「アニマルセラピー」 8
(動きが綺麗なんだな)
それは暗密刀を思い出させた。
隻の心と案山子は連動している。
阿幾が隻の座を奪われるまでの暗密刀の優雅さは案山子随一だった。
神事で刃を振るい、試し切りを披露する様は紫の衣を纏う舞姫を思わせた。
封印を施され、今は以前のキレをなくしているが、それでも阿幾を捕らえられない。
絶好の機会なのだ。
だが、卑怯な真似をする気はなかった。
頭の血の滲んだ包帯と体の大きな紫の痣。
この男の生き方に同情も共感もしないが、もう少し器用に生きられないものかと思う。
「へぇ…これ、あんたが作ったの?」
テーブルについた阿幾は食卓を見て、目を丸くした。
大きな海老フライと鳥の唐揚、肉じゃが、サラダに味噌汁とご飯。それに漬物。
「肉じゃがは作り置きを暖めただけだがな。
ほら、早く食え。お前、幾ら何でも痩せ過ぎだぞ」
阿幾は料理を見つめた。
まともな家庭料理というのはこういうのをいうのだろうか。
篤史の家でもキチンとした食事を出された事はない。
匡平の母親の作った弁当とコンビニ弁当が阿幾の食べた唯一のまともな食事のイメージだ。
食器に別々に盛られた食事が新鮮に見えた。
味噌汁を一口啜る。
(あったかい…)
その胃の腑に染みるうまさに阿幾は深い吐息をついた。
阿幾が食べる弁当はいつも冷えている。
久羽子は暖めるという手間すらかけない。
阿幾の知っている唯一の温かい食事は匡平がくれたハンバーガーとインスタントラーメンだけだ。
(人間てのは、普段こんなもの食ってんのかな…)
阿幾は黙々とひたすら無心に食べ始めた。
(桐生と同じ顔しやがる…)
その姿を見ながら、匂司朗は少し切なくなった。
阿幾については噂しか知らない。
日向と枸雅の確執故に日頃出会う事もなく、たまにお社の行事で同席するだけだ。
だが、妾の子であり隻の脱落者である阿幾の日常は容易に想像できた。
桐生はお館に棒で打たれる日々を送っていたが、阿幾は村全体から心に鞭打たれる日々を送っていたのだろう。
食事一つでも解る。
(どんな事情があろうと、子供を平気で虐待して何とも思わねぇ。
それ一つ取っても、うちの村は何とかしなきゃいけねぇよな)
人の家庭の事情にとやかく言うつもりはないし、阿幾は罪を償わねばならぬと思う。
だが、阿幾を追い込んだのは村だ。
自分達の所業は棚に上げて、一方的に裁くのはどうかと思う。
阿幾を脱獄させてないという日向のお館の言葉は本当だろう。
だが、したたかな老人の事だ。わざと見逃したとも考えられる。
だとすると、老人に素直に従うのは面白くない。
桐生をロバのように打ち据えるのを見てしまって以来、匂司朗は阿幾に纏わるこの一件全てに疑問を持ち始めた。
これは枸雅への対抗心だけなのか。
老人は阿幾を手に入れて、一体どうする気なのだろう。
そして、桐生はそれにどう関わっているのか。
確かにこれ以上、案山子の事で注目を浴びるのは好ましくない。
だが、何も知らないまま命令通り阿幾を捕らえるのは正しいのか。
へたな感情移入しない方が任務遂行には都合がいい。
しかし、桐生がいなくなって、考え直す時間が出来た。
そこで入れ替わるように阿幾が現れた事に何か意味がある気がする。
『立ち止まれ』と外れた事のない勘が囁く。
匂司朗の勘が鋭いのは、瞬間移動する宇輪砲の特性によるものらしい。
一足飛びに物事が見えてしまう。
だから、この事件の発端である阿幾の人となりを知りたかった。
色眼鏡を外して、阿幾を見なければならない。
阿幾を連れ帰ったのは、そう思ったからだ。
簡単に敵対関係が外れる訳がないにしろ、匂司朗の見た限り、狂気に染まってない時の彼は桐生がひねて大きくなっただけに思える。
東京では誰にも圧迫されてなかったせいか、逃げたばかりの時に比べ、かなり毒気が抜けたようだ。
だが、表情に虚無感が広がっているのが気になった。
匡平に拒否され続けて、彼の心は行き場を失くしてしまったのだろうか。
「何だよ?」
見つめているのが気になったのだろう。
阿幾がこちらを見返している。匂司朗は苦笑した。
「いやぁ、うまそうに食べると思ってな。
全部綺麗に平らげてくれて、作り手冥利に尽きるぜ」
「あんたがこんな料理上手とは思わなかったよ。嫁さんは幸せだな」
阿幾は箸を置く。
「じゃな」
「何だよ、茶くらい飲んでけよ」
「食ったら帰るって言っただろ?」
「何処へ?」
「あんたに言う必要あんのか。今度会う時は追っ手だろ」
「まぁな。けどよ、今夜はそのつもりはねぇって言っただろ。泊まってけよ」
阿幾は振り向いた。艶っぽく笑う。
「そのつもりでさっき裸を見せた訳じゃねぇんだけどな」
「俺もそのつもりはない」
「なら、いいだろ」
「けど、礼くらいしていけよ」
「ありがとよ。ご馳走様。じゃ」
「いや、それじゃ足りねぇ」
「何だよ」
阿幾はじれったくなって向き直る。
「今夜一晩、こいつらの番をしてやってくれねぇかな。
甘やかされて育ったせいか、飼主がいないと夜鳴きすんで近所迷惑なんだよ。
で、俺が毎晩つきそって寝てるんだが、お前が代わってくれると助かる。
桐生を探しに行けるしな」
「はぁ?」
阿幾は呆れた。
犬達は二人が騒いでるのに興味津々で阿幾を取り囲んでいる。
自分達の事を話してるのが解るらしい。
「放っておけば勝手に寝るだろ!さっきも寝てたし」
「いや、だから夜中に目が覚めちまったら困るんだよ。
さすがに五匹でキャンキャン憐れな声で鳴かれるとなぁ。
お前がいてくれるだけでいいんだ」
「はぁ〜」
阿幾は面倒臭そうに首の後ろを掻いた。
「探す手間を省いてやるよ。桐生は刑事に連れて行かれた」
「何っ!?」
匂司朗は仰天する。
「さっき公園で見かけたのさ。
桐生は俺にちっとも気づかなかったけどな。
刑事は匡平んちによく来てる奴だ。案山子との繋がりを怪しんでいる」
「うわぁ、補導かよ。…ん? じゃ、何でうちに連絡して来ねぇんだ?」
「桐生は家出してんだろ?警察に話すもんか。夜も遅いしな。
刑事が署で留め置きにしたんじゃないか?」
「じゃ、明日引き取りに行かねぇとな」
匂司朗は深く溜息をついた。
桐生は案山子の事を話す程バカではない。
刑事も案山子と彼らの関係を実証出来ないし、案山子の存在自体荒唐無稽すぎる。
TVでもやらせとかイタズラの説が強い程だ。
飽きっぽいマスコミが次の話題に流れていくまで大人しくしておくに限る。
せいぜい、明日は警察でいい父兄を演じるしかあるまい。
「これで礼は済んだろ。じゃあな」
「…お前、帰るとこあんのかよ」
「だから、それをあんたに心配される事は…」
出て行こうとして、何か引っかかった。
見ると犬が阿幾のコートを銜えている。
他の犬が悲しげにくーん…と鳴いた。
目をうるうるさせて阿幾を見上げる。
「行くなってよ」
「…………っ」
阿幾は苛立って、コートを引っ張ったが犬はがっぷり噛んで離さない。
コートに穴が開きそうだ。
「犬は淋しい奴の事は解るんだよ。人の気持ちに敏感だから」
「俺は別に淋しかなんか」
「まぁ、そう言うな。アイスクリームでも口直しに食べないか?」
「…? アイスクリームって何だ?」
それを聞いて匂司朗の顔色が変わる。
「阿幾ちゃんは一体どんな子供時代を送ってきたの?」
「いいガタイの男が涙ぐむなよ!恥ずかしいだろ!」
阿幾は真っ赤になる。
「とにかく桐生が刑事のとこにいるなら心配ねぇ。
アイス取ってくるから諦めて、そこのソファに座ってろ」
「勝手に決めんな。さっきから…」
が、匂司朗はさっさと部屋を出て行った。
阿幾は仕方なくソファに座る。
犬達は嬉しそうにハァハァしながら阿幾を見上げた。
また撫でろとばかり立ち上がって前足を阿幾の足に乗せる。
溜息をつきながら、阿幾は犬の頭を撫でた。
「ったく、強引なとこは千波野に似てるな、あの野郎」
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