「認識」


 目が醒めた。


 目を開けると、一面肌色だった。
 何だろうと、一瞬考え、物憂げに目を上げると男の裸の腰だと解った。情事のすぐ後と解る無表情な顔をして、白い壁を見つめている。たくましい大人の身体。引きつれた古傷の跡が無数にある。燃えるような深紅の髪が男の呼吸のたびに動いた。
 そういえば、身体がひどくだるい。頭もガンガンする。手足の節々も痛い。尻の粘膜がヒリヒリする。この分だと一度や二度の行為ではなかったのだろう。
 だが、どうとも思わなかった。それより、何故この男が横で煙草を吸っているんだろうかと不思議に思った。


「生きてるか」


 男は呟いた。無感動な響き。お前の生死などどうでもいいが、一応確認する為だけの申し送り。
 アレンは頷かなかった。



(……生きているのか、僕は)


 まだ。
 倦怠感が身体を包んでいる。
 男は初めてアレンをまともに見下ろした。顔や肩に大きな裂傷がある。血はもう止まっているが、シーツが血だらけだ。
「俺が解るか?」
 アレンは黙ってその目を見返した。感謝などしていなかったから、ただ二、三度瞬きする。
「フン……」
 男は鼻を鳴らして、紫煙を吐き出した。
「全く、何が手の掛からない素直な子だ、だ。こうなるのが解ってた癖に…」
 ブツブツと呟き、不機嫌にアレンの髪を鷲掴みにする。
「いいか、死に損ない。俺は面倒臭ぇのが嫌いだ。手間をかけさせるな」
 その手が乱暴にぐしゃぐしゃと白い髪を掻き回し、ポンと頭をはたいてから離れる。
(全然違う)
 アレンはその感触を反芻した。マナの撫で方と全然違う。大きく無骨な、だが、奇妙に繊細な手つき。煙草の香り。体臭。何もかも違う。
 だが、力強かった。
 まぎれもなく『生きた』人間の手だ。
 生かされた事に反発しつつも、それがひどく切なかった。もっと触れていたいと思った。『生きている』というものに。
「包帯」
 男は顎でしゃくった。
「手前のせいだから自分で直せよ」
 そう言われて、アレンは自分の身体を見下ろした。あちこち包帯だらけだ。それがほどけたり、ずれたりしてどれもまともに身体に巻き付いていない。指摘されて、包帯とシーツで擦れた生傷が改めて痛み出した気がした。
「どうしてって顔だな。
 3階から飛び降りようとする。グラスを壊して破片を飲み込もうとする。カーテンに火をつける。挙げ句の果 てはその左手で頭をかち割ろうとしやがった。
 だから、犯した。一番手っ取り早かったからな。
 素直だったのはベッドの中だけだ、手前は。鳴き声だけはいっぱしだな」
「………………」
 アレンはぼんやりと男を見つめた。
「…その傷…」
 ようやくアレンは声を絞り出した。自分でも驚くほど声がしゃがれている。
「ああ…二度とゴメンだぜ。その左手を止めんのは」
「……………」
「ごめんなさいとか、すいませんとか言えねぇのか、クソガキ」
「……ごめん…な…さい」
「聞こえん」
「ごめんなさい」
「フン…」
 男が平気で煙草の灰を床に落とすのをアレンは黙って見つめた。貧しい暮らしはしていても、綺麗好きだったマナと大違いだ。床には脱ぎ散らした服や酒瓶や紙屑が散らばっている。男は部屋の惨状を全く気にする様子はないから、傷が治り次第、自分が片づける羽目になるのだろう。
 紫煙が枕元に流れてきて、弱り切った気管支を刺激する。アレンは思わず咳き込んだ。だが、男は煙草をふかすのをやめようとしない。何だか無性に腹が立ってきて、男の太ももを爪を立ててつねった。
 男はしばらく知らぬ振りをしていたが、さすがに煩わしくなったのだろう。ギロリとアレンを見下ろした。アレンは睨み返す。手を挙げたので叩かれるかと思わず目を瞑った。



 が、予期した痛みは来ない。
 目をそろそろと開けると、男の人差し指がアレンの額にグイと押しつけられた。
 ペンタクルを引っ掻く。



「消えねぇな」


 苦々しげに呟いた。



(……………っ!)


 アレンは動転した。



 呪い。発動した金色の手。悲鳴。焦げた金属と油の匂い。藻掻いている骸骨の横顔。引きずられる身体と土埃。その顔に容赦なく叩きつけられる吹雪。



『マナ=ウォーカーを甦らせてあげましょうカ?』
『マナ=ウォーカーを甦らせてあげましょうカ?』
『マナ=ウォーカーを甦らせてあげましょうカ?』



「駄目!」
 アレンは思わず男の手を払いのけてペンタクルを守った。これがある限り、痛みは消えない。あの日をいつまでもいつまでも思い出し続けなければならない。
 愛の名の下に自分の犯した罪を。
 でも、これは最後にマナがアレンに残していったものなのだ。
 キスマークよりも深く。



「消せるかよ」
 男は嗤って、怯え切ったアレンを見下ろした。
「誰にも出来ねぇ…多分、全部終わっちまうまではな」
 アレンは思わず男を見返した。
「見てたんですか、あの時?」
 アレンはゆるゆると首を振った。
「見届けた、全部」
「どうして……?」
 エクソシストはアクマを壊すものだ。千年伯爵を敵とするものだ。男はそう言った。
 ならば、どうして彼の犯した過ちを見逃した?何故、事前に止めてくれなかった?何もかも終わってしまう前に何故?



「それが約束だったからな」
 男は呟いた。
「お前がアクマになれば、そん時ぁ、お前をぶっ壊していた。運がよかったな、お前」
「運がいいですって!?」
 アレンは飛び起きた。父親殺しの自分が運がいい?最愛の人を殺し、最高の禁忌を犯した自分の何処が運がいいというのだろう?
 あの日以来、殆ど記憶がない。泣く事も忘れた。食べる事も、眠る事もできなくなった。壊れて、何もかも虚ろで生きているのが不思議だった。
 死にたくて、消えてなくなりたくて、でも結局、死ぬ事も出来ずに蹲っている自分の何処が幸運だというのだろう。
 だが、衰弱した体に感情の嵐は強烈すぎた。枯れた喉から乾き切った肺に空気と水分が雪崩れ込み、アレンは突っ伏して咳をする。
「フン、苦しいか?もうちょっと苦しんでろ。お前のせいでこっちは怪我するわ、女に振られるわで、いい迷惑だ。ちっとは反省しろ。
 いいか、俺の好きなものは三つ。いいワイン、煙草、女だ。ガキは入ってないんだ、覚えとけ」
 男は苦しがるアレンの背を撫でもせず、ベッドから降り立った。下着もつけず、そのままズボンを履く。適当にしかジッパーを上げないので、陰毛が隙間から覗いているのがひどくエロチックで、アレンは思わず目を背けた。
 男は素肌の肩に銀と黒のコートを纏ったままで、部屋から大股に出ていった。ドアも閉めない。アレンはシーツに顔を埋めたまま、咳を懸命にこらえた。肺が焼けそうだ。



(何で、あの人は僕を助けたんだろう)
 解らない。何で彼はひどい言葉を投げつけてくるんだろう。どうして、いじめるだけなんだろう。優しく慰めてくれないのなら、助けてくれる気もないのなら、放っておいてくれればいいのに。見捨ててくれればいいのに。死ぬ のを止めてくれなければいいのに。
 いっそ、殺してくれればいいのに。



 マナを殺した自分はもう神様に許される筈がない。
 伯爵に踊らされた人間が神に仕えていい訳がない。
 エクソシストなんかなれる訳がないのに。



(マナ……)


 あの男みたいな粗野な愛撫はいらない。誰もマナみたいにはなれない。側に行きたい。抱き締めて欲しい。
 もう一度だけでいいから。


 でも、もうマナも許してくれないかも知れない。生きようとしない子供など。償う気力もない子供など。


『さ、行こう、アレン』
 どんな辛い事があっても、マナは最後にグッと唇を噛み締めて笑って言った。
『立ち止まるな。とにかく歩いて行こう。明日はまた別の日が射すんだ』


 だけど、もう歩けない。たった独りでは。二人だから歩いていけた。
 マナもそう言ってアレンを抱き締めた事があったのに。


(僕は…もう何処にも行けないのかも知れない)



 泣きたい。
 アレンは乾き切った目をきつく閉じた。
 泣いて、泣いて、全部心から洗い流してしまえたらどんなにいいだろう。
 だが、力を込めても目尻が痛いだけで何も出てこなかった。心が張り裂けそうだ。潰れそうなのに、何かに堰き止められて出てこない。どうやって悲しんでいいか解らない。
 どうやって生きていっていいか解らない。



 その時、黄色のものが目に入った。それはパタパタと部屋を飛び回り、アレンの側に着陸する。しばらくじっとアレンを見つめていたが、ゴロンとボールのように転がった。おどけるようにゴロゴロと転がって、やがて毛布に埋もれてしまう。
「……ティムキャンピー」
 アレンの口元に初めて笑みが浮かんだ。そっと手を伸ばす。毛布の隙間から金色の十字架が覗いた。男のゴーレムは何も言葉を発さないが、アレンを気遣うように見つめている。
 アレンは苦笑した。ごめんねと小さく呟き、優しくティムを撫でる。
「……その分だと、もう死ぬ気は失せたようだな」
 男の声がした。アレンは目を上げる。男が皿を片手に立っていた。湯気の立つそれをグイッとアレンの両手に押しつける。なみなみとミルクが入っていた。
「それを飲んで、さっさと獣から人間に戻れ」
 アレンは顔を顰めた。空腹より、喉の渇きがひどかったが、動物扱いされた事がひどく腹立たしかった。孤児院でもここまでの辱めを受けた事はない。この男は何処まで自分を侮辱する気だろう。
「僕を猫扱いしないで下さい」
「泣けねぇガキは動物と同じだ」
 男はベッドと差し向かいにある木の椅子にドカッと腰を下ろした。行儀悪く両足を床に投げ出す。
「動物は泣けない。だから、悲しみに押し潰されて死んじまう。ガキもそうだ。泣かないガキは無表情な鬼みたいな顔になる」
 男はシガレットにまた火をつけた。
「飲め。ここにはマグカップなんてお上品なもんはねぇんだよ。それにミルクをワイングラスで飲ませるのもゴメンだ。手前には皿で充分だ」
 アレンは皿を見つめたままだ。
「親殺しがそんなにツライか、クソガキ。だが、アクマはそんなんばっかりだ。子殺し、恋人殺し、妻殺し。一番最愛の者を最初にぶっ殺して出来上がる。
 だから、みんな後がねぇ。最初に終わっちまってる連中ばかりだ。他人が救ってやるにはぶっ壊す以外ないってのは、そういう事だ。
 伯爵のおもちゃより、何よりそうしてやるしかねぇんだよ」
 男は天井に向かって、紫煙を吐き出した。
「お前は親をぶっ壊した。だが、おかげでマナは誰も殺さずにすんだ。誰よりもお前を殺さずにすんだ。罪を犯さず、綺麗なままで、もう一度死ぬ 事が出来た。お前のおかげで。
 だから、お前は運がいいんだ。せいぜい呪われてろ、手前なんか」
 また紫煙が天井を漂う。
 アレンは皿のミルクに写った自分の顔を眺めた。あの時以来、初めて真正面から自分の顔を見つめる。
 親殺し。恋人殺し。自分殺し。それらを全部犯したものの顔を。
 無表情な子鬼の顔を。
 ミルクの湯気がその顔をあたたかく揺らした。『生きろ』とその湯気は薦める。『飲め』と胃袋が囁く。
 アレンはピチャリと舌を伸ばして、ミルクを飲んだ。甘い液体が喉を伝う。鼻をくすぐる。飢え乾いた身体が夢中でそれを啜った。悲しみよりも本能に屈するのを感じる。
 飢えと乾きを満たしながら、まだ子供なんだ。余りにも子供なんだという認識がアレンを襲った。マナを殺したという認識が、この男と共に生きていくという認識が身体を満たしていく。波に洗われるように、さらわれるように、アレンは自分の立てる水音に身を委ねた。
 委ねる事、屈する事がアレンの中の何かを解きほぐす。揺らがせる。


(僕は、マナ、ごめんなさい、僕は)
 口の中がしょっぱい。
(生きます、ごめんなさい。生きます)
 涙が鼻を伝って、口に入る。涙がポタポタとミルク皿に落ちていく。顔が弛み、鼻水が溢れ、顔全体がぐちゃぐちゃになっていく。それにも構わず、アレンは舌で飲み続けた。必死で何かをたぐり寄せるように。
 男はそっぽを向いていた。相変わらず我関せずという態度で煙草をふかしている。この瞬間が早く終わってくれればいいと心から思っているようだ。



 ひどい男だ。


(でも)


 アレンの為に血を流した。
 まるで平気な顔で。
 彼に煽られたから、アレンは死ぬ気が失せた。彼はわざと怒らせたのだ、きっと。
 不意にアレンはおかしくなった。この男がふて腐れた表情で台所でミルクを沸かしている姿が浮かんでくる。明日もきっと苦々しい顔でミルクを沸かしてくれるだろう。
 アレンが立ち上がれるようになるまで。
 この男はマナとは全く違う。
 でも、だからこそ僕は……。


「あの…」
「ああ?」
 男は胡乱げに髪を掻き上げた。
「僕、あなたに…」
「師匠だ」
「はい?」
「『あなた』じゃない。気安く呼ぶな、クソ弟子」
「………弟子?」
「人間に戻ったんなら、そう呼ぶ。まだ獣扱いされたいか、クソガキ」
「……いえ」
 アレンは首をすくめた。そして、クソガキとクソ弟子とどっちがマシか考え、またおかしくなる。止まらない涙と共に、口から笑いがこぼれてたまらない。
「気色悪ぃ。とっとと飲み終われ、クソ弟子」
「は、はい。師匠」
 アレンは涙と笑いで何が何だか解らないまま、ミルクを嘗め続けた。
 感謝は後に取っておこうと心の奥にしまいながら。

エンド

マナの死、三週間後位。正確な時期は不明。
クロスの機嫌が悪いのは、90%位はマナのせい(^^;

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