「臨也とイザヤ」 10
甘酸っぱい。
花の香り、アーモンドの花の匂い。
死の香り。
臨也は床に転がったまま、咄嗟にTシャツを掴んで顔に押し当てた。
四木という目つきの鋭いヤクザに人を殺す為のレクチャーを受けた時、一度だけ嗅いだ香りだ。
青酸ガスは一酸化中毒と似た症状を引き起こす。
血管を詰まらせ、窒息死させる。
『だから、死体は綺麗な桜色になるんだぜ。
生き生きして眠ってるように見えるのさ。
中毒すれば、たった15分であの世に行ける』
四木の言葉そのままに、静雄は床に転がっている。
顔が桜色に染まって、ピクリとも動かない。
(シズちゃん?! シズちゃん!! シズちゃん!!!)
ガスがまだ残っている。
だから、臨也は声を上げない。
心の中でだけ絶叫する。
狂おしく倉庫を見回し、塩素系漂白剤が詰まった石油缶を見つけた。
蓋を開けるのももどかしく、静雄の周りにぶちまける。
目に染みる程の塩素臭が充満し、青酸の甘酸っぱさを押し潰す。
完全な中和には程遠いが、しないよりマシだ。
身を翻し、亜硝酸アミルのビンを掴んで布に零すと、静雄の下に転がるように駆け寄った。
薬品会社でよかったと心から思う。
(いや、倉庫内をチェックした際、アミルがあった時点で、俺はシアン化合物を扱ってると疑うべきだったんだ。
情報を見逃したのは俺だ)
緊急時、感情に溺れても問題は解決しない。
心を置き去りにして、ただ静雄に集中する。
むせて喉が痛いのも構わず、布を静雄の顔に押し付けた。
薬品がガスと結びついて、血液の凝固を止めるらしい。
背後で巨大な工業用のファンが勢いよく換気を始めている。
が、臨也にはどうでもよかった。
静雄の頬を叩き、胸に耳を押し当てる。
(息をしてない?)
あのガスの噴射をまともに食らったのだ。
少量だったようだが、それでも殺傷力は高い。
人工呼吸をしたかった。だが
『青酸カリやガスでやられた人間を間違っても人工呼吸しようなんざ思っちゃダメだよ。
体内の毒に殺られたくなかったらね』
四木の薄い笑みが臨也を踏み止まらせた。
何も出来ない。
酸素呼吸器すらない。
静雄が死んでいこうとしてるのに、何も出来ない。
静雄が死ぬ筈がないと思っても、彼の呼吸は止まっている。
身体が震える。
頭が真っ白になりそうだ。
刹那、この部屋の周囲に満ち満ちてくる警備員達の気配を感じた。
ガスは少し空気より軽い。
ぐったりした静雄の身体は重かったが、臨也は死に物狂いで低く屈んだまま彼を引き摺る。
壁側の通風孔の柵を力任せに蹴飛ばした。
古く錆びた柵はあっさりと開いた。
地下のせいか中洞はやや広い。
臨也はその中に静雄を引きずり込み、抱いたまま必死で這い進んだ。
時間がない。
奥へ。
彼らの手が届かない奥へ。
出来るだけ暗闇の先へと入り込む。
やがて、倉庫の中に警備員達が侵入した。
荒々しい足音がここまで伝わってくる。
臨也は思わず静雄の頭を抱きかかえた。
目を瞑って、息を殺す。
(見つかるな!)
男達のざわめきや足音が通風孔の奥まで響いてくる。
チリチリとした緊張で肌が焼け付くようだ。
胸の中の静雄はピクリとも動かない。
遂に通風孔の中にライトが差し込まれた。
探索されている。
ドシドシと誰かが中に入ってきた音がする。
(シズちゃん!)
臨也はギュッと静雄を抱きしめた。
彼らが近づいてくる。
足音が大きくなる。
光が揺れ、闇の中を彼らを探して這い回る。
それは容赦なく闇の奥を照らし、騒がしく居場所を暴きたてようとした。
今にも臨也のいる場所に達しそうだ。
コートのフードを掴まれる。
そんな恐怖が心臓を鷲掴みにする。
が、不意にライトの索敵が頭上からサッと消えた。
同時に彼らの気配も遠去っていく。
臨也が通風孔が傾斜した所に逃げ込んだ為、探索のライトが届かず、別の場所に逃亡してしまったと判断されたらしい。
シン…と静けさが戻った。
思わず安堵の吐息が漏れる。
(でも…シズちゃんが…)
臨也はただ疲れ切り、闇の中で縋るように静雄を抱きしめ続けていた。
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