「階級差」

 

「今日も遅いんスか?」
 ハボックは書類から顔も上げずに尋ねた。
「ああ」
 ロイは呟いた。
 深夜の執務室。珍しく二人きりだった。静まり返った部屋にペンと紙の音だけが響いている。
「そんなに仕事を溜めるからッスよ」
「お前の方こそ、こんなに遅くなるのは珍しいな」
 ロイは顔を上げた。ハボックは実務なら格下の部下達よりも熱心に働くが、書類仕事はそんなに気負る方ではない。それでも要領はいいから、東部では差程、残業をした事はなかった。大抵、7時位 には片手を上げて帰ってしまう。
「まだ新しい彼女が出来ないからか?」
「はは…」
 ハボックは曖昧に笑った。
「少し出世しようかと思いまして」
「…………?」
 ロイは眉を上げた。軍隊は縦社会だから、出世を考えようと思ったら明確に視点を定めないと足をすくわれる。部下からの信頼が厚いとか、現場での実績が高いとかは却って反感の元ともなるのだ。第一、ハボックは余り『出世』とか『野心』に血の道を上げるタイプではなかった筈だが。
「どういう風の吹き回しだ?」
 多分、本気ではないだろう。ロイが何を目指してるか知っているだけに、不用意な発言をする筈はあるまい。
「疑ってるんスか?」
 ハボックの眉が少し悲しそうに下がった。何となく『犬』に似てるなあとロイはぼんやり思った。まるで尾を垂れた茶色の雑種のようだ。
「疑ってはないが、なかなかはっきり出世したいなんて、普通言わないからな。安月給はしんどいからか?」
 若い芽を育てるより、むしろ踏みつけるか、非情に根こそぎするのが軍の新人の育成法である。
「確かにデートも出来ませんね」
 ハボックは笑った。
(ああ、やっぱり女の子にいい格好したいからか)
 何となくロイは安心する。少尉も悪くないが、将来の家庭生活を考えると、より高い階級の方が安定率も高い。特にこんな戦争の火種を絶えず抱えた国家では。
「しかし、今の現状では簡単に出世なんか出来んぞ」
「そりゃ、解ってますけどね。目標は高く掲げといた方がいいでしょう?男なんだから」
「志は美しいな。因みに参考に聞いてやるが、目標は何処だ?」
「『大佐』です」
 ハボックは即答した。ロイのペンが一瞬止まる。
「ハボック大佐。いい響きでしょう?」
 ロイは瞬きした。本気か、こいつ?
「100年たっても無理だな」
「無理なのは重々承知ですよ。でも、決めちまったんで」
 ハボックは煙草のようにペンを銜えて笑っている。ロイの顔が険しくなった。何を考えてるんだろう、こいつは。軍隊で出世する困難さと意味は解っているだろうに。第一、大佐とはどういうつもりだろう。私と同格とは。こんな少し照れたような、邪気のない笑顔の裏で追い落としでも考えてるのか?それとも、この部署から離れて別 の所で働きたいと思ってるんだろうか。
 私の意志を知ってる癖に。
「ご立派な野望だ。だが、お前が大佐の頃は私は大将にでもなってるぞ」
「そりゃ、大変だ。俺も大将を目指さなくっちゃ」
 笑いながら、やや真顔になったハボックを見て、ロイはようやく気付いた。彼の出世の目的は普通 の野心とは違う。ただロイと同格になりたいだけだ。
 でも
「何故、同階級にこだわる?」
「だって、そうしたら何処でも大佐を『ロイ』って呼び捨てに出来るじゃないスか」
「…………………」
 ロイは押し黙った。そんな事でと、ハボック以外の人間にならロイは笑い飛ばしただろう。
 たったそれだけの理由。
 対等に、個人的に、公に、そう呼びたい。
 だけど、それだけではない。
『でも、決めちまったんで』
 と、ハボックは言った。
『あんたが好きだから、対等になりたい』
 それはそういう意味なのだ。
 だが、ハボックはロイが難しい人間である事も知っているし、簡単に人を入れない事も解っている筈だ。それでも、尚『無理なのは重々承知』なのだろう。
(でも、そんな事で出世を目指すか、普通)
 友人にも恋人にもなれない。ただ同格でそれでいいというのか。
「もし、だな」
 ロイは思いあぐねて呟いた。
「もし、私が私生活でお前に名前で呼ばせるなら、そうしたらどうする?」
 ハボックはペンを口から離した。笑いが彼から消える。
「それじゃ、駄目なんです。そんなんじゃ…駄目なんスよ」
 一瞬にして、ロイはハボックが誰の事を言っているか理解した。ロイをたった一人名前で呼んでいた男。飄々と掴み所のない、未だにロイの心向こう半分を占めている男。
 だが、もうとうにいない。
(だから、か)
 ただの友人では、恋人ではロイの心に入り込めない。表面のつき合いだけで終わる。軍隊内ではほぼ不可能だろう出世にハボックがこだわりを見せたのは、その決意が並々ならぬ 現れだろう。
 ただの部下と上司ではなく、ただの恋人に収まりたい訳でもない。対等に立ちたい。私生活を離れても。
「ま、最初は無理だと思ってたんですが、あの兄弟見てると、何でもいつかどうにかなるんじゃないかなぁと最近思えてきましてね。やるだけやってみようかなぁと。
 俺の身勝手ですけど。
 だから、まぁ、俺にもそういう野望があるって、今夜はさらっと聞き流しといて下さい。あんまりこんな事、デカイ声じゃ言えませんからね」
 そう言うと、ハボックはペンを銜える。いつもの顔に戻った。何となくホッとし、何となく残念な気もしてロイはそのいつもの仕草を見つめる。
「全く身勝手だな」
「はぁ」
 だが、とロイは付け加えた。
「想うのは勝手だ」
 ハボックは笑う。肩をすくめて、書類に戻った。
 その後は一言もない。ただ、無言の紙とペンの音だけが部屋の中に続いている。

エンド

7月の日記に一発書きして、何故かそのまま忘れてしまってました。
今の原作の展開を考えると、呑気な作品ですねぇ(^^;

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