「鏡は横にひび割れて」

 

「逃げよう…」


 エドはボソッと呟いた。アルフォンスは読んでいた本から顔を上げる。毎年二回は聞く言葉だから、別 に驚きもしない。
「なぁ、アル、逃げよう!」
 振り向いたエドは血相が変わっている。アルは小さく溜息をついた。
「僕はやだよ。一人で行けば?」
「お前…まさか、まさか兄を見捨てるのか?」
「僕、別に困ってないもん。それにどうせ学校休んだって、別の日に受けるだけだよ。身体検査」
「グワッーッ!その名を言うなぁっ!耳が、耳が潰れるーっ!」
 大袈裟に耳を塞ぎ、頭を掻きむしるエドはエルリック家の季節の風物詩だ。アルはその姿を憐れなものを見るように眺めた。
「僕は注射の方がイヤだと思うけどな。それにほら、去年より背が伸びてるかもしれないし」
「気休めを言うなーっ!」
 エドはアルにタックルをかました。アルはうんざりして兄を押しのける。
「お前に年下の連中からドンドン抜かれる気持ちが解ってたまるか!みんなが前にならえをする時、自分だけ腰に手を当てて先頭に立つ者の屈辱が解ってたまるかーっ!」
「まだ、先頭じゃないでしょ?」
「なってからじゃ遅いんだーっ! ああ、畜生!何で年に2回もあるんだ。何処のどいつがこんな恐怖の日を作りたもうたんだろう」
「もう……ちゃんと牛乳飲まないからじゃない?」
「牛乳だけで俺の人生が決まってたまるか!シチューはいつも5皿は食べてるぞ。くそっ、悪魔の液体めっ!そうだ、いっそ全世界の牛を虐殺すれば、世界のみんなが幸せに…」
 ウフフフフ……と、どす黒く笑っている兄の姿に、アルは頭を抱えた。背の事はもはやコンプレックスを通 り越して、強迫観念になっているらしい。
「ただ、兄さんは人より成長が遅いだけかも知れないよ? 大人になれば…」
「俺にとっちゃ、今が全てなの! 今、大きくないと意味ねぇんだよ!」
「全くせっかちなんだから、兄さんは…」
 アルは頭を掻いた。エドが何故そんなに身長にこだわるか解っている。アルは元々体格のいい方で、6歳位 でエドの背に追いついた。エドがあーだこーだ言い出したのはその時分からである。ウィンリィは面 白がってエドをからかうし、アルの足の裏はエドより随分大きかったから、将来は決まったようなものだった。
 エドは意地っ張りで負けず嫌いだ。『兄は弟を守るもの、フォーエバー』という責任感は、母が亡くなって以来、使命感に取って変わっている。だから、兄の頭の中の図式では『だから、兄は弟よりどうあっても超背が高くなくてはならない!(エンドレス)』ものらしい。それでも、兄は頑として牛乳を受け付けず、この先将来どうなるかとアルは頭が痛い。
「だけど、今年の俺は去年までの俺じゃないぞ」
 エドはいきなり振り向くと、ニヤッと笑った。傍らの袋から『ジャン!』と蜂蜜色のものを取り出す。
「秘密兵器!」
「………カツラだね」
 アルはボソッと呟いた。
「ただの毛じゃねえぞ。俺の髪の毛を培養して作った本物のカツラ!」
 人体錬成でも(その本人が生きているという条件付きだが)髪の毛、爪、歯は禁忌に引っかからず、リバウンドがない。生え替わる事が前提となっている部位 だから、自然界の流れに抵触しないという学説が通例になっているが、その為、カツラ、入れ歯、つけ爪制作は一般 錬金術師の主な副業の一つになっている。もっとも培養液で元のものを増やす方がより簡単なので、特注でない限り、いちいち錬成する者は少ない。
  エド達も人体錬成の初歩として、これならほぼ完璧な領域に達していた。もっとも骨や皮膚などに関しては、仕様によっては禁忌を左右する為、書物すらろくに出回っていない。
 兄が最近、隠れて地下室でごそごそやっていると思ったが、これだったのか。
「…………ふーん、で、どうするの?」
 悪い予感がしながら、アルはそのカツラを眺めた。手に取る気にもなれない。
「そりゃ、お前がかぶって身体検査を受けるに決まってるだろ?」
 きっぱり明るく言われても、アルは別に名案だと思わない。
「兄さん…本気?」
「本気も本気さ!目元を目張りして、吊り目にすれば、基本はだいたい一緒だしな。金色の目は村で俺達だけだし、喋らなけりゃ解んないさ。
 俺がこの日すっげぇ不機嫌なのは、全員知ってるから無理に近づいてくる奴はいねぇよ。終わったら隙を見て入れ替わるんだ。楽勝さ。絶対大丈夫!」
「ウィンリィを忘れてない?」
「う…………」
 エドの眉が八の字になった。
 あの少女だけは全くエドを恐れていない。強力スパナの技は日々切れを増し、体術に長けた筈のエドの頭を軽々と強襲する。
 まして、アルが変装などした日には東武線のスリより早くカツラをひったくり、クラス全員の前で振り回すだろう。そうなれば、もう明日から学校なんて行けなくなる。
「僕はヤだからね、そんなの!恥かくの僕だもん!」
「う、うるさいな!ウィンリィには俺が先に話すから、お前は何も心配すんなよ」
「兄さんの『心配するな』は当てにならないんだよね。第一、兄さんがウィンリィを説得できるなんて思えないな。余計面 白がるだけだよ」
「うーん、絶対口喧嘩になるもんな。お前の方が説得うまいし。うん、いっそお前に任せるよ」
「…いつ僕が共犯者になるって言った?」
「じゃあ、俺に地獄の苦しみを味わえっていうのかよ!くっ……こんなに冷たい奴だと思わなかったぜ。逃げるのはやめたんだから、これくらい協力してくれてもいいじゃないか」
「でもねぇ、カツラなんて、いくら何でも…」
「あーっ、また弟にバカって言われた!」
「まだ言ってないよ」
 アルは溜息をついた。もう強迫観念どころか、病気なんじゃないかとさえ思う。さめざめと泣く兄など放っておきたい。だが、嘘泣きと解ってるのに、兄の涙にアルは弱かった。
「……今年はともかく、来年はどうするの?」
 エドはさっそくキラキラした梅雨明けのような笑顔を向けた。
「大丈夫だ。来年は5B、いや10Bは伸びてるから」
「…何処にそんな根拠があるの。あ〜あ、来年も僕がやるって事だね」
「嫌味言うなよ。ま、とにかくかぶってみろ。サイズは合ってると思うんだけど。お前が短髪でよかったよ」
 エドはアルの頭の上にバサッとカツラを置いた。髪を軽くすき、かき混ぜる。錬金術で作ったカツラは人工のウィックより自然に頭に馴染んだ。エドはすぐ満足げに吐息をつく。
「…んー、お、バッチリ。やっぱり同じ色の髪だから違和感がないな」
「……………そう?」
 アルはしげしげと鏡の中を見た。兄と同じ髪形。それだけで別人になったようだ。お菓子や文具など同じ物を欲しがっても、兄を尊敬しても、容姿を真似たいと思った事はなかった。子供の頃からずっと短髪で押し通 してきたから、何だか変な感じがする。アルはまばたきし、小首を傾げた。自分によく似た他人が鏡の中にいる。その少年はアルと同じ当惑しきった顔をしていた。多分『兄さんのようになりたい』と思った事が一度もないからだ。アルの望みは全く違う。
 エドは前髪をピンで留めると、用意していた肌色のテープを指で千切って、アルの目元に貼った。
「ちょっ…兄さん、痛いよ。そんなに引っ張ったら」
「じっとしてろ。お前、結構たれ目だな」
「僕は普通だよ。兄さんがきつすぎ……ッ痛!」
「じっとしてろって。はい、次。左目」
「ちょっと上げすぎだよ。目が閉じられない」
「うるせぇな。もう少し………えっと…さっ!できた!どーだ、アル?」
 カツラと目元を整え、エドは満足そうにアルの背後から鏡を覗き込んだ。
 アルは茫然とする。見知らぬ、しかし余りにもよく知った顔が鏡の中にいた。同じ金の瞳。金の髪。そして、うり二つの顔。
 何となく性格も容姿も全然似てないように思っていたが、まぎれもなく同じ血の痕跡がそこにある。アルの方がまだ幼児の丸さを残しているし、兄のまなざしの方がきつく、何から何まで同じではないけれど、それでも限りなく似ていた。意志の強さ。探求心。向上心。それが表情にきらきらと顕れている。パッと見には兄かと思う程だ。
 ただ、どうしても違和感がある。アルフォンス=エルリックという自意識と、二人のエドが鏡の中に並んでいる現実がせめぎ合って、何となく気持ち悪い。兄の顔は反対に得意満面 で、いくらか面白がっているようにも取れた。それが何となくカンに触る。
「何か…やっぱり嫌だよ、兄さん。これ」
「何言ってんだ、アル。思った通り、結構イケるって!じゃ、行こっか」
「行くって何処へ?」
 アルは嫌な顔をした。できれば、その時が来るまで誰にも会いたくない。
「ウィンリィの所に決まってるだろ? まず、あいつを騙せないと意味ねぇんだから」
「騙せっこないと思うな、僕は」
「ぐだぐだ言ってないで行くぞ」
 すっかり満足げな兄の後をアルは渋々追った。どうして兄は同じ顔が二つあるのに、平気で間近で見てられたりするんだろうか。それはエド自身の企みだからに決まっているが、それでも尚、アルは素直になれない。

 

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サーファーズ同人即売会に参加する予定でしたが、イマイチ、ネット同人が解らないので、エルリックウィーク参加に切り替えます。すいません。

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