「アニマルセラピー」5

 

「うわぁああああ!」

 阿幾は思わず悲鳴を上げた。
 ムッとする獣臭さ。股座や脇に無遠慮に頭を突っ込んで匂いを嗅ぐ態度。
 敵でないと解ると容赦なく顔や手を嘗め回す無礼さ。
 全部経験済みだ。

「ちょっ、どけーっ!お前らっ!」

 阿幾は大きな犬の体重を押し退けようと必死になった。
 だが、それなりにガタイがよくて元気一杯の犬五匹では勝ち目がない。

「おーおー、大歓迎だな」

 匂司朗は後ろでニヤニヤしている。

「匂司朗っ!こいつら、どかせっ!…わっぷ!」

 怒鳴ろうと口を開けかけたら、犬に舌を突っ込まれそうになって、阿幾は慌てて口を噤んだ。

「結構、こいつら人見知りなんだがなぁ。お前、犬にはモテんのな。
 よかったよかった。お前も獣臭いからか?」
「よくねぇ!いい加減にしろって!」
「へぇへぇ」

 匂司朗は笑いながら、阿幾や犬どもを踏み越えて居間に向かった。
 腹を空かせた犬達は匂司朗を追う。
 ボロボロにされた阿幾はやっと身を起こした。
 特に人懐っこいらしい茶色の犬が一匹だけ傍らに残って『撫でれ』とばかり、目をキラキラさせて阿幾を見つめている。

(どうして、こう犬って奴は…)

「…ったく」

 阿幾は犬の頭をワシワシ撫でながら、立ち上がった。
 匂司朗の周りに犬が群れている。夜中なのに実に騒がしい。
 だが、匡平のマンションより防音設備がしっかりしてるのか苦情のチャイムは鳴らなかった。
 阿幾は犬の毛が舞い上がるのに顔を顰めながら、溜息をつく。

「あんたが飼ってんのかよ、こいつら」
「まさか。飼主は旅行中でな。その間、世話を引き受けたんだよ」
「悠長な奴だな。任務より犬の世話か?」
「つっても、頼まれちゃったからなぁ。
 困ってる人を放っとけないだろ。ほんの二、三日だし」
「…あんた、ホントに世話好きだな。バカのつくお人よしってーか」

 匂司朗は水皿を一杯にしながら、棚を指差す。

「その棚に缶詰があるから、こいつらにやってくれ。一匹一缶な」
「俺の飯は?食ったらすぐ帰りてぇんだけど」
「へぇへぇ、いい子で待ってろよ。じゃ、犬ども頼むな」
「おい!」

 匂司朗はさっさと出て行った。オートロックの音が響く。
 監禁など暗密刀がいれば意味はない。
 だが、匂司朗から受けた思わぬきさくな扱いに阿幾は戸惑っていた。

(…ったく、調子狂うな)

 阿幾は人から無条件で好意を向けられた試しがない。
 唯一の例外が匡平で、それが最後になる筈だった。
 カップラーメンを要求したのも、これなら何か混ぜられる気遣いはないと思ったからだ。
 日頃、疎遠なのに急に親しげに接近してくる奴は大変腹の底に何か隠している。
 まして、匂司朗は狩人だ。
 獲物が懐に飛び込んできたのに、只で帰す馬鹿はいない。
 いつでも逃げ出せるよう、暗密刀をベランダに待機させる。

 トンと足に何か当たった。見下ろすといつの間にか犬達に囲まれている。
 へっへっへと舌を出しながら、期待に満ちたキラキラした目が阿幾を無心に見つめていた。
 ご飯をねだるように、また足に頭をこすり付ける。

「あー、飯だったな」

 阿幾は頭を掻きながら、椀に缶詰を一杯にした。
 犬達は物凄い勢いで食べ始める。
 躾のよい犬には食べる前に『待て』とか命じた方がいいのだろうが、阿幾はノォノしか知らない。
 野良犬だったノォノは気ままだが気立てのいい犬だったし、阿幾はそんなノォノが好きだった。
 人間の都合で芸を仕込むより、自由に駆け回ってる方がいい。

 犬達は食べ終わると新参者の阿幾に興味津々らしく、すぐ集まってきた。
 撫でてやると笑うように阿幾を見つめる。
 茶色の瞳が子供のように澄んでいて曇りがない。
 満腹した者は阿幾の背や太腿に寄りかかって目を閉じた。
 重いのだが、誰かに気を許してる姿も温かさも悪くない。
 何故、初対面の阿幾に対し懐くのかさっぱり解らなかったが、ノォノもそうだった。

 元々阿幾と動物の関係は悪くない。
 ベタベタ好意を押し付けず、適度な距離感がいいらしい。
 むしろ動物の方から阿幾に好意を示す。
 阿幾が動物を殺し回っていたという村の噂もデタラメだった。
 自分が腹いせに殺しまくった動物や家畜の死を阿幾に擦りつけた篤史のせいだ。
 阿幾は訓練用に改良された熊しか傷つけた事はない。
 自分の不幸を弱いものに当たって気晴らしする悪癖もなかった。
 篤史を間近で見てるから尚更だ。
 だが、枸雅の若様が吹聴する事には黙って頷くのが村の流儀だ。
 正当化された噂はそのままレッテルになる。

「食って寝て、お前らは本当に気楽だな」

 犬達は否応なくノォノを思い出させた。
 隻を辞めさせられてから、あの夏は阿幾の只一つの宝石のような時間だった。
 無残に打ち砕かれても忘れられないのは、ノォノだけが本当に何の罪もない存在だったからだろう。
 犬の背を撫でていると、自然にあの夏、道が分岐してしまった自分の片割れを思い出す。

(匡平…)

 阿幾は夜景に目をやった。

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