「ドッペルゲンガー」  4

 

 子供だった。
 見た目は普通の子供だった。
 綺麗な、しかし、何処か昔に見た子供。
 自分で自分を見る時は意外に少ない。鏡やアルバム。それだけが過去の記憶の断片だ。
 黒いTシャツと短パン。フード付のパーカー。小学生だった頃の子供の臨也。

(俺? しかし…)

 だが、まとった空気が子供ではない。凍てついた視線が冷え冷えと臨也を睨んでいる。
 しかも見ていると、何故か視界が曖昧になってくる。

 いや、違う。
 透けているのだ。体が。少年と通して向こうの景色が見えるから、視界の焦点が合わないのだ。
 しかし、真昼間に幽霊など臨也は信じなかった。
 首なしライダーがこの世に存在するように、この半透明の子供も幽霊ではない。
 頬を抓らなくても、これが現実だと判る。
 この子供は確かにいるのだ。彼の目の前に。
 少し手の届かない距離という、臨也らしい距離感を保って。

(君は…?)

 一体、誰? いつの間に現れた?
 臨也はそう問いかけたかった。上映までの時間潰しに紛れ込んできた子供には見えなかった。
 目的を持って現れたのだ、彼は。


 だが、どういう訳か口が利けない。体も金縛りにあっている。
 明らかな憎悪に晒されているのに、どんな対処も出来ない。
 客席からはうっすらと映画のOPの曲が流れてくる。ドアを隔てて静雄がいる。
 なのに、声を出して呼ぶ事も、注意を引く事も出来ない。
 出来るのは、ただ睨み返すだけだ。彼は臨也を憎んでいるが、臨也も少年を好かない。

 少年は臨也の表情を読んだのか、初めてニヤリと嗤った。
 幼い、だが禍々しい笑顔。いつも臨也が浮かべるのと同じ。
 しかし、人に向けるのと、自分に向けられるのは訳が違う。
 静雄が『手前の笑みを見てるとムカムカすんだよ』と言うのが始めて解った気がした。
 臨也ですら、ウザいと思う。横面を張りたくなる。

 少年はゆっくり近づいてきた。一歩づつ。静かに音もなく。紅い絨毯を踏みしめてやってくる。
 薄ら笑いを浮かべながら、身動き一つ取ることも出来ない臨也に向かって。
 そして、彼は臨也の傍らに立った。10歳の子供の身長は座ったままの臨也を少し見下ろす程度しかない。
 だが、その威圧感は尋常ではない。
 誰かを操るだけではない。口先でゲーム盤の手駒を動かす今の臨也のレベルではない。
 支配する。指を軽く上げただけで、視線をチラリと向けるだけで人が動く。そのレベルだ。

(一体、何だ、こいつは…)

 少年はゆっくりと臨也の頭に向かって手を伸ばした。臨也は唇を噛み締めて、身構える。
 これだけの憎悪だ。見られてるだけで肌がチリチリする。
 髪の毛を引っ掴んで振り回すか、いきなり目に指でも突っ込んでくるかと思ったが、ただ頭に手を置かれただけだった。

「………?」

 不思議に思った瞬間、何かザワリと全部の細胞が引っ掻き回された。そうとしか言いようがない。
 オセロの駒を白から黒にひっくり返すような、ひらがなを漢字に変えるような、裏返るような感覚。
 痛くはないが、根こそぎ存在 を変えられる、そんな感覚。
『変換』。
 無理に名づけるなら、そんな気分だ。


 少年は自分の手のひらを見つめ、満足そうに頷いた。驚きに瞬きした臨也は、もう少年が透けてない事に気づく。
 慌てて、自分の指をチラと見下ろしたが、自分は透けてはいなかった。少しだけホッとする。
 臨也の心を読んだのか、少年はまた嗤った。
 初めて、小さな唇が動く。

「君を必ず、殺して、やる」


「気づいた時は消えてた。夢と片付けたいところだが、それじゃ面白くないしな」
 臨也は服を着ながら呟いた。
「過去の自分に宣戦布告された訳だ。自業自得って感じだねぇ。
 君の罪悪感が生み出したドッペルゲンガー。未来の君は一体何をしたのか、またしでかすのか。
 いやいや、君に罪悪感なんかないか。

 では、少年は何者か。断罪者か、裁く者なのか。

 ま、僕は君がどうにかなってくれて、セルティに手を出さないようになってくれれば万々歳。その子を応援したいくらいだな」


 茶化す新羅に臨也は冷たい視線を送る。
「で、どうすんの?」
「一応調べてみるが、お前が説明した以上の事は余り出てこないだろうな。
 俺も殺されるの待つつもりはないから、対策は練るさ。
 ちょうど、お前の親父に呼ばれてる。森厳の性格はお前よりひどいが、お前より優秀な医師で科学者だ。
 その手の知識も持ってるだろ」
「大事なことだから二回言いましたって言ったら、治療費三倍に吹っかけるよ、臨也」
 新羅はニッコリ笑う。

「矢霧製薬がネブラに合併吸収されたせいで、研究所の設備も一新された。いよいよ、本格的に何か始める気だな」
「あー、やだやだ。父さんは昔からきな臭い場所が好きだからねぇ。池袋のど真ん中で何をやるつもりなんだが。
 父さんに会うなら、言っておいてよ。セルティに手を出すなら、父さんも縁を切るよってさ」
「あの男に聞く耳があるならな」


 臨也はコートを纏った。風をはらむその動きを美しいと思いつつ、新羅は眼鏡の奥で冷たく思った。

(臨也さえいなくなれば全てが丸く収まるのに)
 セルティを失わず、誰も傷つかずに済むのに。

「臨也、君もだよ。セルティに少しでも何かしたら、治療費を定価の10倍に引き上げるから」

 臨也は肩をすくめて、身を翻した。
 セルティの首は彼の書斎にいる。それは森厳すら知っている。
 それを語らぬまま、ドアを閉じた。


 見たいものを見、したい事をする。
 帝人にも、セルティにも、静雄にも。
 池袋を混沌に陥れ、ヴァルキリーをこの世に降臨させる。

 誰も見た事のない世界を見てみたい。誰だってそう一度は思う筈だ。

 ただ、臨也の場合、飛行機や船では決して見られない場所を見たいだけ。皆をそこに連れて行きたいだけ。
 本当のこの世の果てを。美しい絶望の地を。
 臨也だけが望む天国を。
 その為なら、何でもする。
 ただ、全ての結末を見るまでは、自分が指揮する池袋交響曲が最後の音を奏でるまでは生きていたい。
 過去が自分に復讐しようと、誰の手も掴んで放すものか。
 引き摺って、煽って、全員が訳も解らないまま破滅へ向かって突き進むまで、彼は背中を押すだけだ。


 全身の傷を感じさせずに、臨也は軽やかに歩いていく。 
 したい事をされるのは自分も同じだと、まだ気づきもせず。


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