「空気力学と少年の詩」 5

 

 ピシャリと扉が閉じた。南京錠を掛ける音が響く。
 男達のざわめきと足音が完全に消えるのを待って、匡平は隠れていた木箱の裏から立ち上がった。
 看守が残るかと思ったが、施錠だけだ。
 それは一見、無用心だったが見捨てられた場所なのを物語っていた。
 逃げだす事も出来ず、助けに来る者もないという事を。

(でも、おかげで好都合だ)

 匡平は足早に牢奥に向かった。
 会いたい。ただそれだけだった。
 この今瞬間にも阿幾がどうにかなっていないか。手遅れにならないか。
 それが心配で、現場に踏み込みたい衝動をこらえるのに必死だった。
 古い木の格子に縋りつく。暗くてよく見えない。
 何処かで虫が鳴いてるのか、小さなハミングが聞こえる。
 天井近くに小さな明り窓一つあるが、奥にいるのか阿幾の姿は朧に形が解るだけだ。
 夢中で呼んだ。

「阿幾! 阿幾!? 俺だ!」
「…帰れ」

 低い抑揚のない声が返ってきた。生きていた事にホッとする。
 歓迎されるとは思っていない。匡平は重ねて呼んだ。

「阿幾!!」
「帰れっ…つてんだろ…」

 阿幾は顔を上げない。冷たい掠れた声が暗闇から届くだけだ。
 うなだれた白髪は乱れている。
 ぐったりと壁に寄りかかっているようだった。

「阿幾、大丈夫か?」
「ハ…」
 嘲笑が漏れた。

「お前、さっきまでこの壁の…裏側にいたよな。解ってんだよ」

 匡平の身が強張った。
 阿幾は隻の中でも感覚が非常に鋭い。
 そのズバ抜けた探知能力の高さで相手の出方を先読みする。
 出自に拘るお社の保守派ですら、阿幾の隻の能力の高さを認めざるを得なかった。
 後の逃亡劇で、阿幾はそれを存分に活かして逃げ延びる事になる。
 壁一枚などないも同然だろう。

「阿幾…」
「…知ってんだろ?俺が…何された…か?
 それとも、もっと近くで…見学でもしたいのか?」
「違う!」

 匡平は必死で首を振った。
 知っていたのか。知っていながら、あんなよがり声を上げたのか。
 羞恥と怒りがない交ぜになってグチャグチャになりそうだ。

「俺はただ話がしたくて…。
 先生の事を聞いたんだ。お前は殺してないって…。
 何で、あの時そう言わなかったんだ、阿幾。そうしたら俺…」

「ハ、ハ!」

 けたたましい笑い声がそれを遮った。

「…で?」
「で…って?」
「お前は俺に何を言わせたいんだ?」

 匡平の顔がカッと火照った。
 阿幾は千波野を救えなかった。
 助けに行ったのに、暗密刀の刃からかばわれて死んだ。
 今更、自己弁護して何になるというのだろう。
 彼女を死なせたくなかったとか、他になりようがなかったのかとか涙ながらの懺悔でも聞きたかったのか。
 それとも、千波野の死を悼んで、一緒に抱き合って悲しみたいのか。
 少しでも当事者になりたくて。

(俺は…バカだ)
「ご、ごめん…俺…ホントに考えなしだった…」

 素直に頭を下げた。
 うなだれて謝罪する姿を見て、阿幾の苛立ちは解けたらしい。
 激情に駆られると、思考回路が止まる匡平の性癖はよく知っている。
 
「帰れ…見つかるぞ」

 かけられた声は優しかった。
 だが、匡平は首を振る。こんな状態の阿幾を置いていく事は出来ない。

「いい、別に」
「いいってなぁ…解ってんのか?」
「覚悟の上だ。外から南京錠もかけられてる。内からはもう出られないよ」
「…バカ」

 阿幾は呆れたように呟いた。匡平は笑う。

「中に入っちゃダメか?牢内の鍵は鍵掛けから取ってきた」
「…………」

 阿幾の沈黙は長かった。匡平は不安になる。

「阿幾…?」
「…さっき見学のつもりじゃない…って言ったよな。
 俺が…どんに惨めな姿を晒して…んのか…解ってて言ってんのか…」
「笑いに来たんじゃない。同情するつもりもない。
 どんな事情があろうと、案山子で人をあんなに殺すなんて…。暗密刀がかわいそうだ。
 だから、俺はお前に同情しない」

 阿幾は一瞬、目を伏せた。
 あの時、何故包丁の一本も持っていかなかったのだろう。
 篤史が隻だろうと、暗密刀に刃を向ける気になれなかったからか。
 だが、篤史を刺せば、少しは事態が変わっていたろうか。カタストロフは起きなかったとでも。

(いや、違う…)

 千波野の事はきっかけに過ぎない。
 阿幾の心奥には憎悪や絶望が常に渦巻いている。
 それは決壊寸前まで膨れ上がっていた。
 暗密刀との再感応の高揚感、暗密刀の中に数百年溜め込まれた人間どもの様々な負の感情。
 それらが轟く激流となって、阿幾を押し流した。

 破壊。破壊。破壊。

 それを解き放つのは「愉し」かった。
 射精と同様の激しい快感と爽快感に包まれた。抗うなど出来る訳がない。
 ずっとその瞬間を待っていたのだ。暗密刀自身も。

 阿幾を闇に押し込めたお社の判断は正しい。阿幾ですらそう思う。
 連中は震え上がったのだ。
 阿幾というより、村の闇が、人の業が、怨念が形を成して立ち現れた事に。
 禍つ神。人が御せぬ神は祟る。黒き神子は封じねばならない。

「…まだ殴り足りないのか?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ…俺は…ただ…」

 匡平は必死に言葉を探した。
 先生の事。暗密刀の事。村の事。
 それらを除けて、後に残るのは極めて単純な感情だけだ。
 匡平はそれを口にした。

「…傍にいたいんだ」

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