子供達と夜の住人

 

 朝起きたら、アルがいなかった。
 こんな事は珍しい。アルは俺が呆れる程几帳面で神経質だ。俺自身はあいつが言う程だらしないとは思わないんだけど、母さんみたいに世話を焼く。
  アルが時間を忘れるのは本に熱中してる時位で、後はだいたい俺の生活リズムに合わせて行動している。俺は何かに熱中すると、ストーンと時間の概念が飛んでしまうので、気づくと『わっ、やべぇ!こんな時間!』って事が多い。割と規則正しい生活が好きな弟は小さい頃、俺につき合うのが結構大変だったんじゃないかな。
 でも、今は違う。アルはもう眠らない。俺があいつの眠りを殺してしまったから。
 弟はもう食べる事も飲む事も感じる事もできない。息もしないし、トイレにも行かないし、頭も痒くないし、虫にも刺されない。匂いも解らないし、疲れないし、何時間列車に乗っても平気だ。目も充血しないし、虫歯にならないし、毛も爪も伸びない。あくびもげっぷもしないし、背も伸びないし、耳掻きも必要ない。
  急に夜中にどうしてもスコーンが食べたくなる事も、兄さん、背中を掻いてと言う事も、ウルシにかぶれる事も、汗疹になってシッカロールを塗りたくる事も、服に垢がたまる事も、夏にTシャツが汗でびしょびしょになる事もない。
  冷水に手をつけても痛いと感じないし、しもやけになる事も、俺の手に息を吹きかけて暖める事も、二人でマフラーを巻き付ける事も、カバンが肩に食い込んで重いと思う事も、冬の朝に毛穴が縮こまる感覚も、夏、寝苦しくて目が覚める事も、春うとうとする心地よさもみんな無くなった。
  潮風は錆を浮かせ、身体に出来た傷は錬成しないといつまでも修復しない。セックスしても息一つ切らさないし、どんなに気分が悪くても、吐く事も失神も出来ない。瞼も閉じられないから、あいつは何だって見てしまう。転んでも血は出ないし、もう風も感じない。
 それを考え出すと、堂々巡りの迷路に落ち込む。俺はどれだけアルから色んなものを奪ってしまったんだろう。弟を取り戻したい。アルに側にいて欲しい。それだけの事がどんな結果 になるか、俺は解らなかった。ただ必死だった。いくら想像し尽くしたつもりでも、俺の知らないアルの〔出来ない事〕ってまだ一杯あるんだろう。
 ほんの日常の合間にそれを感じる。当たり前にしてきた俺達の生活。俺達の登下校。俺達の季節。みんな、無くなった。
 アルは出来るだけ全身機械鎧のふりをしているし、この国の人間は長期に渡る戦乱に晒されて、義肢や機械鎧の人間には慣れっこだ。戦争の傷を負ってない人間なんて殆どいない。平和なリゼンブールだって、東部内乱の中継基地だった。どの街だって、義肢屋は何軒かあるし、繁盛もしてる。それは少し悲しい事だけどね。
 だから、差別的な視線を向けられる事は滅多にない。田舎に行く程、やや好奇の目は増えるけど、それを表に出さない礼儀くらいは保たれている。生活面 で露骨な待遇を受ける事はほぼないと言っていい。就職はさすがに完全に自由とはいかないけどね。
 だけど、やっぱり機械鎧は庶民には高嶺の花で、手術やリハビリは辛いし、まともに動けるようになるには義肢以上に根性がいるから、装着者は軍人や傭兵が殆どだ。機械鎧を『売り』にしてる奴だって多い。成長期に支障があるし、頻繁な調整が必要なんで、医師は余り子供に勧めないしね。だから、俺の背…いや、まあどーでもいいや。
 つまり、全身機械鎧の人間なんて、この世界でもほんの一握りという事なんだ。
 だから、あいつが一人で出歩くのは殆ど夜だ。ぶしつけで人の痛みを想像もしない奴はやっぱりいるし、悪気がなければ許されると思ってる奴もいる。
 それにやっぱり夜中アルが部屋でごそごそしてると、俺も気配を感じて落ち着かないもんな。雨の日はアルもさすがに余り出歩かなくて(背中から染み込んだ雨が血印を濡らす感じがイヤなんだそうだ)隣の部屋で読書したりしてる。俺も接続部の疼痛で目が覚めたり、勉強やらで寝そびれると、何となく寄り添って二人でだらだら夜話をする。
 でも、天気が良ければ、大抵アルはいない。
 勿論アルは呼吸しないし、何時間も動かないでいる事も出来るみたいだけど、俺は瞼を閉じる事なく、夜を黙って見続けてるアルの気配を濃厚に、ひしひしと全身で感じて寝付けなくなる。
 アルはそれを知っているから、外出する。さすがに野宿の時は側にいるけど、街では俺がおやすみと言った後は部屋を出る。セックスした後は俺が眠った後かな?抱き合って眠りたいけど、布団かぶっても、あいつの身体はどんどん冷えちまうんで仕方ないんだ。
 身体が元に戻ったら、抱き合って眠りたい。溶け合うようにして、いつまでも眠りたい。
 恋人同士のごくごく当たり前の事が俺達には許されない。罪人はもう天国にも地獄にも行けないかも知れないけど、神様だけは一発殴ってやりたい。
 人体錬成をした事。
 兄弟で愛し合った事。
 そんな事知ったこっちゃない。神を、世界を敵に回したって、俺は弟が好きだ。俺には懺悔の値打ちもない。なら、俺だけを苦しめればいいじゃないか。弟を唆したのは俺なんだ。弟からこんなにも何もかも奪わなくてもいいじゃないか。
 俺はもう祈ったりなんかしない。両手を合わせても、その先にいるのは神じゃない。あの野郎は俺から左足を奪う時嘲笑してた。アルから身体を全部奪い去る時、あいつはどれだけ嗤ったんだろう。吐き気がする。はらわたが煮えくり返る。あんなもんに二度と頭下げたりするもんか。
 だから、自分達の手でやるしかない。誰にも頼らない。縋らない。何度血反吐を吐いても、俺達自身で何もかも取り戻す。
 俺がもし罪を悔いる相手がいるとすれば、母と弟にだけだ。
(…アル)
 俺もアルには言わない事がいくつかある。アルがどんなにそっと出ていっても解る事もその一つだ。最近だけど偶然、血印に怪我した血だらけの指で触れた事があって、アルの魂に直接出会えた。俺の血が触媒だったからだろうか。夢みたいに抱き合えた。
 それからずっとお互いを感じる力が強まってるみたいだ。だから、安心して眠れる。アルと共にいると思うから。
 だが、昨夜は何か違った。
(アルが危ない)
 その危機感が消えない。アルが誰かといる。誰かは解らないが、俺はそいつが気に入らない。そいつは
(真っ黒くて)
 嗤ってる。何処かで会ったような気がするが思い出せない。そいつは真理みたいに嗤って、アルを傷つけようとしてる。危険が迫ってるのに、俺は目が開けられない。その誰かはアルに何か話そうとして、しかもその話は凄いヤバイ事だって何故か解る。俺はそれをアルに伝えたいんだけど、今すぐ飛び起きて、アルの所に行きたいけど、俺の身体は眠ってて、ちっとも動かなくてどうにもならない。
『駄目だ、アル!聞いちゃ駄目だ!』
 叫んでも声にならない。唇が動かない。ただ声だけが響いてる。でも、アルには聞こえてるのか。伝わってるのか。それすら、俺には解らない。
 アルにしがみついて揺すぶりたい。振り向かせたいのに、確かにアルの手を掴んでるのに、俺には手も足もない。胴体も顔もない。
 俺の意識があるだけ。アルを見てるだけ。声を聞いてるだけ。
(そんな…)
 刹那、俺は悟った。
 これは同じじゃないか。今のアルの状況と。
(…アル!)
 俺はいつもアルといる。一番アルを理解して、アルの秘密を知っていて、心配して、悲しんで、そして解った気になっていた。あいつの背負っているもの。あいつの耐えている事。鎧であるという事を。
 でも、俺は馬鹿だった。全然解ってなんかいなかった。何もかも封じられているもどかしさ、辛さ、焦燥、痛み、悲しみ。何一つ本当の意味で知らなかった。想像もつかなかった。ただ解ったつもりになっていた。
(アル……!)
 俺は目を覆いたかった。でも、瞼がない。耳もない。俺は見続けなけりゃならない。聞かなきゃならない。
(これで、何で…どうして俺を恨まないでいられるんだ?俺の側で笑って、俺の世話を焼いて、俺を愛していられるんだ、アル?)
 ただ好きなだけで、それだけでどうして俺を許してくれるんだろう。神様も許さない俺をどうして暖めてくれるんだろう。俺の方こそ、ただ自分のエゴでお前を繋ぎ止めているだけかも知れないのに。
 男は嗤っている。アルは迷ってる。
(アルが危ない)
 俺は顔を上げた。俺の痛みも苦しみもそんな事はどうでもいい。今、大事な事はアルを守る事だけだ。
 この悪意からアルを救う事だけだ。
『アル、駄目だ!』
 身体なんてなくてもいい。触れなくても、手も足もなくても、アルに俺が見えなくてもそんな事どうだっていい。
 俺は叫ぶ。叫び続ける。
 この声が届くように。祈るように。願うように。
 何もいらない。アルさえ守れるなら俺は何もいらない。
『アル!』
 俺は絶叫した。
 あの時と同じように。
〔足だろうが!両足だろうが!…心臓だろうがくれてやる。だから〕
『アル!』
 死んでもいい。
〔返せよ! たった一人の弟なんだよ!〕
 この願いを聞いて。


 その刹那
 アルが
 一瞬、俺を見たような気がした。
 確かに
 俺より一つ年下の少年が
 理解の色を浮かべて
 俺に向かって頷いた。

 

 



「アル!」
 俺は飛び起きた。
 しんとした静寂が俺を迎える。明け方の薄紫色が部屋をぼんやりと染めていた。
「………アル?」
 俺は呟いた。何だろう。凄く大事な夢を見たような気がするのに、何も思い出せない。アルの名を呼んで飛び起きたのだから、アルが夢に出てきたのだろうが要領を得ない。息切れが収まっていくのと平行して、夢も散漫に消えていく。でも、何故か夢のしっぽを掴む気にもなれぬ まま、俺は茫然と座っていた。何もかも漠然として、この部屋のように曖昧だった。
 でも、心は軽かった。
 もう大丈夫。
 だから、それほど大した夢ではないのだろう。もう何も心配はいらない。
(何が?)
 ちらとそんな疑問がよぎったが、まだ眠い。ぱふっと毛布に倒れ込む。
「アル〜?」
 一応、声には出してみた。まだアルは宿に戻ってない。そんな事は充分『解って』いたけれど。

 

 

 アルの帰宅は判を押したように、いつも同じだ。
 そーっと部屋に進入し、そーっと俺が寝ているか確認して、そーっと俺の身支度の用意をする。俺はそれをまどろみの中で聞いている。
 アルの出す朝の音が俺には心地よい。
 やがて、アルはそーっと部屋に入ってきて、俺の髪をそっと撫でたり、溜息をついたりする。
「もう、またお腹出して寝て」
 いつもの小言を言いながら、毛布をそっと俺にかけ直す。それが好きで、時々わざと蹴散らしたりする。俺は何となく嬉しくて目を開けない。アルに見られてるのを愉しんでる。
 俺が目を覚まさないのを確認すると、アルはそっとベッドの脇に座る。起きて欲しいんだか、起こしたくないんだか微妙にベッドが揺れる。ここまで来ると俺の方が我慢できなくなるんだけど、今朝は何となくアルの様子が違った。
「ちくしょう…」
 ささくれ立った口調を吐いて、俯いてる。何だろう。夜の間に俺の知らない所で色んな事があったんだろうか。
(でも)
 俺は聞かない事にした。夜はアルの時間だ。何かあれば話すだろう。心配だからといって、何でも顔を突っ込む事が、お互いの為にならない事を俺達はイヤという程学んでいる。
 俺は自分とアルの感情を振り払おうと、アルの太ももをバンと叩いた。
「…………おっ帰り」
「寝ぼすけだね」
 アルが笑った。その声にもう先ほどの澱みが混じってない事を確認し、安心する。
「いや、二度寝だよ。うたた寝してた。毛布もお前も気持ちいいしさぁ」
「もう、朝っぱらから、そんな格好でいると襲っちゃうよ?」
 アルの側で猫みたいにゴロゴロ転がる。いつものじゃれ合い。いつもの会話。いつもの朝。
「あー、飯、飯っと」
 俺は洗面所に向かった。鏡を見る。俺の顔が写っていた。金髪で金目。15歳の少年の顔。
「…………」
 見える。
 当たり前の事なのに、俺は何故か動揺した。
 見えている。俺は頬を、腕を触ってみた。全身を抱きしめる。触れる。感じる。その事が恐ろしかった。その理由が解らない事が辛かった。
(俺は……)
 忘れてる。何か大事な事。
(でも)
 俺は震える手で、歯ブラシを無理矢理口に押し込んだ。きついミントの味が舌を刺す。
(今はもう大丈夫なんだから)
 根拠のない理由を一緒に口に押し込んだ。アルが側にいる。無事でいる。ちゃんと守れた。何だか解らないけど、それだけでいいと心の何処かが囁いた。
 しかし、どーもアルの様子は変だ。後で朝食の時、ゆっくり聞いてみよう。俺が隠し事をすると、弟はちくちくいじめるから、たまにはいい。あいこだ。
 アルはそわそわしながら、しかし心ここにあらずといった感じでベッドを直している。
(かわいいな)
 俺は歯ブラシを銜えたまま、こっそりとそれを眺めた。しっかり者の、しかし何処か不器用な俺の弟。
 いつも通りの俺の弟。
 夜は退屈だという俺の弟。
 今夜、また寝ぞびれたふりして、一緒に夜を過ごそうか。

エンド

 

タイトルは某マンガのもじりですが全く関係なし。
「夜の住人」蛇足小説。今日の昼休みだけで突発的に書きました。
「血印に怪我した指をつけて云々」はネタ先出し。いずれ書くわ。
しかし、焦って書いたから、本当に蛇足だね。
うちのエドはもう本気で神様に喧嘩売ってる(^^;

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