「プレミアムシート」 2
空気が凍りついた。
その冷気を軽く受け流すように黒髪をサラリと揺らし、臨也が嗤う。
「臨也っ、手前っ!」
凍てついた空気が一瞬にして沸騰する。反射的に繰り出された拳を臨也は手にした品物を零す事もなく綺麗に避けた。
「危ないなぁ、シズちゃん。いつも野蛮だねぇ。挨拶もせずにいきなり殴るなんて」
「この拳が手前への挨拶だろうが、臨也ぁぁ」
露骨な程くっきりと静雄のこめかみに血管が浮く。
「おお、怖い怖い〜」
鮮やかに拳を避け続けながら、臨也は肩をすくめて笑った。
「でも、もう映画が始まっちゃうよ? まさか、シズちゃんは幽君の映画に泥を塗るつもりかい?」
「…弟の名前を手前が口にすんじゃねぇ!」
静雄の表情は険しいままだが、冷や水を浴びせられたように拳の勢いが弱まる。
「俺を殺すのも映画館を壊すのも、常識のないシズちゃんにはどうって事ないんだろうけどさ。結果くらい考えた方がいいなぁ〜。
ほ〜ら、お客さん達、怖くて引いちゃってるじゃない」
室内は水を打ったように静かだ。
解っている。
苦々しい顔で静雄は認める。それが怖くて、今まで映画館に近寄らなかったのだ。だが、それを改めて臨也に指摘されたくはなかった。
「一体、何企んでやがる、手前」
「何って、俺も招待されたんだよ、この映画。何せ話題になってるからねぇ。公開前の先行上映を情報屋の俺が押さえておくの当然でしょ?
苦労して手に入れたんだから、このプラチナチケット」
臨也は指定席のチケットをヒラヒラさせてみせる。
「ただ、シズちゃんの隣だったとは、俺も予想外だったよ」
「…何?」
「さっきも言ったでしょ? 隣いいですかって」
臨也は静雄が状況を把握しきれない隙に、さっさとペアシートの右側に座る。
「何してんだ、手前! そこは俺の席だろうが!」
「俺の席でもあるんだよなぁ。指定席の番号見てくれる?残念ながら、俺達は相席って訳」
「はぁ? 冗談じゃねぇ!お前と一緒なんざ気色悪い!向こう行けよ!いっそ帰れ!」
「俺こそ冗談じゃない。やっと取れたってのに、君みたいなガサツな男と隣同士で見なきゃならない俺の身にもなって欲しいよ。
何か疑ってかかってるみたいだけど、俺もこの席は関係先に譲ってもらったんだ。誰が隣に座るかは解らなかったよ」
(譲ってもらった)
静雄は忌々しげに臨也を見下ろした。それは静雄も同様だ。
元々はトムのものだった。所長も得意先からもらったらしい。
だが、所長の気が変わっていれば、トムが自分で見ようと思っていれば、状況は変わっていた筈だ。
単に偶然が重なった。それだけだ。
(けどよ)
何か引っかかる。状況を自分の意のままに転がすのが好きな臨也だ。
臨也が偶然にこの席に座るなんて事があるのか。一人席より誰が来るか解らない不確定なペアシートを何故手に入れたのだ。
「気にいらねぇ」
「まだ疑ってるの? ただの映画じゃない。
ま、ぶっちゃけて言うとさ。今日、君の席には仕事相手が来る事になってた。券を俺にくれたのはそいつ。嘘をついたのは認めるよ」
臨也は肩をすくめる。
「映画館てのは密談や情報交換に都合よくてね。暗い中、見知らぬ誰かと隣になっても誰も怪しまない。
一般人の来ないプレミア上映会なんか特に好都合さ。
けど、相手の都合でここでの接触はお流れになった。俺はせっかくのチケットを無駄にしたくなかっただけ。
浮いたチケットは廻り回って君の元に来たらしいね、シズちゃん」
一応、筋は通っている。臨也の言葉は虚虚実実だから、まともに聞くのは嫌いなのだが、ありえそうな話だ。最初に嘘をついたのは仕事の話だったからか?
だが、まだザラッとした感触が残っている。臨也が何かを説明しようとすると、いつも彼の鼓膜を掠める砂のような残留物。それが静雄の勘を刺激して止まないのだ。
不思議と静雄以外の他人は気づかないで、それを飲み干してしまう。どんな上質なワインでも瓶の底に澱くらい溜まるだろうと。
「君がそのチケットを持ってるって事は君の上司…トムさんと言ったかなぁ。彼からもらったんでしょ?
彼が君を騙すと思う?」
「思わねぇ」
静雄は真顔で断言した。中学時代、そして仕事の相棒になってから一層、トムには絶対の信頼を置いている。疑う理由すらない。
(あ〜らら、これだからシズちゃんてやり難いんだよねぇ)
臨也は内心舌打ちした。
普通の人間なら、必ず心にファジイな部分がある。その曖昧さに楔を打ち込み、心を曲げていくのが臨也のやり方だ。
信頼してる相手でも、心の奥底は解らない。どんな人間でも闇や秘密を抱えている。別の顔を持っている。
そこに毒を垂らすのは愉しい。その毒がどう心を侵食していくか見守るのは。
だが、平和島静雄だけには、それが通用しない。
それは恐らく、彼は臨也がどんな人間か絶対に忘れないからだ。
そのせいか、臨也の毒は静雄には効かない。しかも回り合わせが悪いのか、臨也がどう絵図面を引こうが、駒として配置しようが、静雄はイレギュラーに行動し、計画をへし曲げて押し通る。盤上は滅茶苦茶だ。
だから、静雄が邪魔だった。
彼さえいなければ、池袋はもっと『愉快な街』に変わっていたというのに。
静雄一人のせいで、いつも計画の完成図は臨也の予期しない形で出来上がってしまう。
いつもいつも中途半端な成果で満足しなければならない。
臨也が望むのは『完全で美しい混沌』だ。
彼はその指揮者でありたい。
人間達が泥沼で足掻き、もがく姿は面白い。
だが、完全に溺れてくれない者が出る。静雄が作った水路に逃れていってしまうから。
静雄はトムを信頼している。だから、付け入る隙がある。そこに毒を垂らしてみたのだが、やはりうまくいかなかった。
(でも、まぁいい。
今回の目的はそれじゃないから)
臨也は笑って、コーラをちゅいと吸う。
「いつまで突っ立てるの? 映画が始まったよ」
「うぅ〜」
静雄は急に暗くなった室内で浮かび上がったスクリーンと臨也を交互に見比べた。美しい町並みの中で登場人物達が動き出し、2時間半の人生のかけらを描き始める。
「手前のせいで、他の席に移れなくなっちまったじゃねーか!」
「もう、何でも俺のせいにしないでよね。小学生の席替えみたいに、一人で騒いでたのシズちゃんでしょ?」
臨也は大げさに肩をすくめた。静雄は歯軋りしながら、仕方なく臨也の隣にドカッと座る。
そのいかにも不機嫌丸出しの姿に、臨也はクスッと笑った。
『僕が言うのも何ですが、面白い映画です。皆さん、楽しんで下さい』
後に完成試写会の挨拶で、羽島幽平が言った通り、映画の出来はよかった。
最初はショッキングで緊迫したシーンから入り、話の舞台である豪華客船に登場人物が揃うまでをユーモアも交えながら、緩急心得た演出とカメラワークで描き出す。話の背景もセリフの説明だけでなく、ちゃんと観せるので話に入り込みやすい。
船が出航し、上階で平和で華やかに行われている船内パーティと、下層で進行する火薬庫のような陰謀が同時に進行し、しかも、客や船員の何気ない行動と、下層での事件がリンクし合っていて非常にスリリングだ。
(ふーん、なかなか面白いじゃねぇか)
ポップコーンをもぐもぐしながら静雄は思った。幽が俳優になってから、しかも幽の出る作品しか見ないので映画には全く疎いのだが、この映画のスタッフは相当優秀だ。
脚本はよく練られているし、演出も巧み。カメラも素晴らしく、何より音楽がいい。
そのせいか、俳優達も皆生き生きしており、あっという間に話に引き込まれてしまう。
(幽はいい場所で働いてんだな)
最初、幽が芸能界に入る時、静雄は賛成しなかった。
ワイドショーや芸能界に興味はなかったが、それでも離婚やスキャンダル、嫉妬にイジメなど情報は伝わってくる。
幽に声をかけたスカウトも、家族に取材攻勢をかけてきた記者達も胡散臭くて一方的の一言だった。
そんな「水物」の世界に幽が入っていくのが、ひどく心配だったのだ。
幽は学生時代もモテてはいたが、無表情で無愛想だったせいか、学校で人気者だった事もなく、自分から人を押しのけて目立とう精神もない。文化祭の男メイド喫茶で指名ダントツ1位のメイドになり、女子どころか
「こんなかわいい子が男の子の訳がない!」
と他校の男子共が押し寄せて、午後遅くまで入場制限がかかったと聞いた位だ。
幽も平和島一族らしい穏やかで大人しくて、静かな暮らしを望む性格だと思っていた。
なのに
(兄さん、僕、決めたから)
と、意外とあっさり幽は事務所からの誘いを承諾してしまった。
当時は『何の相談もなく』と、心配半分、置いてかれたような淋しさ半分で派手にケンカもしたものだが、スクリーンの中でいつもとは別人のように溌剌と演じている幽を見ていると水を得た魚のようで、素直によかったなと思える。
(演技とはいえ、あんな顔をしてやがるんだもんなぁ)
普段は機械のように無表情な弟。
いい環境で大事にされ、演技指導以上に役になりきり、そして評価してもらえる。
上っ面はキラキラピカピカ、裏はドロドロだけと思っていた芸能界も本当にそれだけなら、こうも人を惹きつけて止まないのは何故なのか。
(お前が選んだ場所は間違ってなかったんだな)
自分が取り上げたものを、あの銀幕の中では存分に光放てる。
だから、いい。
俺にはしてやれなかった事を、あいつは自分の手で取り戻してる。
(あいつは昔から俺よりずっとしっかりしてやがるもんなぁ)
ただ、ずっと守ってきた弟が、別世界にいるのだと実感して少し切ない。
「何かキュ〜ンとしてるみたいだねぇ、静雄お兄ちゃん」
揶揄するような声に、静雄は現実に引き戻された。
「うるせぇ…」
「幽君、手が放れちゃって淋しくなっちゃったのかな? 悲しいシーンでもないのに、何でホロッと来てんの?」
「うるせぇ…」
「これが当たったら、いよいよ大スターだね。滅多に会えなくなりそうでツライよね〜」
「うるせぇんだよ、ノミ蟲っ! 黙って観れねぇのかっ!」
静雄は唸った。手すりを握り潰さぬよう、ひたすら拳を握り締める。
臨也はニヤニヤしながら、チュウッとコーラを飲んだ。
「大声出すと他のお客さんに迷惑だよ、シズちゃん。
茶化すつもりはないけど、この映画はきっと当たるよ。
俺も予想外だった。シズちゃんの弟がこんなに簡単にスターダムの階段を駆け上がっていくなんてさ。
初めて会った時は綺麗だけど、地味で控え目で無口でケンカなんかした事もなさそうで、とてもシズちゃんの弟には見えなかったね。
舞流達はあの日以来、幽君一筋で大変だけどさ。
幼馴染のお兄ちゃんがアイドルになっちゃうなんて、ちょっとありえないよね、ホント」
静雄は答えない。ただ無視して俳優のセリフを聞き取ろうと必死になる。
(うぜぇ野郎だ、ったく…。筋が解んなくなっちまうじゃねぇか)
映画は色んな事が同時進行で起こるのと、思わぬセリフが伏線になっていたりするので、愉しみつつ、ある程度集中していないといけない。
臨也のように喋りながら、ちゃんと映画も観れる程、静雄は器用ではないのだ。
『面白かった』
ちゃんと幽に言う為にここに来た。その目的を果たすまでは臨也とケンカなどしてられない。
幽の映画でさえなければ、映画館が廃墟になってもいい程、臨也を粉砕してやるのだが。
(俺が手出し出来ないと解ってて、隣の席に座ってんじゃねぇだろうな)
静雄はイライラしながら、直感的にそう思う。所長やトムが臨也に頼まれたとはとても思えないが、臨也は目的の為人の心理を読み取った上で、図面を引ける男なのだ。
静雄の事を死ぬ程嫌っているくせに、臨也がからかって愉しむ為にまとわりつくのは珍しくない。
だが、本当にからかい倒す為だけに、新宿から映画を観に来たのだろうか。
確かに悪趣味な男だが、破裂寸前のボイラーの隣に座り続けられる神経が静雄にはどうにも理解できない。
(映画館から出たら即殺す。首根っこ折って絶対殺す。ガードレールにくくりつけて、トラックに向かって投げ殺す)
呪詛を繰り返す事で何とか自制心を保ち続ける。とはいえ、臨也の隣に2時間半も一緒にいたなど、学生時代ですらあった試しがない。
高校時代は常に新羅を挟んでだった。たまに門田が加わる事もあったが、門田が常に抑え役に回っていたし、臨也が珍しく門田には一目置いていたからだ。
二人きりでデートみたいにペアシートに座るなどありえない状況だった。
いつまで耐えられるか、我慢できるか、それは静雄にも解らない。
どうしても映画より臨也の方が気になってしまう。目がチラチラと臨也の横顔に視線が行ってしまう。
今、全身に滾ってる感情を拳に込めて、この澄ました横顔にぶつけられたらどんなに爽快だろうと。
特に幽が映っていない場面が増えてくると、抑止力も極めて怪しくなってくる。
全身の筋肉が戦いのゴングをジャンと鳴らして鳴らして鳴らしまくってるのが、聞こえるようだ。
「シズちゃん。あんまりそんな大きく歯軋りして、震えながら怖い顔して映画観てて、愉し〜い?」
臨也が呆れたように笑っている。
「心ウキウキ楽しいに決まってるだろうが!」
「えー、今、乗客がどんどん死んじゃって、幽君独りが取り残された悲しいシーンなんだけどなぁ」
「隣同士だ。今日は絶対手前を逃がさねぇって自信があるからなぁ」
「やだなぁ。もっと映画を楽しみなよ」
臨也は愉快そうに肩をすくめる。
(解ってるじゃないか、シズちゃん)
今日は絶対逃がさない自信がある。
(それはこちらの言うセリフだよ)
臨也は内心その機会を待った。そのチャンス。その時期を。
その為にこそ、こんな『くだらない』映画なんか観ているのだから。
臨也は絵空事になど興味はない。欲しいのはリアルな体感だ。だからこそ、人間観察を続けている。
彼らの傷つき、欺かれたのを知った時の表情、憎悪、失望、悲哀、心の奥底から巻き起こった感情の爆発はどんな俳優の演技より勝る。彼の心を震わせる。
現実の人間こそ素晴らしい。あの酩酊をどんな映画がくれるというのか。
平和島静雄だけは絶対に自分の意のままにならない。
単細胞で、騙しやすくて、簡単な罠にコロリと嵌る。
なのに、どうしても静雄を地に這い蹲らせる事が出来ない。彼の毒に染まらない。
それを散々繰り返してきた。
だけど、今日こそ。
平和島静雄を支配する。
意のままにしてみせる。
その為に二人して座って映画を観てる。
羽島幽平主演公開寸前のプレミア上映。
臨也はニヤリと笑った。ゾクゾクする。どんな人間を操り、心の闇を吐かせるより興奮する。
(ああ、その瞬間のシズちゃんを早く見てみたいよ)
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