(…フゥ)

 マナは肩をコキコキさせながら、ようやく納屋に戻った。
 もう明け方近い。じき、駅馬車の開始でこの納屋も大騒ぎになるだろう。もうすっかり慣れてしまったが、最初の頃は殆ど寝られなかったものだ。
 ご祝儀の酒をたんまり弾んでもらったが、こわばった指が震えて、危うくグラスを落とすところだった。あの劇場の支配人ときたら、マナが中心になる曲ばかりリクエストする。高額のご祝儀なので仲間の為にも断り切れないが、リンチもいいとこだ。

(カプリースなんて弾くんじゃなかったな)

 マナは溜息をついた。最初に出会った時、支配人はこの宿で駅馬車を待っていた。慰みにパブで酒を嗜みながら、最近の業界の混迷や演奏家達の技量 の低下ぶりを大声で腐した後、みすぼらしい旅芸人が演奏者の席に座っているのを見咎めたのだ。彼としては、今の話題を裏付ける事をマナで実証したかったのだろう。
「ちょっと、君、これ弾いてみてくれるかい?」
 と(暗に場違いな、という視線を向けながら)渡されたのが、パガニーニの超絶技巧曲カプリースの楽譜だった。19世紀の天才バイオリニスト、パガニーニの名前は知っていたが、既に亡くなっていたし、曲も聴いた事はない。
 彼の悪意はあからさまだったから、適当なことを言って断るか、逃げを打てばよかったのだ。
 だが、マナは権威主義や鼻持ちならない講釈が大嫌いだったし、黙って引き下がる気になれなかった。その楽譜の正体がいかなるものか知らぬ まま、一見するなり、即興で弾ききった。
 支配人は沈黙し、彼の仲間の紳士諸君は『しかし、神様も無駄な才能をお与えになったもんだ』と陳腐な嫌みを言うしかなかった。あれ以来、支配人は人が変わったようにマナに入れ込んでしまっている。全くいい迷惑だ。

『笑われてやればよかったんだよ。芸人のくせに』

 宿の亭主に呆れられるのも無理はない。自業自得だ。だが、ことバイオリンの事となると、子供のようにムキになってしまう。こんな事が赤毛の友人に知れたら

『だから、お前は絶対芸人なんかなれないと、俺が言っただろうが』

 と、なじり倒されるだろう。全くうんざりだ。


(やれやれ)

 マナはまた溜息をつき、部屋に戻った。机の上のバスケットを見る。これを単純に主人の好意と思う程、マナは甘くない。主人は大劇場の支配人にマナを売り込みたいのだ。この宿のいい宣伝になるからである。世知辛い世の中だ。
 旅芸人上がりのマナが、団員達とうまくいく訳もあるまいに。あの支配人もいい加減目を覚ませばいいのだ。この世にはどうにも動かせないものがあるという事を。
 マナだって、出来る事なら大劇場に立ちたい。いい生活を送りたい。アレンの為にも。
(この足さえなかったら…)
 マナは溜息を飲み込んだ。所詮、繰り言は繰り言に過ぎない。

「…アレン、ただいま」

 ベッドに腰を下ろし、マナは小さな声で呟いた。
 隅の方で寝ていた筈のアレンは、猫のようにど真ん中の一番いい所に移動していた。ぐっすりと無邪気に眠り込んでいる。疲れているので少し困った奴だと呆れながらも、その寝顔に思わず笑みが零れた。
 部屋に戻ると誰かがいるというのは、本当に何年ぶりだろう。寒々とした部屋が驚くほど暖かく思えた。永遠の孤独を約束された体がどんなに冷え切っていたか、マナは実感する。
 できれば、この日々がせめて、この冬だけでも続けばいいのに。
 だが所詮、無理な望みだ。春になる前にアレンの預け先を探さねばなるまい。学校に行き、腕を気にしない友人を見つけ、まともな人生を送る。それがこの子の幸せだ。自分の孤独を癒す為などに、アレンを犠牲にしてはならない。
「……ん」
 アレンが寝返りを打った。小さな手が毛布からはみ出る。アレンはミトンをはめたままだった。余程左手を誰かに見られたくないのだろう。
「風邪、引くよ」
 マナはアレンを抱き上げた。自分の寝場所を確保する為に、少し脇に置こうとする。
 ポロッと、ミトンが外れた。ミトンの下の手に、あの裂けた灰色の包帯が執拗に巻いてあるのに驚く。この子の腕への憎悪が伺えるような気がした。そして、その心の傷の深さも。
(僕だけでも気にしないって解らせるようにしないとな)
 友人を作るのも、これでは難しいだろう。それに包帯は余りに汚れていた。せめて洗ってやらなくては。
「……………」
 包帯に手をかけたマナの手が止まった。アレンの手の甲に釘付けになる。


「……………あった」


 マナはぽつんと呟いた。まるで長い間探し続け、諦めていた手紙や鉛筆が何の気なしに見つかった時のように。
 アレンの手の甲には黒い十字架が埋め込まれていた。マナはそれをゆっくりと触れる。指の先でそれは冷たく固い水晶のような感触だった。
 マナは振り向き、バイオリンを取り上げた。バイオリンを裏返す。そこには黒い穴があった。十字型の穴が。それをアレンの十字架の上にかざす。
「……………」
 何も起きなかった。少し押し当ててみたが、やはり何も起こらなかった。


「……そっか」


 マナは何処か深く安堵したように呟いた。少しだけ諦めを秘めて。
「そういう事か」
 マナはあくびをすると、服を脱ぎ、アレンの横に潜り込んだ。アレンの体温で驚くほど温かい。心地よさにマナは目を細める。
「………んん」
 アレンは人の気配に気づいたのか、身をすり寄せてきた。猫のようにマナの胸元で丸くなる。アレンの髪の毛が鼻先をくすぐった。
「……………ふふ」
 マナは微笑んだ。

 もうじき月が変われば、あの赤毛の男がやってくる。アレンを見て何と言うだろう。
『何だ、これは?』
 と、物を見るように言うのが聞こえる気がした。あの男は子供が大嫌いだから。
「ま、いっか」
 何か言い訳を用意しなくてはなるまい。子供のアレンが人前でも手袋をつけていられる理由を。マナは隠し通 すつもりだった。

 教団になど送る気はない。絶対に。
 彼を追放した世界には。

 マナは目を閉じた。柔らかなまどろみが彼をすぐ眠りの世界に引き込んでいく。イノセンスについて、色々考えたかったが、今はただ眠りたかった。
朝日が雪の街を白々と照らした。目を覚ました馬が何頭か、鼻を鳴らしている。足音を立てて、納屋の引き戸が大きく開かれる。



 クリスマスの夜が終わった。

エンド

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あとがき

お疲れ様でした。マナアレ出会い編いかがでしたでしょうか?
書くのが楽しくて楽しくて、こんなに長くなりました。
今になって19世紀物をたくさん調べると、色々まずい事もたくさん書いてしまいましたが、そこはもう仮想19世紀だから!で流して下さい(笑)
(例えば、両親のいる貧民の子より、孤児の方がいい服装をしているとか。
孤児は慈善を受けられるので、貧民よりましな格好をしてるのです。まず靴を履いてるか、履いてないかで区別 がつきます。アレンはブーツを履いていたので、ジリ貧といってましたが、マナに相当優しくしてもらっていたと判断できるのです)
これからもマナアレは続きますが、出来るだけ19世紀を強く意識して書こうと思ってます。

あの麗しきビクトリア時代の影の部分ばかり生きていく事になるこの二人。
それでも、マナを甦らせたいと願った事。「前に進め」という言葉に縋り付く、あのアレンの病的とも思える執着と衝動は、ここら辺を描かないと自分でも説明つかないんじゃないかな。

因みにうちのマナのイメージは「10年後のアレン」です。
元・エクソシストですが、様々な理由でイノセンスを失い、教団から永久追放されてます。楽器をアクマ武器にしてる人にしたかったの。バイオリン大好きv
次回からは、やっと師匠も登場。マナアレはこの3人でほぼ登場人物はおしまい。
だから、他のキャラに名前も一切つけません。 ただの通りすがりに過ぎない。
マナとアレンは完成された楽園。閉じられた世界。世界に二人きり。
そんな意味でリゼンブール時代のエドとアルの子供時代とそっくりですね(笑)
アレンにとっては「最初の恋」マナにとっては「最後の恋」
これはそういうお話です。

読んで下さって、ありがとうございました。
これからも書いていきますので、どうぞよろしく。

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