「図書館」


 雨の日は体が重い。


 アレンは空を見上げた。雨の日は余り好きではない。幼い頃から彼の人生は旅の中にあった。その日々で雨は障害であり、気を重くさせるものだった。旅芸人にとって雨は天敵であったし、朝の髪の毛の状態でその日の気分が変わる師匠の機嫌の悪化を招く要因の一つだ。雨にまつわる記憶で余りいい風景はない。
 だけど、リナリーは雨が好きだと言っていた。
 屋根や緑を叩く雨の音を聞いていると気持ちが安らぐのだという。兄と午後の紅茶を飲みながら、あるいは一人で窓際で雨を降っているのを眺めていると、気持ちが落ち着くそうだ。
 それはリナリーにとって、兄と本部が『家』だからなのだろう。家は『護り、護られる』事の象徴だ。



(いいな、リナリーは。僕は家も兄弟もないもの。家にいるから落ち着くって、どんな気分なんだろうなぁ)



 マナとも、師匠とも、エクソシストになってからも一定の場所に長期間暮らした事はなかった。何処に行っても『宿』であって、『家』ではない。エクソシストになって、生まれて初めて自分個人の部屋をもらったものの、本部を『家』と呼べるほど、長くいた試しはなかった。この戦いが続く限り、アレンは家を持てない運命なのだろう。
 だから、彼の安らぐ場所は必然的に『人』が対象だった。護ってくれる腕。傘を差し掛けてくれる誰か。優しく囁かれる声。くつろげる膝の上。息をつける背中。そこが帰る場所だった。
 だが、マナを亡くし、師匠から離縁されるように失踪され、神田とはもう数ヶ月も会っていない。
 アレンは溜息をついた。誰かがいないと心許ない。基本的に自分は寂しがりやなのだと思う。マナと出会って以来、アレンは常に誰かといた。だが、多くの人に囲まれていたいとは思わない。たった一人の心から気を許せる相手がいればいい。それは多分虐待された過去のせいだろうが、それでも、独りになると途端に体の芯を風が吹き抜けるように淋しい。
 特にこんな雨の日は。



(汽車、まだ出ないのかなぁ)



 この長雨で土砂崩れがあったそうで、鉄道はここ数日運休していた。早く師匠と合流せねばならないが、街道沿いのどのルートも同じ状況で、アレン達はこの街に足止めを食っている。最初は手を打つべく駆け回ったが、豪雨はようやく峠を越え、交通 網の復旧も進んでいるようで、今はひとまず宿で様子を見ようという事で落ち着いていた。
 そうなると、目的をプツンと断ち切られてしまい、アレンは自分を持て余していた。一人で部屋にいると、雨の音が耳をつく。
 また溜息が漏れそうになって、アレンは何とかそれを飲み込んだ。雨の日に師匠が機嫌が悪かったのが何だか解る気がする。灰色の景色が、ぼんやりとした色彩 が、色々と余計な事を思い出させるからだろう。



(ラビは何してるのかなぁ)



 ふと思った。最近何やかやとアレンにちょっかい出してくる癖に、こんな日に限ってやってこない。数日間、ここに滞在しているせいで、ラビにやる気を起こさせる為に始めた目覚めのキスも休止中である。だが、それに対して何の文句もない事もアレンを気抜けさせた。朝食の時も、軽く喋ったきり、部屋に引っ込んだままだ。
(ラビは僕の事をどう思っているのかな)
 気分次第で構われるのは、何となく面白くなかった。
(もう目覚めのキスなんてやめようか)
 アレンは自分の唇を指で触れた。
 ラビはよくアレンの頬や頭や腕に触る。肩を抱く。さりげなく触れてくる。笑いかけてくる。当たり前の友達同士みたいに。アレンの事を知りたいみたいに。
 触られるのは好きだ。必要とされている気がする。誰かと繋がっている感じがする。マナもそうだった。彼の凍てついた孤独を癒してくれた、あの優しい掌が大好きだった。幼い頃、誰にも優しく抱かれた事のなかった記憶など消してしまう程、たっぷりと抱き締めてくれた。
 だけど、神田は余り触ってこない。本当に必要な時は触るけど、何処か一定の距離を置いている。それは師匠もそうだった。だから、触られる瞬間がとても貴重で、本当に幸せな気がする。
 どっちの方がいいとは言えない。
 ただ、キスは触られるのと何処か違う。心を簡単に開く鍵の一つだ。だから、遊びではしたくなかった。神田と会えなくて、心がふらついているこんな時は特に。



 だけど、やっぱり独りは淋しい。ティムもリナリーの所に遊びに行っていなかった。雨の音に囲まれていると、水底に沈んでいくようでたまらない。
(何でラビは来ないのかな)
 アレンは指を知らぬ間に噛んでいるのに気づき、思わず苦笑した。ラビにとって、あれが親愛の情ならそれはそれで構わない。アレンは今まで同世代の同性の友達というのを持った事がなかった。ラビとの会話や行動はひどく新鮮で、楽しくてアレンをワクワクさせる。打てば返すようなラビの言葉や表情を見てると、心が浮き立ってくる。
 もし、本当に耐えきれなくなったらラビに言えばいいだろう。ラビに触られるのは嫌いではないのだから。
(ううん、いつも一緒にいたいんだ)
 こんな任務抜きで。だけど、エクソシストになったからにはそんなわがままは通 らない。事態が落ち着けば、また離ればなれになるのだろう。神田みたいに。
(イヤだな)
 アレンは窓に頭を凭れた。ラビは神田の代用などとかけらも思ってはいない。ラビといるのが楽しい。嬉しい。大好きだ。でも、ただキスするのは何となくつらくなってきているだけだ。
 雨足が強くなったり、弱くなったりしている。まるでアレンの心の中のように。何だか自分の中身が解らない。自分がどうしたいのか。
 ただ解るのは自分がどうしようもない程、寂しがりやだという事だけだ。
 アレンは立ち上がった。ここで悶々としていても始まらない。にぎやかな事が好きなラビは、アレンの訪問を嫌がらないだろう。



 ラビの部屋は静まり返っていた。思い切ってノックする。
「誰さぁ?」
「僕です」
「入れば〜?」
 意外とすんなり通してもらった。アレンはその呆気なさにまた拍子抜けする。
 ラビはベッドの上に寝転がって本を読んでいた。彼の回りには本が散乱しており、あちこち山積みになっている。ラビのいる空間以外は殆ど足の踏み場もない。まるでコムイの部屋のようだ。アレンは思わず目を見開いた。
「どうしたんです、これ?」
「ん〜? 久しぶりに時間が空いたから、まとめ読みさぁ〜」
「この村には本屋も図書館もなかった筈ですけど、何処で買ってきたんですか?」
「そりゃ、持ってきたに決まってるっしょ? 次期ブックマンならこれ位当然さぁ」
「持ってきたって…」
 アレンは首を捻った。ラビの荷物は見たところ、着替えや洗面具など入った少し大きめのカバンが一つきりだ。とてもこの膨大な書物が詰まってるとは思えない。
「トランクでも別に送ってもらったんですか?」
「まさか〜。うまく詰めれば、こんなもん軽い軽い」
「…………」
 あのカバンの大きさとこの書物の体積が著しく合致しない。だが、何処でも突然現れるブックマン達の事だ。この程度の現象は奇怪の内にも入らないのだろう。
「何か用さぁ?」
「いえ、ちょっと暇だったんで」
「ふ〜ん」
 ラビは呟いた。だが、本から顔を上げようともしない。アレンが彼の側に遠慮しながら座っても何も言わなかった。やはりラビにとって、自分は気が向いた時だけの遊び友達なのだろうか。
「あの、ラビ…。汽車はいつ頃出るんでしょうね」
「……うん」
「こんな場所じゃ、何も出来なくて困りますよね」
「……うん」
 アレンは色々水を向けてみたが、やはりラビは顔も上げない。時折、ノートにペンを滑らせるだけだ。


(困ったな…)


 ラビは勉強中らしい。彼の稼業について多く知っている訳ではないが、ブックマンの話では情報は門外不出らしい。とすれば、これらの本に勝手に触ってはいけないのだろう。
 移動日や任務の間、これらを研究する暇はない。せっかく出来た貴重な余暇を邪魔してはいけない気がした。伯爵の動向を知る為、わざわざブックマンの元を訪れた所を見ると、これらの中にそれを探る貴重なヒントが含まれているかも知れない。
 淋しいからと個人的な理由でラビの部屋にのこのこやってきた自分が、いかにも子供っぽ過ぎる気がした。ぼんやりする暇があったら、体でも鍛えればいいのだ。新しい銃剣型の武器はアレンの体力を大きく削り取る。また戦闘中リバウンドを起こして、ラビ達を危険に晒すなど、もうあってはならない。



(そうでなくても、ガキってラビに言われてるもんなぁ)



 アレンは赤くなった。常に修練に励み、他人より一番自分自身に厳しい神田を間近で見ている癖に、そんな事も思いつかないなんて。夕食の後だって、いつでも時間はあるではないか。


(でも……)


 せっかく来たのだ。ほんの少しでいいから、何か喋りたかった。それで踏ん切りがつけられる。ただ、ラビは今忙しそうだから、もう少し気を見計らった方がよさそうだ。ラビだって勉強の間に一服するだろうし。
 それに本に向かうラビの横顔は静かで大人びており、いつもと違って見える。ラビの別 な面を発見したような気がして、アレンは黙ってラビの傍らに蹲っていた。
 時計と雨とラビが時折、ページを繰る音だけが部屋に響いている。その他は雨がみんな音を吸い込んでしまうのかとても静かだ。互いの呼吸音すら聞こえない。


「……アレンもさー、何か読んだらー?」


 不意にラビが言った。色んな想いに埋没していたアレンはビクンとする。慌てて言った。
「え!? …いえ、僕は別に…」
「…ふ〜ん」
 ラビはやっぱりアレンに顔を向けてくれない。アレンは落胆した。いつものラビなら、アレンの10倍は喋ったり、笑ったり、膨大な雑学を面 白おかしく聞かせてくれるのだが、今日はアレンなど眼中にないようだ。何だか自分の部屋にいる時よりずっと淋しくなってきた。
 喉の奥に膨れ上がってきたものを必死で飲み込む。
「あの…ラビ…」
「ん?」
「僕、やっぱり…帰ります」
「どしたんさぁ?」
 始めてラビが顔を上げて、アレンを見た。だけど、心は浮き立たない。



(………もう遅いよ)



 アレンはしょんぼりとベッドの脇から降りようとした。が、動けない。見るとラビがアレンのコートを捕まえている。
「何ですか?」
「もうちょっといたら?」
 ラビは首を傾げて言った。
「でも、僕、邪魔なんじゃないですか?」
「全然。二人の方が楽しいさ」
(楽しいさって…)
 アレンは呆れた。この状況の何処が楽しいのだろう。
「でも、勉強の邪魔でしょう、僕?」
「勉強なんてしてねぇもん」
「え?」
「だーかーらー、本読んでるって言ったろ? 雨だしー、他にやる事ないもん。アレン、遊びになかなか来ないしー」
「だって…それ、伯爵の事、調べてたんじゃないですか?」
「別に〜。そんなに簡単に尻尾捕まえられる訳ないじゃん。まぁ、こん中にそういうラッキーがあったらバンザイだけど」
 ラビは不意に笑い出した。
「アレンてさぁ、本当に甘えベタなんさぁ? やっぱ大人の間で苦労ばっかしたせいだろうけどさ。もっとワガママでもいいんじゃん?
 まぁ、クロス元帥とかユウ相手じゃ仕方ねぇけどさぁ。あいつら本当に『俺様』だから」
「……はぁ」
 アレンは少し俯いた。師匠や神田などの猫型人間といると、結局相手の意志を通 す事になってしまう。それに孤児院時代、物を配る時、順番を飛ばされる事、無視される事に慣れっこになってしまっていた。絶対に譲れない事以外、些細な日常の要求を飲み込んでしまう事はアレンの第二の天性になってしまっている。滅多にないから、神田達にはそれが余計頑固に見えるらしいが、基本的にアレンは相手の事情を優先する方なのだ。
「いっつもそうなん、アレンて? 誰にでも?」
「え? いえ…どうなのかな」
 アレンは曖昧な笑みを浮かべた。改めて考えると、アレンが心底甘える事のできたのはマナだけらしい。師匠達に気を許してなかった訳ではない。甘えさせてくれないというより、彼らは甘えられるのが苦手なのだ。どうもそういう人種ばかり好きになってしまうから仕方がなかっただけだった。



「じゃ、俺には甘えてよ、アレン」
「はぁ?」
「俺の方が年上なんだからいいじゃん。別に遠慮なんかする事ないさぁ」
「でも」
「でも、じゃないさぁ。本当は俺、今日ずっと待ってたんよ?」
「え?」
「だって、いっつも俺がアレンの側に行ってばっかじゃん。アレンの方から全然来てくんないし。俺の事ただの面 白いヤツって思ってるだけじゃないかって。
 だから、たまには待ってみたんさぁ。アレンが来てくれるんじゃないかって。でも、全然来てくんないし、時間ばっかり経つし、何か面 白くなくてさぁ。
 やっと来ても余り喋らないでじっとしてるし。俺だったら、本取り上げるとか、勉強の邪魔するとかそういう事しちゃうからさ。
 そんなに甘えベタなんて思わなかったさ」
「ラビ」
 アレンはまじまじとラビを見つめた。ラビは今日始めてにっこり笑う。アレンの手を取ってそっと握った。



「来てくれてあんがと」
「あの……」



 アレンは動揺した。ラビの笑顔がこんなに嬉しいなんてどうしよう。ラビの手が温かくてどうしよう。ラビが待っててくれたなんてどうしよう。


 ラビはグイとアレンを引き寄せた。耳元にそっと囁く。
「だから、キスして? 約束のキッスが一杯溜まってんだけど?」
「…………」
 アレンは静かに目を瞑った。ラビは笑って、アレンの指に指を絡めて、唇を塞いだ。




「………で、本まだ読むんですか?」
 アレンはちょっと唇を尖らせて言った。
「だって、多分明日から移動だもん。きっと強行軍でケツ痛くて、本なんて読めないさ」
 ラビは肘をついてページを捲りながら笑った。
「……だったら、少し喋りませんか?」
「もうちょっと、ね」
 ラビは笑ったまま、活字を追い続ける。
 アレンはラビの横顔を見ていたが、不意にラビの背中の上にゴロンと頭を乗せた。
「もう、重いさ、アレン」
「いいじゃないですか。ちょっと昼寝させて下さい」
 ラビの読書を邪魔するように、ラビから伝わる体温を楽しむようにアレンは頭をゴロゴロ動かした。
「ちょっ、アレン、くすぐったいさぁ」
 ラビは笑い出した。
「じゃ、もう読書なんてやめて下さい」
「やーだ。もうちょっと」
「もう。ラビの方がずっとわがままじゃないですか」
「俺もワガママ言わないと言った訳じゃないもーん」
 ラビは笑っている。その声が肌を通して伝わり、頭が少しくすぐったい。だから、アレンは動きたくなくてそのまま天井を見上げた。ラビはまた読書を開始する。だが、もうアレンは何だか心が満ち足りて止める気がなかった。このまま二人でずっとこうしていたい。
 雨が屋根を叩き、本独特の埃っぽい匂いが図書館のような気がする。
 ラビの背中はあたたかい。
 アレンはやがて静かに寝息を立て始めた。



 初めて雨の音を好きだと思った。

エンド

「眠い」の続き。この後、ウェブ拍手「笑顔」「ここ(此処)」と連作になっております。
しかし、やべーよ。どーするよ(^^;  神田、カミングスーン!しないと知らないよ。

ラビお題へ

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