覚えがあると思ったからだ。
「ここはさっき通らなかったか?」
「いえ、通りませんでしたよ。大丈夫、もう少ししたら駅に着きますよ」
「だと、いいがな」
 ニッコリ笑って振り返るアレンを不審そうに見ながら、神田は溜息をついた。
 ここは中世の香りを残す城塞都市だ。敵の侵入を食い止める目的も兼ね備えているだけに、入り組んだ迷路のような町並みや、高い壁が延々と続く細い道のせいで、方向感覚が失われていく。神田は訓練でこんな場所での対処にも馴れているが、アレンは方向音痴だと何かの折り聞いた事があった。自信たっぷりな様子だから任せてしまったが、時間が経過するに従って何だか不安になってくる。


「……ここ、また右に行くのか?」
「またって、初めていく道ですよ?」
「…………おい、その地図よこせ」


 業を煮やして、神田はアレンから地図を取り上げた。確認し、やっぱりと大きな溜息をつく。
「やっぱり同じ所グルグル回ってるじゃねぇか。これじゃ、いくら経っても駅なんか着きやしない」
「え、そんな…大丈夫だと思ったのに」
 あからさまに呆れられて、アレンは地図を見直した。苦笑いしながら、両手を合わせる。神田はフンと鼻を鳴らした。やはり任せるんじゃなかったと後悔する。
「お前、その方向音痴直さねぇと、アクマに袋小路に誘い込まれて殺られちまうぞ。景色ぼんやり見てないで、印象的な店とか家とか頭に意識的に叩き込みながら歩け」
「見てますよ。でも、ここは何処も似たような景色ばっかりだし…。でも、ティムが教えてくれるから」
 アレンは頭上で羽ばたいているティムを悩ましげに見上げた。ティムは通常のゴーレムとは違う機能を色々備えてはいるが、主人に危機が訪れない限り、自立的な行動は取らない。アレンに指示されない限りは、主人の頭上をパタパタ飛び回っているだけだ。
 神田はわざと大袈裟に肩をすくめてみせた。

「そういう所だから、迷わせやすいんだ。アクマがお前の都合で戦ってくれるか、バカ。
 ティムとか、その左目とかお前は依存心が強すぎんだよ。ティムキャンピーもクロス元帥に会ったら返しちまえ。でないと、お前はいつまで経っても自立できないぞ」
「そんな。ちょっと道に迷っただけじゃないですか。一人でだって戦えます」
「お前は常日頃心がけがなってないって言ってんだよ」

 神田にやり込められて、アレンは項垂れた。その姿に苛立ちながらも、肩をすくめて諦める。責任は任せた自分にもあった。少し居丈高に言い過ぎたかと思いながら、壁に切り取られた遙か頭上の空を見上げた。

「まぁ、どうせ午前中の列車は間に合わないんだ。これから気をつけろよ」
「はい」
 頭をポンと軽く叩かれて、アレンは頷いた。その上目遣いの申し訳なさそうなまなざしに、少し狼狽えて神田は慌てて目を逸らす。どうもアレンといるとリズムが狂うようだ。

「じゃ、それまで何処かで暇でも潰すか」
 神田は少し首を捻った。教団でなら昼寝もできるが、任務中ではそうもいかない。今回の任務は急を要するものではなかっただけに、早く次の任務に移りたかった。

『ユウは仕事中毒じゃねえの? ユウだけ焦ったって、簡単にイノセンスも仲間も見つからないよ? 手持ちで何とかするのを考えるのは、コムイに任せて俺らは楽に行くさ』

 と、ラビに揶揄されているが、神田は余暇をどう使っていいか解らない。読書に興味はないし、漠然と散歩するのも嫌いだ。アレンの左目のおかげで、この街のアクマは倒し尽くしてしまった。いくら暇でも、町中で修行する訳にもいかないだろう。目的がない行為は神田の性に合わない。だから、こんな不意な空き時間が苦手だった。

「あの、神田。それなら、上に行きませんか?」

 きびすを返した神田の背にアレンは躊躇いがちに声をかけた。
「上?」
「養父が言ってたんです。迷ったら上に行けって。教会の尖塔とか街で一番高い所。そしたら、自分の居場所が、帰る場所が解るって。
 だから、丘の上に行きませんか? 僕も迷い放しってのは悔しいし、神田、高い所好きでしょ?」
「バカと何とかは高い所が好きって言いたいのか」
 神田は眉を顰めた。アレンは笑う。
「そうは言ってませんよ。でも、ここの教会より丘の上の方が見晴らしがいいでしょ」
「仮に敵が接近しても対処しやすいしな。……フン、お前の方向音痴は昔からか。進歩のない奴だ」
「…放っておいて下さい」
 アレンはちょっと唇を尖らせる。神田は肩をすくめた。どうせ、このコートを纏う限り、カフェとか大通 りとか人混みの多い場所には行けないのだ。
「いいぜ」
 神田は頷いた。

 

 急な丘へ続く階段を昇りきると、眺望が開けた。
 風が少しあるせいか、雲が少し流れている以外、青い空が天高く何処までも続いている。鳩の群が時折見える他は彼らの全て眼下にあった。
 丘の下には見事な中世の街並みがあった。赤い煉瓦色の屋根が続き、美しい教会の尖塔や古い劇場などが街の広場に添って放射線状に広がっている。その周囲を灰色の城壁が巡り、その外には駅や鉄道が黒々と線を大地に引いていた。その果 てには濃い緑の森や牧場、広い麦畑が覆い、初夏の穏やかな日差しを受けて明るく光っている。視線が遠いせいか、そこで急ぐものは何もない。駅馬車が白い道を行き交うのすら、何もかもゆっくり動いている。

「……うわぁ、綺麗ですね」

 アレンは声を上げて、手すりに凭れた。
「ここから見ると、まるで箱庭みたいだ。何だかかわいいですね」
 アレンは何処か懐かしそうな横顔で、風景を見下ろしていた。街も空ものんびりとした午後の眠たげな空気が漂っている。平日の事もあってか、丘の展望台には、殆ど誰もいなかった。屋台の店主もあくびをしながら椅子にもたれかかっている。鳩や雀が彼の足元で菓子のおこぼれをついばんでいる他は動くものもない。神田はそれも確かめてから、ようやく手すりにもたれかかった。風が二人の髪をなぶる。
「……そうだな」
 神田は小さく呟いた。

 迷わされてうんざりする程歩かされた迷路のような街並みも、人々の生活もここから見下ろすと、パノラマの模型のような風景でしかない。人も馬車もおもちゃのようだ。神が天にいますとすれば、いつもこんな視点で見ているのだろう。手を伸ばせば掴めそうでもあり、手に余る程果 てしなさも感じた。 
 こんな街はよく訪れてはいるが、展望台に来ようと思った事などなかった。どんな街もただ通 り過ぎるだけで心に留めようとか、観賞しようなどと一度も考えた事などない。あるのは任務を確実に遂行する事、そして次にうまく繋げる事。それだけだ。景色も戦闘に対処する為に覚えておく為でしかない。
 景色に心を遊ばせるという事は、もう何年もなかった。それはある意味正しかったし、そうしなければならなかった。エクソシストにとって、教団の外は全て戦場なのだから。彼以外は全てアクマと思わねばならない。情報を得ようとする相手がアクマにすり替わっているかも知れない。道で遊ぶ子供ですら。
 ラビだって、余裕があるように構えてはいるが、心底心を許して街を歩いている訳ではないのだ。

 だから、景色を眺めるのは戦闘が終わった後、疲労した心が放心している時くらいなものだった。それが一番危険な時間であると解っていながら、人間にはその時間が必要だった。兵器になりきる事は出来ない。どんなにそうなりたいと願っても。
 街を自然に、目的なく歩ける。
 神田だけでなく、他のエクソシスト達全てにそれは許されない。
 団服を纏う限り。
 いや、怖くて私服で歩く事ももう出来ないだろう。

 だけど、アレンはそれが出来るし、そんな事を思いつける。ただ風景が見たいと言える。彼にはアクマの有無が解るから。アレンと一緒でいる限り、神田にもそんな時間が許されるのだ。

(羨ましい)

 ほんの微かに思った。それに馴染む程愚かではなかったが、その事はただいいなと思った。その左目は地獄を見せる代わりに、安らぎも与えるのだ。エクソシスト達には一瞬でも得られないものを。
(ゴーレムにそんな探知能力があれば助かるんだがな)
 魔導式ボディは人間の皮をかぶっているだけなのだから、理論的にはその下のダークマターで出来た金属を察知できる筈だ。それが可能ならエクソシスト達も常に緊張を強いられずにすむのだが、何故か科学班が総力を挙げても未だにそれが出来ない。
 イノセンスの助けがなければ、人間は満足に伯爵に対抗できず、それすら適合者がなければ、ただの沈黙する貝だ。使徒の出現を待てず、咎落ちの危険を侵さずにいられなかった科学者達の焦りも解る。科学は千の失敗の中で一の真理を求めようとするものだから。

『肩の力を抜いて、俺らは楽に行くさ、ユウ』

 と、ラビのような境地に立てる程、人間は強くないのだ。
(でも)

 神田の胸を掻きむしり、先へと駆り立てる焦燥も、今日は不思議に波立たなかった。
 空は鳥が渡り、街の屋根は穏やかに日を反射している。牧場からは寝惚けたような牛の声が微かに響いてくるばかり。二人のエクソシストを騒がすような気配も殺気も何処からも感じない。頬や髪をそよ風が優しく撫でていくだけだ。
 平凡で静かで、優しい、ごくありきたりな昼下がり。
 こんなものをもう何年も味わった事がなかっただろうか。
 味わうのを忘れていたんだろうか。

「平和だな……」
「そうですね」

 つい口に出た言葉にアレンが穏やかに同調する。見つめ合うと、そっと唇を触れ合わせた。幾度か軽くついばみ、放すとアレンが体を擦り寄せてくる。肩に頭をもたせかけられても、神田は眉をしかめなかった。むしろその重みが愛しいと思った。

「……初めてですよね」
 アレンが囁いた。
「こんな所で神田がこんな事許してくれるの」
「…………」

 神田は何も言わなかった。きっと少し照れてるんだろうと、アレンは微笑む。神田はいつまでたっても、欧州風の愛情表現が性に合わないらしい。人前でキスなどとんでもないし、任務と私情をきっぱりと区別 する。だから、こんな事をしても怒らないのが嬉しかった。目を優しく細めて、黙ってこの時間が過ぎていくのを許している。それだけでアレンは幸せだった。

 多くを望みすぎない。

 それが自分の少し悲しい処世術だとアレンは知っている。小さい事から大きな幸せを感じる事。
 幼い頃、貧困がいかに人間性を堕落させるか、アレンはつぶさに見せつけられた。窮乏は人間の精神を鍛えなどしない。五歳の子供が煙突掃除の為、売りに出され、馬より安いからという理由で若い女性が炭坑で荷物運びをやらされる。産業の発展や繁栄の反面 、その社会の矛盾や不正のしわ寄せをゴミ溜のように淀ませたのが、彼が属していた階級だった。
 が、マナとの生活は奇跡のようにそれが入り込んでこなかった。宝石のように幸福だったからこそ、罪を犯してでも彼を取り戻したいと望んだ。
 そして、それがなければエクソシストになろうと思ったかどうか。神田と出会えていたかどうか。
 二人で見るこの景色をこんなにも美しいと思えたかどうか。
 自分の人生は矛盾の上に成り立っている。
 自分の幸福は罪の上に成り立っている。
 それがアレンはいつも少し悲しい。

「綺麗だな」


 ポツンと神田が呟いた。アレンは顔を上げる。
「人間の街並みが綺麗だなんて、今まで思った事がなかった。自然だけが綺麗だと思ってたな。何処の街に行っても、自分に似た人間なんかいなくて違和感があって、少しも好きになれなかった」
「…………」

 今度はアレンが黙った。黒髪の東洋人は欧州でも滅多にいない。19世紀の国際感覚は欧州中心であって、異民族とは徹底的に区別 する。中国趣味(シノワズリ)がもてはやされても、文化と相互理解は別の事だ。
 神田もエクソシストとしての尊敬は受けただろうが、奇異の目や偏見で見られた事が何度となくあったのだろう。軋轢が生まれても、コムイが神田やリナリーに探索部隊をつけるのは、無用の事態を減らす為でもあった。
 神田がアレンの容姿について眉を顰めたのは、左目の事だけだ。彼は心の痛みを知っている。アレンが神田に惹かれたのはそんな事もあるかも知れない。

「だから、いつも塔のてっぺんにいたんですか? 鳥みたいに」
「笑うなよ。だけど、そうかもな。人間は好きになれなくても、自然は壊したくないと思った。それだけでエクソシストを続けられる理由になるんじゃないかと思った」
(あの人を捜す理由は別にして)
 神田はアレンの頭に小さくキスを落とした。

「けど、神田を突き動かしてるのはそんなものだけじゃないんでしょう?」

 アレンは呟いた。でなければ、神田があんなに激しい訳がない。人間をまるで愛する事なしに、あんなに戦える訳がない。
 神田は苦く笑っただけだった。まだ口に出来なくてもいい。彼のまなざしが下界に向けてくれるだけで。アレンはその頬にキスをする。神田が少し顔をこちらに向け、もう一度唇が重なった。
「…何で笑ってるんだ?」
 神田はアレンを見て怪訝そうに呟いた。
「いえ。やっぱり僕、神田が本当に好きなんだなぁって」
「………変な奴」
 神田は今度こそはっきりと照れたように顔を赤くした。


「そろそろ行くか」
 日が傾きかけた頃、神田は呟いた。アレンは頷く。階段を下りながら、もう一度名残惜しげに展望台へ振り向くのを見ながら、神田は言った。

「お前さ、わざと道に迷っただろ?」

「………え?」
「お前、この街、本当は知ってるんだろ? この展望台も」
 アレンは苦笑いした。
「気づいてたんですか?」
「教会の尖塔より、この丘の方が景色が綺麗なんて知ってないと言えないからな」
「そう教えてくれた人がいたんです。ずっと前に」
 アレンは微笑んだ。
「だから、神田もそう言ってくれて凄く嬉しかった。
 それにせっかくだから二人きりになりたかったんです。駅に着いたら、また遠くに行っちゃうんでしょ?」
「…まぁな」
 神田は低く呟いた。
「だから、ちょっとでも長くいたかったんです。ごめんなさい」
 神田は突然振り向いた。

「謝るなよ、バカ」

「え?」
「何でもかんでも謝るなよ、バカ。まるで悪い事したみたいだろ」
「で、でも神田は任務優先でしょ?」
「バカ。楽しかったんだから、素直に楽しかったで終わればいいんだよ」
 アレンはキョトンとし、笑い声を上げた。
「よかった。任務中にデートなんて二度と考えるなと怒られるんじゃないかと思いました」
「うっせぇ、モヤシ」
 神田は軽くアレンの頭を叩いた。
「いいんだよ。任務より大事な事を教えてもらったからな。
 けど、いつもこうだと思うなよ。今日はあくまで時間があったからだ!」
「はい。また方法を考えます」
 アレンはクスクス笑っている。
 神田は顰めっ面でその顔を見ていたが、急に手を差し出した。アレンは不思議そうにその手を見つめる。

「何ですか?」
「手」
「…はい?」
「また迷ったら困る。方向音痴だからな、お前は」
「え、でも……」
「俺達は『道に迷った』んだ。最後までそういう事にさせろ」
「は、はい!」

 アレンはニコニコして神田の手を握った。神田はまだ少し俯き加減のまま歩き出す。噛みつくようにその足取りは速い。やっぱりちょっと照れているらしかった。

(でも、いいや)

 アレンは微笑んだ。神田の手は少し熱い。そのぬくもりが嬉しかった。
 階段から下界に降りると、また街の迷路に入る。日が陰ったせいで、あちこちが暗かった。だが、神田の歩調は揺るぎなかった。暗闇も幾つもの枝分かれも躊躇わず抜けていく。
 神田の髪がよどみなく右に左に動いていくのをアレンは見つめた。


 僕達はまた、いつか道に迷う時があるだろう。
 でも、二人手を繋いでいれば、何も怖くない。
 アレンは手に力をこめた。握り返してくる手の強さが嬉しかった。

エンド

「手つなぎ」がマイブームだった頃です。
「Cat's Cradele」収録のラビアレ「ノエル」のマナアレもそうでした(笑)
アレンたんは、あんな左手だけに特別に人から進んで手を繋いでもらえる事に
敏感だと思います。

神田お題へ


  

 

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット