「臨也とイザヤ」 9
その彼らを監視カメラが見つめていた。
ガラクタの影に隠されているので、素人目には解らない。
「やっと見つけましたね」
研究員が安堵の溜息をついた。
彼らを見失ってから数十分のロスがある。
全てのカメラをチェックしても見つからず、再チェックでやっと捉えた。
この部屋をネブラは使用リストに入れてなかったので、初期データから漏れていたのだ。
「矢霧がだらしないから、こんな事になる」
松岡は歯噛みしながら吐き捨てた。
この手抜かりも自分のマイナスになるのだ。
イザヤからの命令を受ける立場に降格したとはいえ、責任者である事に変わりはない。
「だから、矢霧時代のデータを再チェックしてよかったでしょ?」
イザヤは彼から少し離れた手摺りに座って、足をブラブラさせていた。
彼らが逃げそうな場所を特定するのは簡単だった。
臨也は過去のデータに頼る筈だ。
サーバの端末からデータを盗めば、記憶と照合して、現在のデータから漏れた場所を選んで移動していくだろう。
(つまり、僕はそこに罠を仕掛けて待ち構えていればいいのさ)
だが、さすがに静雄が臨也と手を組むとは想像もしなかった。
臨也の手の内なら手に取るように解るのに、静雄が絡むとどう転ぶか解らない。
(何で臨也なんかと手を組むかなぁ。
ありえないよ。
シズちゃんが選ぶのは、この僕だろ?)
面白くない。
イザヤの考えでは絶対ない可能性だったから尚更だ。
(シズちゃんがいたら、臨也を殺せないじゃないか)
二人が出会えば、常に血の雨が降る。
てっきり、静雄は臨也を半殺しにすると思っていた。
臨也が逃げ切っても、その先で罠にハメて挽き肉にしてやれたのだ。
この実験が終わったら、静雄と清々しくやり直すつもりなのだから、静雄に殺人という後味の悪い経験をさせたくない。
この研究所内なら、いくらでも簡単に臨也を料理できる筈だったのに。
一体、どんな心境の変化で、臨也と一緒にいられるんだか。
(二人を何とか引き離さないとな)
考え込んだイザヤは松岡に幾度も声をかけられて、うるさそうに顔を上げる。
「何?」
「ですから、防虫駆除と防犯対策でシアン化水素があの部屋に設置してあるんですよ。
実験として使えます。
実験開始の許可をお願いしたいんですけどね」
「シアン化水素?
条例で禁止されてるだろ。あんな廃棄倉庫に物騒なものつけ過ぎ」
「設置は矢霧です。
それに工場ではありふれた奴ですよ」
松岡は肩をすくめた。
シアン化水素。つまり青酸ガスだ。
吸引すると血液と結びついて細胞の窒息を招き、270ppm以上で即死させる。
猛毒だが、青酸カリはメッキや分析試薬の為など工業用で用途は広い。
医薬品の安定剤としても使われるから、製薬会社が使用しても不自然ではないと松岡は言いたいのだろう。
「許可しない。部屋が狭すぎる」
「ノズルは対象を絞れますし、噴出量も最小に抑えますよ。
それとも、イザヤさんは実験に消極的なんですか?」
松岡は挑発的に嗤った。
「そうじゃない。
毒ガスは後遺症を残しかねない。次の実験の継続に支障が出る」
「しかし、このままだと逃げられますよ。
この状態で二人を次の実験室に誘導できるというんですか?」
「手はあるさ。
僕の指示に従えと言った筈だけど」
イザヤは松岡の顔も見ずに言った。
松岡は屈辱に顔を歪める。
「では、シアン化水素でなく、催眠系ガスでどうですか?」
「そうだな」
二人を引き離したい。
イザヤは画面を見つめたまま思った。
二人の距離が近いのが気に入らなかった。
(シズちゃんはもっと狂ったように僕を追いかけて求めるべきなんだ。
僕の事だけ考えるべきなんだ。
あそこには臨也じゃない。
僕が立つべき場所なんだからさぁ)
「間違うなよ」
だから、つい言ってしまった。
松岡に任せてしまった。
念押しされた彼のこめかみに血管が浮くのを見ようともしなかった。
それがどんなに後悔する事になるか気づきもせず。
松岡はコンソールの前に立った。
画面には臨也と静雄が映っている。
これは静雄の為の実験。
彼が推した実験だ。
だから、結果を出すのだ。
催眠ガス?
ふざけちゃいけない。
そんなぬるいもので、あの化物を測れるか。
あの金色の獣の内部を解き明かせるのか?
イザヤには出来ない。
最初から、イザヤには静雄の肉体を解き開くつもりはない。
研究者の目で見てないからだ。
松岡には判る。
(だから、私が…)
指がスイッチに向かった時、臨也が画面を横切った。
そっくりだ。
まさにイザヤの未来の姿。
美しいしなやかな若木のような身体。
ずんぐりとした松岡と対照的な肉体。
忌々しい。
消してしまいたい。
あいつさえいなければ。
松岡はノズルの向きを臨也に向け、スイッチを押した。
(……?)
静雄の背筋が、全身の毛穴がザワワッと騒いだ。
長年、襲撃を受け続け、本当の危険に対してのみ働く獣の勘が、静雄に危急を告げる。
この部屋に入ってから蠢き続けていた警報が彼の中で激しく轟く。
反射的に天井を振り仰いだ。
上だ。上から何か来る。
静雄には小さなガスノズルが見えない。
正体も判らない。
だが、危険は上にある。
そして、標的は俺じゃない。
「臨也っ!!」
咄嗟に静雄は稲妻のように飛んだ。
臨也に向かって。
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