「空気力学と少年の詩」 6
一瞬、阿幾は絶句したようだった。すぐ舌打ちするような声を上げる。
「今更…っ!」
匡平は俯いた。阿幾を避けていたのは自分の方ではないか。その結果がこれだ。
阿幾は黒い呼び水だ。
不協和音、薄暗い道。
彼が誘う先には常に得体の知れないものが口を開けて待っている。
阿幾自身にその気がなくても、彼がいるだけで混沌を引き起こす。
村人はそれ故に彼を疎んじた。
魔性の子と呼ばれるのも、何の根拠もない事ではないのだ。
匡平はそれをよく知っていた。
自分の中に潜む巨大な奔流は、匡平にも制御出来ない。
手綱のない悍馬に似ている。そして、それを厩舎から引き出すのはいつも阿幾なのだ。
だから、会わない方がいい。
激しく惹きつけ合うからこそ、会ってはいけない。
案山子は隻にとって、感情の共鳴器でもある。
封印されたとはいえ、阿幾が再び暗密刀を得た事は匡平を心底怯えさせた。
千波野にフラれた事は匡平のプライドを激しく傷つけた。
初恋が破れた以上に、阿幾との歴然とした差を見せ付けられた。
阿幾は少しだけ大人で、匡平は子供。
隻である事など関係ない。
それが燻って、遣り切れなくて、千波野の死が充分その言い訳になると思った。
会いたくない。忘れたい。
自分の小ささ、無力さ、成長のなさが、あの夏の匂いと共に蒸し返されるから。
だが、寸での所で間に合った。
取り返しのつかぬ所だったのだ。
阿幾が人知れず処理されて「病死」と告げられたら、どれ程後悔する羽目になっただろうか。
自分のちっぽけなプライドに拘り、制御できず、しようともしない力に怯えたせいで、阿幾を喪ってしまったら、一生罪の鎖に繋がれる事になる。
まして、それが本当の病死でないと知ったら。
黒き神子は阿幾一人ではないという事を、その時、村は思い知る事になるだろう。
「ごめん…。みっともないのは解ってる。
けど、けど…今、帰ったら絶対に後悔する。先生の時より、もっと後悔する。
俺はお前を奴等に殺させやしない。触れさせんのも嫌だ!
だから傍にいる! お前を守る!」
「ハハ…お前な…頭膿んでんのか。お社の決定が覆るものか」
「牢内の事は公式じゃない。変えられる!変えてみせる!」
「だからこそ、奴等が認める訳ないだろう」
阿幾は大きな溜息をついた。小さく呟く。
「もう俺の事は…いい。忘れろ。終ったんだよ、俺達は」
「出来る! 俺が何とかする! お前の為ならお社とだって戦う!」
阿幾の片眉が上がった。夢物語だ。どう足掻こうと、皆、お社には潰される。
燃え尽き症候群になった匡平の父親がいい例ではないか。
隻だろうと、お社の体制の一部でしかない。
崇められてはいるが、本質は彼らの権威を飾る道具に過ぎない。
今や、案山子も土木工事や大型機材の運搬程度しか使い道がなくなった。
神と崇める根拠自体がぐらついている。
「勇ましいな…だが、隻でなくなったお前に何が出来る」
「少しは俺を信用しろ!」
匡平の凄まじい剣幕に阿幾は一瞬呑まれた。思わず笑い出す。
(ホント…土壇場にならないと、その気になんねぇんだよな、匡平は)
だが、そうなった時の匡平がどれ程のものか阿幾はよく知っている。
だから、どんな理由であれ、やる気になった匡平は見てみたい。
今まで村のルールから外れる事が出来なかったが、これをきっかけに体制に歯向かうというのを覚えるなら悪くない。
人殺しだと殴るくせに、お社の理不尽から守るという。
矛盾した男だ。
だが、これからも匡平はその面倒臭い矛盾を抱えて生きていくのだろう。
最強なのに、最弱に憧れているように。
同じ闇を抱えながら、阿幾が闇に飲まれたのに対し、匡平は闇に堕ちまいとして踏み止まり、光に顔を向けようとしている。
匡平自身が光では決してないのに。
その姿は小賢しい。
だが、羨ましくもあった。自分には決して出来ない事だから。
ずっとずっと恋焦がれてきた。
今だって変わらない。
自分の世界は匡平だけで、それ以外は何もいらない。
誰にも愛されず、望まれず、この村で生きているのはただ匡平がいるからだ。
未来も夢も阿幾は見ない。物質的な欲望も、とうに切り捨ててしまった。
匡平さえいればいい。
贅沢な事に最期の瞬間まで、ずっとそうでいられそうだ。
(惹きつけてやまぬ最強の俺の隻)
「いいぜ…入んな」
ようやくお許しを出しながら、匡平が今の自分の姿を見たらどう思うかと、微かな自虐の笑みを浮かべた。
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