「HERO」 その2

 

(気持ちいい)

 それはただ触れているだけなのに、何故か不思議に快い。
 アスファルトの熱さも傷の痛みも少しの間だけ軽くなった気がする。
 羽根の先のように、小さな指が触れた。優しく、とても気遣わしげに。

(俺は知ってる…。この手)

 乾き切った砂漠でようやくオアシスに辿り着いた旅人のように、静雄はその手の優しさに目を細めた。
 病院で傷の痛みと熱に魘されてる時、いつも彼を憩わせてくれる手。いつも彼を見守っているまなざし。
 静雄はぼんやりと目を開けた。そっと微笑む。

「幽…」

 幼い弟が傍らにしゃがんでいた。小首を傾げ、大丈夫?と目が心配そうに覗き込んでいる。
 幽の背後にある初夏の青空がひどく眩しかった。
 他人ならへっちゃらだと強がるところだが、静雄もこの弟にだけは素直になれた。

「動けねぇ…」
 幽の目がサッと曇ったが、小さく頷く。
「救急車呼んでくる」
「待て…よ」

 立ち上がりかけた幽を呼び止める。体中が痛むが、まだ少しだけ傍にいて欲しかった。身体より心が飢えていた。
「何?」
 手足が不自然に曲がった兄を前にしてるにしては、その顔も声も恐ろしいまでに平板だった。
  さざなみ一つ立たない。この状況に慣れてしまった弟が悲しい。


 昔の弟はもっとよく笑った。クルクル変わる表情を眺めてるのが好きだった。
 変わってしまったのは、静雄の異変が明確に起こり出してからだ。
 あれから幽は少しづつ表情を失った。兄の感情を逆立てないようにしてるのだろう。

(変えちまったのは、俺なんだ)
 静雄は罪悪感をグイと押しやると、肋骨が痛むのをこらえ、何とか言葉を搾り出す。

「どうして…俺がここだと…解った?」

 幽とこの道を一緒に歩いた記憶がない。高学年になると、弟との下校時間も擦れ違いがちになる。
 今日のようにバイクでいきなり突っかかるなど、不良も性質が悪いのが増えており、人数が多いと庇いきれない。
 静雄は幽を暴力に巻き込みたくなかった。
 例え、幽が静雄を怖くないと言ってくれても、言ってくれるからこそ、傷つけたくなかった。
  だから、幽が今日この道を静雄が下校すると知ってる訳ないのに。


「何となく」
 幽は事もなげに答えた。
「え?」
「兄ちゃん、優しいから。
 だから、ここを選ぶと思った」


 静雄の目が微かに見開き、不意に視界が潤んだ。胸が一杯になる。

(幽は、幽だけは解ってくれる。幽だけは…)

 瞼の奥が熱い。胸が苦しい。誰にも見つけてもらえないと思ってた。
 この淋しい道を選んだ理由も解ってもらえないと思ってた。
 この痛みの中で、孤独の中で過ごし続けるのだと思っていた。
 でも、たった一人。ただ一人でも気付いてくれる。それがどんなに幸せな事か。
 幽の小さな手を握り返したかった。思いを込めて、手と手で幽に伝えたかった。
 だが、静雄は懸命にこらえる。握り潰してしまう。自分の残酷な手は。だから、歯を食い縛って耐えた。


「兄ちゃん、痛い?」
 静雄が苦しそうな顔をしているのを見て、幽が怪訝な顔をする。
「平気だ」
「だって、泣いてるよ」
「バッ、バカ言え! 俺が泣くかよ」

 照れて俯いた兄を幽はじっと見つめた。かわいいなと思う。軽い微笑が浮かんだ。
 兄の傍にいたくて、兄の為に表情を押し殺す癖がつきかけてはいたが、まだまだ完全に板についた訳ではない。
「救急車、呼んできていい?」
「お、おう」


 立ち上がった幽を見上げたが、そこに弟の姿はなかった。

(…え?)

 代わりに聳えていたのは真っ黒な影だった。静雄にのしかかるように太陽を遮っている。
 刹那、腹に物凄い衝撃を受けた。折れた骨がミシリと周囲の組織を傷つけ、内臓がカッと熱くなる。
 蹴られたのだと認識するまで、ほんの間があった。飛ばされた転がり、幽がどうなったか目に入る。
 弟は脇に突き飛ばされ、別の高校生に押さえ込まれていた。細腕と肩を太い腕でギッチリ握られている。

「かす…か」

 言葉にする間もなく、畳み掛けるように数回蹴り飛ばされた。折れた部分の骨が擦り合って痛い。
 全身の細胞が悲鳴を上げる。折れた腕では頭も庇えない。こめかみや唇が切れ、血が道路を染める。

「ワー、ラッキーラッキー、超ラッキィィィイ!」

 静雄をボールのように蹴り飛ばしながら、リーゼントの高校生は居丈高に笑った。
 いきなり、静雄の胸倉を掴み上げると、煙草とにんにくの入り混じった臭い息を吹きかける。

「おめぇの噂は聞いてるよ〜ん。こないだヤクザまでのしちゃったんだって?凄いよねぇ。
 さすがにガキにやられたって恥だから、あいつらも黙ってるけどさー。
 なら、お前狩ったら、俺らも超ビッグー?
 でも、俺らはねぇぇ、頭いいのー。あのバカ共とは違うのよー?」

 と、静雄がブン投げたバイクを顎でしゃくり、

「おめぇは強ぇけどさ。ケンカの後は腕折ったり、足折ったり、マジポンコツになるじゃん。
 そうなったおめぇを狩っちゃえばいい訳じゃん。わざわざ苦労しないでもさぁ。
 例え、お前がここで再起不能のミイラになったって、どっちで骨折したか誰にも解らない訳じゃん。
  ま、俺らのせいじゃねぇしぃぃ。
 だから、俺らはのーんびりおめぇがポンコツになるのを待ってりゃよかったのよ。

 見張られてたの気付かなかったでしょー、おめぇ」


「…俺は…」
「ああん?」
 初めて口を開いた静雄に不良は怪訝な顔をする。

「俺はいいから…幽を放せ…」
「聞こえませーん!」

 不良はニヤニヤ笑いながら、静雄を殴り飛ばした。
 強大な力を行使出来ようが、今戦えない静雄はただの小学生に過ぎない。
 軽い身体は呆気ないほど遠くまで転がり、壁に激突する。

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