「ドッペルゲンガー」 1



「あーあ、まーだ、うちのわんこは機嫌悪ぃなぁ」

 田中トムは事務所の窓から下を見下ろしながら呟いた。
 ビルの前の道路で平和島静雄が同じところをグルグル回っている。
 唸りながら、何かブツブツ言い通しだ。通行人が皆怖がって、大きく避けて歩いていく。
 昔、飼っていた犬が苛立ちを紛らわそうとしてるのにそっくりだった。
 昨日、弟の映画を見て以来、ずっとあんな調子である。

「映画、どうだった?」
 試しに聞いてみたのだが、
「映画? 映画はよかったっスよ、映画は…」

 と、心ここにあらずだ。
 しかし、何やらそれにまつわる事で連想したのか、ますます険のある顔になったので、なだめるのに必死で事情は聞き出せぬままだ。

(弟さんの扱いが悪かったんかなぁ? それとも噂のラブシーンが濃ゆ過ぎたとか? 
 静雄は弟の事となると、すぐマジになるからなぁ)

 トムは頭を掻きながら、溜息をついた。情緒不安定時の静雄はトムでも扱いが難しい。
 理由がはっきりしていれば、それなりに対処できるのだが、静雄が言わない以上、無理に聞き出さない方が賢明だ。
 静雄の場合、藪から蛇どころか虎が出てくる。
 おかげで今日の仕事はまるで地雷原を歩く気分だった。
 本日の静雄はニトログリセリンと気づかず、起爆スイッチを押す奴が続出し、サイモンに頼んで、三人で歩くべきか本気で悩んだ程である。
 やっと仕事が終わって会社に戻ってきたが、肩の凝りはいつもの三割増しだった。

(その内、機嫌が直るかと思ったが、明日もこんなだったら参るなぁ)

 静雄がトムに牙を剥く事はないが、暴力沙汰で仕事が何度も中断するのは出来れば避けたい。

(一杯やって、あいつの悩みでも聞いてやればいいんだが、ああピリピリしてちゃよぉ。まだちょっと無理だべさ。
 …そういや、静雄の奴。怒っちゃいるが、妙に溜息も多かったなぁ)

 そう考える内に、静雄は立ち止まり、ややあって大きな溜息を一つつく。


(ほら、やっぱ)
 トムは首を傾げる。
(まーさか、静雄に限って、恋の悩みじゃあんめーなぁ)
 トムはそう思い至り、すぐ笑って打ち消した。
 恋だったら、あんな虎みたいな唸り声を上げ続ける筈がない。

 

(あー、うぜぇ、うぜぇ、うぜぇ!)

 静雄は一つの思考に縛られっ放しだった。
 折原臨也だ。
 臨也の事で頭が破裂しそうで、どうにもならない。
 高校の三年間もずっとそうだった。
 うざくて、憎くて、殺したくて、それだけで無意味に高校生活は修了してしまった。

 来神で一人永井豪の「あばしり一家」を地で行く生活を繰り広げた。
 来る日も来る日も暴力とケンカ。
 麗しい思い出も、淡いときめきも、甘酸っぱい胸の痛みも何もなし。
 思い出すのは血の匂いと野郎の汗臭さだけ。
 真に不毛な青春だったとしか言いようがない。
 おかげで見事なまでの学力不足と度重なる停学処分で、大学受験を断念せざる得なかった。
 全部、臨也のせいである。


(その臨也と昨日…)


「ううう〜〜〜!」
 静雄は唸った。昨日からこっち何度唸ったか知れない。
 頭を抱えてのた打ち回りたい。昨日の事をなしにしたい。
 ああなる前に何故臨也を映画館から叩き出さなかったのだろう。
 問答無用で隣のビル目がけて叩きつけておけば、ゆっくり映画鑑賞できたのに。

(ゴミはゴミ箱に帰れ!)
 灼熱の怒りに焼き爛れつつ、
(そのゴミと俺は…)
 氷水同然の記憶にまた打ちひしがれる。


 最悪に忌々しいのは、臨也の中に突き入れた時、全てが吹っ飛ぶ程、気持ちよかった事だ。
 あの臨也に思い切り拳を入れた。
 あれは、その疑似体験も同然だった。

 突き動かすたび、臨也の顔が苦痛に歪み、のけぞり、悲鳴を上げて、身をよじらせる。全身で思い知らせる。
 その光景に静雄は気が遠くなりそうな快感を味わった。
 臨也が苦しがって、腕や背中に爪を何度も立てて痛いのすら快い。
 臨也が喘ぎながら、自分の名を呼ぶたび、背中がゾクゾクした。
 もっと言わせたくて、かすれ声を聞きたくて、夢中で責めた。
 潤んだ瞳で見つめられるのがたまらない。血の匂いと汗の香りに急き立てられ、幾度も奪った。
 互いに何度、イッたかも覚えていない。

 ずっと願い、焦がれていた事をしてやった。
 臨也を痛めつけたのが、拳でないのが多少違和感が残るが、悪くない気分だった。
 臨也が果てて、うつろな目で床に転がった時、何ともいえぬ高揚感と満足感で胸がすく思いがしたものだ。


(機会があるなら、またやってみてぇ)
 そう思い、その後すぐそう考える己を嫌悪する。
 本当に臨也を殺すのは、この拳だ。

(あいつをまた強姦するなんて冗談じゃねぇ! 今度あいつに触る時は首と脊椎へし折ってやる!
 あの状況でだから、臨也の提案に乗っただけだ。
 俺は「臨也をやっつける気分」てのを味わいたいんじゃない。ケンカの代用なんかいらねぇ)


 静雄はタバコに火をつけた。
 臨也は絶対に許せない。
 幽を人質にし、侮辱した。あんな野郎を生かしておいちゃいけねぇ。
 そうでないと、また不幸な人間が増える。臨也の趣味を満たす為だけに。
 臨也が拠点の新宿を離れ、たびたび池袋に来ているのは知っている。必ず何か目的があるからだ。

 街が壊れ、濁っていく。腐臭を放ち始める。
 臨也がいると、いつもそうだ。
 誰かが泣き、誰かの心が壊れ、誰かが血を流す。

 それが静雄には我慢ならない。
 静雄は正義の味方を気取る気は全くない。
 臨也への殺意はただの私怨だ。ただ、臨也の犠牲者が増えるのも快く思っていない。
 臨也は女にも平気で手を上げる。
 彼女らを嬲り、自殺に追い込んで笑って見てられる。そういう外道だ。

 だから、今度会ったら、迷わず止めを刺す。
 臨也を抱いた訳では断じてない。
 レイプした。暴行した。下半身で殴ってやったのだ。犯罪で構わない。
 ただ、それが臨也の誘いで合意の上なのが癪に障るが。


(壊れてやがる)
 臨也は本当に始末に終えない。
 それでも、臨也の中は熱かった。肌はしっとりして手に吸い付いた。
 血は人間と同じく赤かった。歪んだ心を除けば、何処までも普通の人間だった。


(あいつが少しでも…たまにでもいいから、思いやりとか優しさを持ってりゃ、俺達も少しはうまく行ったのによ)

 静雄は空を見上げた。ビルの谷間から覗く夜空はくすんでいる。
 そういえば、時折、稲光らしいものが見え、風も出てきた。
 この分だと今夜は荒れそうだ。
 真っ黒の夜空がまた光る。
 パッと白く閃く雷光はネオンより眩しく、何者かの命の輝きのようだ。
 雲間を竜のように走るそれは確かに息づいている。

 一瞬で消える閃光は臨也がふるうナイフを連想させた。


(お前だって、人間を弄ぶ以外、生きる目的がある筈じゃねぇのか、臨也? 他に何もねぇのかよ?)

 臨也の趣味を終わらせたい。やめさせたい。
 誰かの涙を見る前に。
 でも、あの閃光に、瞬く命に彼の拳は届かない。

 静雄は指で拳銃を作った。空に向かって構える。
 小さく呟いた。

「バン!」

 その瞬間、空に小さな穴が開いた。

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「プレミアムシート」の翌日の話。
これからが本当の本編だ(笑)
余りに長いので、 章ごとに名前を変えようか考え中。


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