登りつめたところに何があっただろう
途中で道をそれてしまった私たちには
永遠にわからない
見たこともない景色が広がっていたのだろうか
恋さえも長つづきしただろうか
わからない
僕たちはそのかわりに
別の景色を手に入れた
そこは
二度と忘れないだろう
美しい絶望の地だった

銀色夏生「君のそばで会おう」

 

二度と忘れないだろう 美しい絶望の地

 

 

 気がついたら、血の海だった。

 

 

 一瞬、自分が置かれている状況が掴めなかった。錬成を行った時の化学反応で生じた硝煙で、部屋が半ば翳っていたし、視界の高さがいつもと著しく違う。それに匂いが全くない。これだけの硝煙や大量 の血であれば、強烈な匂いで部屋中、噎せかえっていてもおかしくないのに。
(何故?)
 身をよじると、ガチャリと体が音を立てた。予期せぬ金属音に驚いて掌を見る。  手が鈍色の鎧で覆われていた。
(?…?)
 当惑して体を起こした。その瞬間、全身がガチャンと音を立てて、何か巨大な物が床の上に座る気配がした。視点が高い。たった10歳の子供の座高と違う。茫然として部屋を見回した。状況をもっと掴みたくて目をこらす。
「兄さーん…何処ォ?」
 その瞬間突然、壁が眼前に迫った。細部の木目まで目の前に突きつけられる。
「わぁぁーっ!!」
 アルフォンスは悲鳴を上げて尻餅をついた。視界だけではない。視覚や聴覚そのものがおかしいのだ。自分の出した音すら、彼の感情の揺れによって反響したり、ぶれたり、うるさい程鮮明になったりする。まるで感覚の基準を喪った故に、制限そのものが無くなったように。
 世界が違う。
 いや、違うのは自分の体だ。
 見下ろすと、全身が鎧に覆われていた。何となく見覚えがある。装飾品として置かれていたから、普段気にも止めていなかったが、確かにこれはこの部屋を睥睨するようにして立つ二体の鎧の内、一体だ。
(何で…何で僕はこんなものを着ているんだろう)
 ほんの一瞬、兄のエドワードがいたずらでやったのかと思った。兄は昔から悪ふざけが大好きだ。元々、広い村の中心からポツンと離れた一軒家に住んでいた事もあり、隣家のウィンリィ以外遊び友達が殆どいなかった。
  生まれた時から一度も離れた事はない。小さい頃から何をするにも一緒。
 学校に上がって、それなりに友人も増えたが、片田舎で学ばせるには勿体ない程彼らの知能指数は高かったらしい。入学時、既に高校レベルを終えかけていたし、他の子と日常会話が噛み合わない事も出てくる。農家の少年達は放課後、家の事情で忙しく、エド達は母を取り戻す為、錬金術を鍛えるのに熱中していた。下校後、わざわざ行き来し合う程、お互い時間の余裕はなかったのだ。
 結局、二人きりの方が楽しかったし、充分満ち足りていた。二人、同じ夢を追いかけて、厭きる事もない。毎日いつもワクワクしていた。
 夢は必ずかなうと疑いもせずに。
 だが、今日は大事な日だ。こんな悪ふざけをしている場合ではない。どこでこんな同種の鎧を用意したのだろう。早く脱いでしまおうと、アルは兜に手をかけた。第一、あの大雑把な兄が鎧と寸分の狂いもない同じ小型のレプリカを作れっこないのだが。
 大事な日。
「兄さん!」
 アルフォンスは飛び起きた。あの瞬間までの記憶が頭の中で爆発する。
 母の錬成。流れの変調。リバウンド。放電。黒いもの。そして、悲鳴。絶叫。
 最後に見たのは、左足を喪いつつ、それでも必死に自分に向かって手を伸ばす兄の姿だった。
 そして、この血の海。
「兄さん!」
 アルは狂おしく、硝煙の中を見回した。兄は、エドは何処へ行ったのか。もう自分の事などどうでもいい。あの時、自分の体が『あちら側』へ持っていかれたように、兄も全身持っていかれていたら。
 必死で部屋中、目を凝らしたアルの目にようやく壁際にうずくまる人影が映った。立ち上がり、転がるように駆けつける。自分の立てる耳障りな金属音も気にならなかった。
「兄さん!」
 生きている。ここにいる。
 でも…でも、兄は何てちっぽけに見えるのだろう。小柄なだけではない。何か欠けている。兄の何かが。そして、長々と床を引き擦った跡の残るおびただしい血痕。
「にい…」
 絶句した。うなだれた蒼白な顔は生気がない。兄は生きているのだろうか。思わず肩に手をかけた。
「うわぁ-----っ!」
 その瞬間、絶叫して、エドは肩を押さえた。
「ご、ごめんっ!」
 アルは慌てて手を引き戻す。引き戻した右手を左手で握りしめ、茫然とした。確かに触ったのに、兄に触れた気がしない。だが、慌てふためいた自分の指が兄の肩にめり込んだのが確かに見えたのだ。見えたのに、それがどの程度、兄を傷つけたのか実感できない。
 幾度も兄と手を見比べ、アルは恐る恐る手を伸ばした。出来るだけ兄の周囲の空気を乱さないように、ただ肩に置くような感じで触れる。
「………アル」
 触れられただけでも痛いのだろう。だが、今度はエドも何とか弱々しく顔を上げた。無理して笑ってみせる。安堵と喜びが目の中にあった。
「へへ……ごめんな。右手一本じゃ、お前の魂しか錬成できなかったよ」
 その瞬間、アルフォンスは全てを理解した。兄が母だけではなく、彼の為に再び禁忌を犯した事を。
「何て無茶を…!!」
 アルフォンスは絶句した。左足を失い、激痛と出血で息も絶え絶えになりながら、数十キロもある鎧を無理矢理引き倒し、死を賭して兄は錬成に挑んでくれたのだ。体の何処と引き替えなど、錬金術師に選択権はない。右腕ではなく、頭だったかも知れない。心臓だったかも知れない。それを承知でエドワードは錬成を行った。
 たった一人の弟を取り戻す為に。
「バカだよ、兄さんは!!死んだかも知れないのに…!」
「バカバカ言うな…よかった、アル…ごめん…俺は…俺…」
「喋っちゃ駄目だ、兄さん」
 怒りと悲しみと愛しさで真っ暗になる。それで兄が死ぬなんて許せない。消えてなくなったままだってよかったのに。感情が膨れ上がり、体の震えが止まらない。だが、いつもなら熱くなる筈の目頭もなく、涙も出てこなかった。ただ、自分の魂から発する〔声〕が鎧の空洞を虚ろに駆け回って、兜の空気穴から風のように響き渡るだけだ。口ではなく、ただそこに穴があったから吹き出したに過ぎない〔音の震え〕。
(僕の声……)
 これが〔声〕と呼べるものであるのなら。
 確かに時間の流れも記憶の繋がりも合っている。時計の針は非情な程、正確な時刻を示していた。夕方近く始めて、まだ夜になったばかり。村人は今頃、おいしい夕食を食べているだろう。エド達は今夜は遅いわねえとウィンリーは心配しているかも知れない。  ふくろうが鳴いている。虫の音が聞こえる。寝ぼけた牛が鳴いている。この家以外は呆れる程、村は平和な夜を満喫していた。
 だが、ここだけは違う。二人が形成していた内宇宙は跡形もなく崩壊し、アルは愕然としていた。兄の肌も匂いも何一つ現実として体感できない。自分のしたいように手足は動く。音も聞こえ、目も見える。
 ただ、それだけだ。足が宙に浮いている。手先が何処までか解らない。血の海の上に立っているのに、金属臭もぬ るぬるした感触もないが、足が滑るという事実がひどく気味悪かった。
 現実がまるで映画のように思えた。座席に座って、ただ眺めているだけ。驚いたり、怒ったりしているのに、目に映る物に本当に触れる事はない。ただ登場人物に感情移入しているみたいだ。ここにいるのに、ここにいない。何を触れても、ひどく遠かった。
 これが魂の錬成というものなのだろうか?本当に自分は生きているのか?ずっとこのままでいなければならないのだろうか?何もかも夢のように淡いままで。
 誰もいなければアルフォンスは絶叫していただろう。立ち上がり、夜の闇の中へ闇雲に走り出していただろう。死に近い、がらんどうの牢獄に閉じこめられた恐怖で。全てから逃げ出し、だが、決して逃げ出せないという絶望に辿り着くまで。
 しかし------。
 しかし、兄が腕の中にいた。
 エドワードの体から大量の出血が続いている。顔も白く、呼吸も荒い。自分の状況がどうだろうと、間違いなく兄は死にかけている。それはあの冷酷な時計が示すように、一刻の猶予もならない。
 アルフォンスは兄の存在にしがみついた。
 それしか、正気を保てる術がなかった。
 兄が命がけで与えた〔生〕を恐怖と混乱の余り、あっさり放棄して〔あちら側〕に戻ってしまいたいという衝動から。
(とにかく出血を抑えないと)
 傷が大きすぎて、半端な包帯や布きれなど役に立たない。シーツを持ってこようと顔を上げたアルフォンスの前に、初めて自分達が母に課した禁忌の結果 が目に映った。
「…か…ぁ…」
 アルフォンスは絶叫した。
 これだけはもうどうしようもなかった。

 

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