「名前を呼ばれてる」
兄さんがいなくなった。
僕が目覚めた時、そこには誰もいなかった。
錬成の匂い、煙は微かに残っていたけれど、床にも何一つ残っていなかった。
何一つ。
僕達は『母さん』を創ろうとしていた。
出来る筈だった。間違いなんかない筈だった。
でも、何かがおかしくて、歪んでしまって、僕は分解された。扉に吸い込まれた。たくさんの触手に絡みつかれて、がんじがらめになって、兄さんから引き離された。
最後に僕が見たのは、足を失いつつも必死で僕を掴まえようとする姿だった。
だから、消えたのは僕の方なんだ。
僕の筈なんだ。
なのに、どうして僕がここにいるんだろう。
僕が目覚めた時、そこは自分の家じゃなかった。
何処か知らない大広間だった。灰色の死の街の中だった。
これが扉の向こう。僕のこれからの世界。
これが僕への罰。
そう思った。
だから、探した。
兄さんを。兄さんを。兄さんを。
叫んで、泣いて、泣いて、泣いて、震えながら、転びながら、兄さんを捜した。
求めた。呼んだ。
絶叫して、慟哭して、転んだまま、兄さんの名を呼んだ。
狭い路地裏を。光の射さない通りを。青空のない街の元で、僕は家々の扉を叩き、駆けずり回り、幾つもの窓を、動かない風のない街を、探して、探して、探した。
僕は他に何もいらなかったから。
お腹がすいて、丸まって眠り、目が覚めると、とぼとぼと兄さんを捜した。
ここは夜も昼もなかった。
ずっと、こんな風に生きていくんだろうか。閉じ込められた世界にいなければならないんだろうか。
もうよく解らなかった。時間の感覚を失っていた。
たった一つ明かりの在る場所。僕が目覚めた場所。僕はいつの間にかそこに戻っていた。
埃っぽい暗がりで震えているより、マシだったから。ただ明かりがあったから。
血の匂いがきつく淀んでいたけど、血だまりがあちこちにあったけれど、でも、それでもマシだったんだ。
兄さんがいる世界に一番近く思われたから。
でも、消えてしまったのは兄さんの方だった。
僕の方が「現実」にいた。
僕はそれを把握するのに随分かかった。
だって、どうやって信じられる? あれから4年もたっているなんて。僕が魂だけになって、鎧に定着していたなんて。兄さんと「賢者の石」を求めて旅をしていたなんて。
僕はあの日から一瞬も動いてないのに、僕こそが扉の向こうに飲み込まれた筈なのに。
でも、ちっちゃかった筈のウィンリィの髪も背も伸びていた。新聞の日付もカレンダーも4年たっている事を教えてくれる。
僕の知らない人達が「へぇ、こんな顔をしてたのか」とか「よかったなぁ、アルフォンス君」とか「我が輩は感激である!」とかもっともらしい顔で、僕に笑いかける。僕が無事だった事を喜んでくれる。
兄さんの事はわざと抜きにして。
「エドはね…」
最後に兄さんと会ったという、ロゼという人が色々話してくれたけど、僕の頭は飽和状態でどの程度話を把握できたのか。きっと変な顔して俯いていたと思う。
僕は受け容れたくなかったんだと思う。
兄さんは僕を一瞬だけ掴まえて、こっちの世界に引き戻して、そして消えてしまった。
師匠が多分そうだろうと説明してくれた。
せっかく握った手をどうして僕達は離してしまったのかな。
どうして僕はその感触も覚えてないのかな。
それが悲しくて、ボロボロ泣いた。
「泣いた」って事を、一瞬だけ「僕は泣けるんだ」と思って、何故そんな事を思うのか不思議に思った。
それも涙に埋もれて、それ以上何も考えられなくなったけど。
僕は今、リゼンブールに戻っている。
ここが心の回復に一番いいだろうからとばっちゃんは言った。
じゃ、僕は家に帰って、兄さんを待つよと言ったら、ばっちゃんもウィンリィも悲しそうな顔をした。
だって、もう僕の家はないんだって。僕と兄さんで4年前焼いちゃったからだって!
そんな事、そんな事あるもんか! 何で僕達がそんな事するんだよって、僕は家を見に駆け戻った。二人が止める声も聞こえなかった。
でも、二人の言う通りだった。
焼けていた。何もかも。僕達がブランコをした大きな木も。母さんの畑跡も。家の裏側に置かれた小さな石も。黒い墨になった朽ちかけた材木と雑草が、4年前を僕に突きつけていた。
でも、僕は10歳のままだ。
4年経ってるのに、僕は何故10歳の体のままなんだろう。僕の心は動いてないのに、どうして兄さんだけがいないって事実を認めないといけないんだろう。
本当なのかな。兄さんは本当は大怪我して、どっかに入院してて、みんな僕が心配だから、わざと教えないだけじゃないのかな。
認めたくない。認めたくないよ。
兄さんが消えてしまったなんて。
僕に何もかもくれたまま消えてしまうなんて。
僕はぼんやりと家の跡を歩いた。僕達の生活。僕達の笑い声。僕達の罪。みんなみんな消えた。燃えてしまった。なのに、僕にはその実感がない。
僕が鎧だった事も。兄さんが国家錬金術師だったって事も。
そして、僕が死んだ兄さんを再生する為に消滅してしまったから、兄さんが僕を取り戻す為に消えてしまったって事も。
どうして、どうして一緒にいられないの?
どうして、そんな事をしたの?
僕は兄さんが生きてくれればよかったのに。僕でなくて、兄さんがここに立っているべきなのに、どうして兄さんは、その再生した命を僕の為に使ったりしたの?
(兄さん、兄さん、兄さん…!)
僕はふと立ち止まった。ゆりが咲いている。白い白い鹿子模様を散らしたゆりが、小さな石の側で咲いている。
(かあさんの好きだった花……)
どうして、ここに咲いてるんだろう。誰が植えたんだろう。まるで、まるで誰かを弔うように。悼むように。
(そんな事をするのは……そんな事をするのは……)
ここで犯した罪を知っている者だけだ。この下に何が埋まっているか知っている者だけだ。
僕はゆりを見つめた。墨と雑草を掻き分けるようにして凛々しく咲いている白い花を。
(そう……だ……4年経ったんだ)
ようやくストンと胸に落ちたような気がした。ウィンリィに見せられた兄の匂いのするシャツもかばんも、兄の為に用意していたという機械鎧も、他人の物だったパズルのかけらが、ピタリと初めてはまった。
(兄さんと、僕は…旅をしてたんだ)
何も思い出せなくても、鎧だった事を知らなくても、事実が符に落ちた。認めたくはなかったが。
僕はゆりに背を向けて、歩き出した。
4年経った。4年経った。
だけど、僕には記憶がない。
これが代償。僕が元に戻る為に何もかもあちら側へ返してしまった為の代償。
でも、じゃあどうしたらいいの? これからどうしたらいいの?
兄さんが消えた事を認めて、そして、僕はどっちに行ったらいいの?
「兄さん!!」
草の波に僕は溺れる。草の波にさらわれる。
「兄さん!」
囂々と耳元で風が鳴る。数千の草の波が、さやぐ音が僕をなぶる。弄ぶ。
いつも一緒にいた。いつだって一緒にいた。子供の頃から、この草原で、丘の上で過ごした。駆け回った。覚えてない4年間も共に季節を越えた。
これからだって、一緒に越える筈だったのに。
消えた。
兄さんは消えた。
僕は立ち尽くした。天を仰いだ。涙が頬を伝わった。
「僕……今、泣けるんだよ? 風を感じるんだよ?」
それを兄に伝えられたらいいのに。
何故か感じるという事が凄く大事なように思えて仕方がないって、兄さんなら解ってくれる。
僕は元気だよと伝えられたらいいのに。
他に何一ついらないのに、たった一人でいいのに、兄さんがいない。
兄さんがいない。
『……………アル…』
僕は顔を上げる。風の中、地の果て、扉の向こう。誰かが僕の名を呼んでいる。
「兄さん?」
『……………アル…アル……アル…好きだよ…アル…好き』
「兄さん!!」
答はない。子供の頃、ずっと呼ばれていた声。だから、これも空耳かもしれない。気のせいかもしれない。余り思い続けているから、聞こえるような気がするだけかもしれない。
でも、その声は胸の奥で響いてる。名前を呼ばれてる。
『……………アル…好きだよ…好きだ…好きだ……好き…』
兄さんは消えた。
僕はそう思った。
でも、でも、僕は戻ってきたじゃないか。戻ってこれたじゃないか。
兄さんが向こうで同じ事を考えていたら? 兄さんは「ヤラれっぱなし」の人間じゃない。持っていかれたって、何とかして前へ進もうとする人間だ。順応せず、戦おうとする人間だ。
だから、僕達が同時に手を差し伸べたら、今度こそ、手を離さないでいられるかも知れない。
「兄さん!!!」
僕は叫んだ。絶叫した。
僕の声は届かないかも知れない。扉を揺るがす程大きくないかも知れない。
僕らの距離は狂うほど遠いのかも知れない。
「兄さん!! 僕はここだよ!!僕はここにいるよ!!」
それでも、僕は叫ぶ。
兄さんの声が僕に届くのなら、思いは時空を越えるのなら、僕の声も必ず届くはずだ。聞こえたかどうか解らなくても、それでも僕は願う。この祈りが届くように。
どれだけかかったっていい。
届くまで叫び続ける。
兄さんが僕の声を聞くまで。
僕達が再び手を取り合うまで。
僕は風の中に、草の波の中に立っていた。
『……………アル…好きだ…好きだ…好きだ……好き…』
声は響いてる。名前を呼ばれてる。ずっと、ずっと。
僕は歩き出す。
その波の中を、兄の声を聞きながら。
エンド
アニメ最終回記念。
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