「アニマルセラピー」 3
「うわぁぁぁああああっ!」
歩き出した先の公衆便所から青年が転がるように飛び出してきた。
匂司朗の脇を形相を変えて逃げていく。
匂司朗はその顔を見て驚いた。
「匡平…っ!?」
そんな筈はない。
病院で今、無事を確認してきたばかりなのだ。
だが、似ている。
顔や背格好、服装の趣味まで。
でも、他人の空似だ。
今の男には隻特有の気配が全くない。
並べると恐らくそれ程似てないだろう。
それでもつい間違えそうになった。
(俺でこれなら、お前なら…)
匂司朗はトイレを覗く。
白々とした安っぽい蛍光灯に照らされながら、阿幾が彼を見返していた。
幽鬼のようなまなざしをしている。
匂司朗は微かに息を呑んだ。
「よぉ、相変わらずタイミングの悪い奴だなぁ」
阿幾は醒めた目で笑った。頭の包帯に少し血が滲んでいる。
一体何処でトラブルに巻き込まれたのか。
村でも篤史によく絡まれていたが、阿幾の災難続きは天性のものらしい。
「いや、お前さんの場合、自業自得って奴なのかな?」
「あんたの空気の読めなさもな」
阿幾は乾いた笑い声を立てた。
服の前が少しはだけている。何があったか一目瞭然だ。
「お楽しみのとこ、邪魔したなら悪かったな」
「いや。むしろちょうどよかった」
(後で自己嫌悪するとこだったしな)
自嘲を隠し、阿幾の顔が一気に凄みを帯びた。
半ば透明の巨大な鎌が宙に浮かぶ。
「あんたと戦る方が愉しそうだ」
「いや、パス。今夜はやめとくわ」
匂司朗は片手を上げた。阿幾は眉を吊り上げる。
「ハァ?ナマ言ってんじゃねぇよ。俺の捕獲が任務なんじゃねぇの?」
匂司朗はトイレを顎でしゃくった。
「公共物壊したら怒られるだろ。
それに昼間バカみてぇに目立っちまったから、これ以上注目浴びたくねぇんだよ」
「ああ?」
「白ばっくれるな。まひるを炊きつけたのはお前だろうが」
「さぁねぇ」
「お前のおかげで面倒な事になってる。正直、一発殴りたいとこだ」
「だったら」
阿幾は誘うような声音を出したが、匂司朗はこめかみを叩いて首を振る。
「怪我人とはやらねぇ。
お前に乗せられて憂さ晴らしに付き合うのもゴメンだ」
「ハ、お優しい事で。ハンデだよ、んなもん。
今夜は「一人」だから怖気づいたのか?」
桐生がいない。
阿幾ほどの隻ならお見通しだろう。
同じ轍は踏まない。だが、それはこちらも同じだ。
「いーや。お前と遊んでるヒマがないだけさ。今夜のところは見逃してやるよ」
「それじゃあ面白くねぇなぁ」
阿幾の背後から暗密刀が実体化し始める。
空気の色が変わり、肌がひりりとするような殺意が充満していく。
「今日はつまんねぇ事が多過ぎてムシャクシャしてんだ。付き合ってくれよ」
「やだ」
「イイガタイの野郎がヤダとか言ってんじゃねぇ!」
その瞬間、阿幾の腹がグーッと鳴った。
空気が白くなる。
阿幾は見る見る真っ赤になった。匂司朗は思わず噴き出す。
「怪我人の上、空腹たぁ、こりゃますます戦う理由が減ったなぁ」
「う、うるせぇ!今朝からロクに食ってねぇだけだ。気にすんな!」
「案山子使ったのに食事抜きか?逃亡者は難儀だねぇ」
「いい加減笑うの止めろって!」
「解った解った。じゃ、来な」
匂司朗は背を向けると指でついてこいと合図する。
「はぁ?」
「腹が減っては戦も出来ぬってな。
飯くらい奢ってやるよ。同じ隻のよしみだ」
「…何のつもりだよ」
「罠と疑うならそれでもいいさ。
ついて来ねぇならこのまま帰っちゃうぞ」
阿幾はまだ身構えていたが、やがて溜息をついた。
どうも匂司朗は挑発にかからなくてやりにくい。
それに阿幾は強引な人間にどうも弱い所があった。
確かに腹は減っている。久羽子は夜型人間で朝食を食べない。
その上、平城の事務所で拘束されていたので何も口に出来なかった。
罠か。本気か。
いざとなったら暗密刀で逃げればいい。
そう思い、それと同時に茫漠とした想いがこみ上げてくる。
(…何処へ?)
自分には行き場など、もう何処にもない。
東京に出ても何もなく、何も巡り会えなかった。
会いたかったのは匡平だけだが、幾ら挑発しても応えてはくれない。
過去の傷が開くのを恐れているのだ。
匡平との再会を寄せ返す波のように望むけれど、それは何も生み出さない。
虚無感が何処までも阿幾を蝕んでいくだけだ。
関わってくるのは村に興味のある女、村の代議士、そして、飯を奢ってやるという村の男。
結局、何処まで行っても村からは逃れられない。
となれば、もう自分の終着駅は決まってしまっている。
「…へっ」
ならば、臆する事はない。阿幾は匂司朗の革ジャンの後ろを歩き始めた。匡阿前提の匂司朗と阿幾。
禍津妃戦直後から、阿幾が匡平とベランダで再会するまでの一夜。
阿幾にどうしても一つしてあげたい事があって書いた話。
村に行ったら、もう出来ないからね。
匂司朗は大好きです!!いい兄ちゃん、みんなのお父さんだよなぁ。
日向のジジイと血が繋がってるってウソみたいですが、いい所だけ継いだんだね、きっと。
阿幾と匂司朗の会話を書くのが凄く楽しいです。
空回りしてる阿幾ってかわいい。
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