ニンフェット(幽静)2
「…って訳だ。
幽、お前の気持ちはホントに嬉しいが、俺は当分このままでやっていきてぇ」
静雄は神妙な顔で幽と向かい合っていた。
コーヒーの湯気が消えかけている。
幽が何も言わないので、了承と受け取って、静雄はグッと一息にコーヒーを飲んだ。(ここにデスノートがあったらな)
幽は独尊丸を撫でながら考えていた。
(一番惨たらしい方法で臨也を殺してやるのに)
幽はいつもと変わらぬ顔で静雄を見た。
「解った。いつでも気が変わったら、言ってね」
「悪ぃな、幽。じゃ、俺、仕事行ってくるから。またな。仕事無理すんなよ?」
「うん、気をつけて」
静雄が出て行くのを見送りながら、幽はゆっくりと仔猫を撫で続ける。
(折原臨也…)
「ニャッ!」
撫で過ぎたのか、青白い静電気がバチッと仔猫の毛皮を走った。独尊丸は跳ね上がり、部屋の向こうへ逃げていく。
「…………」
仔猫が走り去るのも目で追わず、幽はじっと静雄が出て行ったドアを見続けていた。
しばらくして一つ溜息をつくと、携帯を取り出しマネージャーに電話する。
「あ、卯月さん。俺です。
この間の仕事、迷ってたけどやっぱり請けます。仕事の調整ききますか?」
受話器の向こう側でマネージャーの弾んだ声が聞こえる。
事務所側としては、幽にいくらでも仕事を強制したいのだが、幽が序盤からとんでもない資産持ちになってしまい、いつ芸能界を辞めても未練がない状態になってる為、駆け出しのアイドルのように、少ないギャラで馬車馬のようにこき使えないという状況にあるからだ。
詳しい打ち合わせは事務所で、と決まったところで、幽はもう一本電話を入れた。
短く話した後、電話を切る。
独尊丸が寝室の隅で小さくなってるのを、優しく抱き上げた。少し震えているが、優しく撫でてやるとすぐ腕の中で喉を鳴らす。
「ごめんね、独尊丸。痛かった?」
仔猫は聞いてるのかいないのか、既に寝息を立てていた。
その夜、幽の玄関の前に静雄が立っていた。
今朝の件もあってか、ちょっと居心地悪そうな顔をしている。幽は内心苦笑したが、無表情な顔はそれを表に決して出さない。
「ごめんね。急な仕事が入っちゃって。電話して御免ね。独尊丸だけにしとけないから」
「ああ。ま、仕事じゃ、しょうがないもんな」
静雄は肩をすくめて、部屋に上がる。
仕事。
社会人はその決まり文句にとても弱い。期末テストと同じ位仕方ないと納得する。
だから、幽は無理に予定外の仕事を入れた。静雄がこの家から出られないように。なし崩しにいついてしまうまで。
(恋は戦争だもの。ちょっとだけズルくないと欲しいものは手に入らないよね)
敵は折原臨也だ。この優位を崩したくはない。アパートに帰ってしまった兄に彼はいくらでも付け込める。
だから、手放さない。
静雄は人に比べて、物欲がない。もらったものは大事にするが、自分から欲しがる事は余りなかった。
子供の頃、ねだってやっと買ってもらったものを自分の怪力で幾度もすぐ壊してしまったからだ。
だから、車の免許も取れないし、元から然程ファッションにも興味がない。
親や弟から「これ、着て」と言われたものをそのまま着ているとこがある。
綺麗な住居も仔猫も兄を変える事は出来ないけど、気持ちを揺らがせる事は出来る。
その為に何だってつぎ込む。自分自身だって。
(日本でトップクラスのアイドルが、たった一人をどうする事も出来なくて、必死になって繋ぎとめようとして、ジタバタ足掻いてるなんて、きっと傍目から見たら随分みっともないんだろうな)
しかもそれは実の兄だ。
静雄は勘がいいから気づいてるのかも知れない。幽の想いを。近づいていく距離を。
だから、無意識に幽を傷つけないような理由を作り、元の状態に戻そうとしてるのだろう。
道徳的にみれば、それは正しい事だ。兄は幽を弟としか愛していない。子供の頃から二人の距離が近すぎて、幽が勘違いをしてると思われても仕方ない。
だが、気持ちはどうしようもないのだ。
兄が好きだ。
あの孤独な背中を癒してやりたい。しかめっ面を幸せな笑顔にしたい。誰にも愛されてはいないという誤解を解きたい。誰も愛してはいけないという静雄が自分自身に課してる規律を叩き壊してやりたい。
ただ、兄を抱きしめたい。
自分だけのものにしたい。今までも、これからも。
幽を占めている想いはたったそれだけだ。
ひょっとしたら、子供の頃から変わってないのは俺だけかも知れない。
兄に置いていかれたくなくて、シャツを掴んで泣いてるだけの子供。
それでも、幽はかまわない。
その想いの強さが激しさが、幽を怪物に変えた。兄が怪物に変わっていくなら、自分も変わらねばならなかった。
静雄に置いていかれまいと、拒絶されまいと必死で表情を押し殺し、感情を消した。自分の意思で自分を変えた。
他の者から奇異に思われても、冷たい、とっつき難いと避けられても何でもなかった。幽は兄しか見ていなかったから。
ただ、兄といたい。
それも一つの愛の形だと思う。兄はそれを悲しむけれど。
それでも、しゃくり上げたら、いつも兄は困ったように振り向いてくれた。
『泣くなよ、幽』と。
だから、俺はもう少しだけ、兄のシャツを摘んで歩く。
「明日、早いのか?」
洗髪した頭をタオルでゴシゴシと拭きながら、静雄は幽に尋ねた。
「うん、一旦事務所に寄って打ち合わせしてから、現地に向かうと思う」
今頃、卯月を含め、事務所はてんてこ舞いだろう。金儲けとなれば、社長を含め目の色が変わるから、どうって事ないのかも知れないが、自分の恋はあちこちに迷惑をかけるかも知れない。
でも、だから、諦める訳にはいかない。絶対に。
「だから、今日は一緒に寝ていい?」
「あ?」
静雄の目が一瞬戸惑う。幽の無表情の下の不穏な空気に気づいたのかも知れない。
「ああ、いいぜ。どうせお前勝手に潜り込んでくるからな」
だが、子供の頃からの習慣がそれを上書きしてしまった。それこそが幽のやり方なのだが。
兄は臆病で古風で生真面目だ。乱暴な表面に隠れてる静雄の素顔はとても大人しい、優しい青年だった。
だから、幽は静雄が怯えて、逃げてしまわないようゆっくりじっくり時間をかける。
静雄がこういう状況になれてしまうまで。疑問を持たなくなるまで。
「でもよ、キスは…あんますんなよな。やっぱ、俺達、兄弟なんだから」
静雄はタオルの下で紅くなっている。かわいいなと幽は思う。
「いいじゃない。ちょっと位。外人は普通でしょ?」
「俺達は外人じゃねぇんだから!」
「だって、したくなるんだもの。ちょっとだけならいいでしょ?
……いや?」
わざと不安そうに付け加える。無表情でも静雄は幽の雰囲気を感じ取ってくれるから問題ない。
「…まぁ、別に…いいけどよ、ちょっとなら」
もごもごと呟きながら静雄は俯く。
(ああ、ホントに何てかわいいんだろ!)
幽は心からそう思う。世間に何故静雄のかわいさが解らないか解らない。でも、兄のかわいさは自分さえ知ってればいいとも思う。
あの物好きなうちの社長が
「一回位、君の兄さんを見てみたいなぁ。池袋で有名なんだって?兄弟競演なんて面白そうじゃないか」
とか提案するが、幽は全部それを冷たく握り潰している。
兄を世間の視線に晒すなんて、みんなのシズちゃんにしてしまうなんてとんでもない。
幸い、静雄に殴り飛ばされたスカウトや記者は多いので「また社長がバカな事を…」と誰も社長に賛同しないので助かってる。
ベッドで先に寝てる兄の傍に歩いてく。
わざとゆっくり歩いてく。
兄が自分を強く意識するように。
別にいつもやってる事なのに、今日は特別なんだと思うように。
短気な兄がイライラしない程度など、幽は子供の頃の習得済みだ。
兄にはドキドキしてて欲しい。
自分をちょっとの間だけ弟じゃないと思って欲しい。
だって、今からその気だから。
「キスしていい」
と兄は言った。ちょっとだけならって。
でも、一杯しようと思う。兄が戸惑うまで、気持ちよくなるまで一杯。兄の抵抗がなくなるまで。
兄は確かに真面目だ。
だけど、流されやすいって事も知ってる。自分の感情を、受けた感覚を我慢できないって事も充分よく解ってる。
だから、兄が戸惑ってる内に好きだって畳みかけよう。
「大好きだ」って。兄の中の倫理が溶けてなくなってしまうまで、告白しよう。
世界中にあなたしかいないって。
兄もそうなんだって。
僕達は世界中に二人だけしかないんだって。
ずるいと思う。
でも、兄は俺を拒絶できない。俺の為って思っても、兄が淋しくて愛されたくてたまらないって事を、俺は嫌って程知ってる。
俺を守る為なら、自分を押し殺したって構わないくらい俺を愛してくれてる事も。
だから、満たしてあげたい。
抱きしめてあげたい。
すがり付いて絶対離さない。
幽がベッドの端に乗る。
ギシッと、ベッドが軋む。ほんの少しだけ静雄がビクッとなる。
ただの弟なら、そんなに意識する筈ないのにね。
解ってるから、ホントはベッドで待ってるんでしょう?
流されてもいいかって、心の何処かで観念しちゃったんでしょう?
「兄さん…」
呼びかける。目が合う。兄の眼がちょっとだけ揺れてる。
愛しいと心から思いながら、今夜最初のキスをした。エンド
「キスキスキス」の続き。
この続きはもちろんあるけど、読みたい?(笑)
「かわいらしく」を目指したのでかわいらしく終えてみました。
とはいえ、臨也も徒橋も何故か避けてスルーする幽君は見た目通りじゃないよね(^_^;)
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