お菓子の時間

 

 母が死んだのはアルがまだ物心ついて間がなかった。
 だから、アルは母の事を兄ほど明確に思い出せる訳ではない。だが、一つだけ明確に覚えている言葉があった。それは
『くれぐれもお兄ちゃんの事、お願いね』
 だった。

 

 母は流行病で死んだが、若かったせいか倒れたものの、母自身も最初は差程心配してなかったようだ。実際、症状は流感に似ていたし、村中で流行っていた。ただの風邪だと思っていたのだ。兄弟の年齢がもっと高ければ、母の苦労を肩代わりできたのだろうが、余りに幼すぎた。だから、治りかけると起きたり寝たりを繰り返し、結局体力を磨り減らしたのだろう。
 病に罹った者は多かったが、死んだのは母だけだった。運悪く菌が心臓に入ってしまったらしい。過労が積み重なって、抵抗力が落ちていたのも災いした。母の死は花が風で散るように呆気なかった。深夜、様態が急変し、為す術もなく逝ってしまった。
 だから、誰も心の準備が出来ていなかった。兄が母の死を諦められず、受け止める事も許せずに
『母さんを元に戻せないかなぁ』
 と、言い出したのも無理からぬ事だった。
 だから、死ぬ前の数週間は母も直る気配すらあり、三人ともむしろ気楽な感じだった。
「風邪には卵酒が効くんだって。母さん、俺、卵酒を作ってやるよ!」
 エドワードは何処から聞き込んできたのか、カゴ一杯にショウガと卵と酒をもらってきていた。母はいつものように微笑んでいたが、何処かしら曖昧な笑みを浮かべていた。息子が錬金術の天才だと知ってはいたが、せっかちで大雑把で思い込みが激しく、とにかく料理には向いてない事も解っていたからだ。
「エド、母さんは大丈夫よ。明日は起きれるようになるから。その卵でプディングを作ってあげる」
 大好きなプリンと聞いて一瞬、エドは逡巡したが
「でも、熱全然下がんないじゃないか!熱は汗一杯出すといいんだって!ちゃんとばっちゃんに作り方書いてもらってきたから」
「ええ、でもね…」
「兄ちゃん、ボクも手伝おうか?」
 アルは見かねて言った。幼くはあったが、慎重で几帳面なアルはレシピさえあれば、簡単な料理くらいこなす。だが、エドはムッとした。この程度のレシピで弟の手を煩わせたなど兄の沽券に関わる。それにエドは自分の手で母に何かしてやりたかったのだ。
「アルは母さんについてなきゃ駄目だ。俺が聞いてきたんだから俺がやるよ。ほら、たった5行だぜ?ホントに簡単でちゃちゃっと出来るって!」
 心配顔の二人を残して、エドは意気揚々と部屋を後にした。
 が、すぐ台所からドンガラガシャーン!と派手な音が鳴り響く。
「エド、どうしたの?」
「何でもねぇ!ちょっと鍋を取ろうとしたら、他の鍋も一緒に落っこってきただけ!大丈夫だよ!」
 だが、騒音は一向に止まず『ちくしょう!』とか『あれ、変だな……ま、いっか』とか、不安を呼ぶ声が聞こえてくる。二人は何とか我慢していたが、遂に焦げ臭い匂いが漂ってくるに至って、とうとうアルは立ち上がった。
「ごめんね、母さん。ボクやっぱり見てくる」
「そうね……アル?」
「ん?」
 アルは小走りにドアから戻ってくる。母はその小さな手を両手で握って、必死な面 もちで彼を見つめた。
「まだ小さいあなたにこんな事言うのおかしいけど」
 母はアルの瞳を覗き込んだ。
「アル……くれぐれも…くれぐれもお兄ちゃんをお願いね」
 アルは少しだけ困惑した。台所の大騒ぎだけでは、母の表情は余りに真剣すぎたからだ。
 だが、黒煙がドアから侵入してくるに至って、アルは心から母の気持ちが解る気がした。
「うん、絶対!お兄ちゃんはボクが守るから!」
 アルは母に頷き返すと、身を翻してドアを開けた。家中に黒煙が充満している。火事だ!
「わー、兄ちゃん、何やってんのー!」
 アルは咳き込みながら台所に駆け込んだ。
「あ、アル。何だよ、母さんについてなきゃ駄目だろう?」
 エドはそれでも何事もないような顔で振り返った。
 卵酒を作っているだけなのに、台所中、調理器具や食器があふれ、色んな鍋が泡だったり、焦げ付いたりしている。洗い場は割るのに失敗した卵の殻やいい加減に擦り下ろしたショウガのクズでゴミ溜めになっていた。
「もう、兄ちゃん!窓開けて、火止めて!家中、煙で凄いよ!何で気がつかないの!
 ……あっ!それ、何してんの。駄目だって!ボクに貸して!」
「バカ!何すんだよ!せっかくうまくいってんのに!」
「何がうまくだよ!とにかく窓開けて!鍋焦げてるでしょ!」
「もう、アル!命令すんなよ!……あっ、あっ、それ捨てんのかよ!もう大体出来てたのに…」
「こんなもの母さんに飲ませられないよ。変な匂いしてるし、もっと上手にコップについでよ。色も何でこんな赤や緑になるの。ああっ、酒が固まってるよ!ゴムみたい!何入れたんだよ、兄ちゃん!」
「普通の作ったらつまらないだろ?俺様の一工夫でなぁ」
「普通でいいんだよ、普通で!ボクが作るから兄ちゃんは鍋洗ってよ。あー、鍋に大穴開いちゃってるじゃない、もう!」
「おい、アル!勝手な事すんなよ!」
「いいからもう、兄ちゃんは座ってるか、母さんを看てて!」
「何言ってんだ!俺がレシピ聞いてきたのに!」
「痛っ!叩く事ないじゃないか!」
「うっせぇ、でしゃばり!このバカアル!」
「もう、兄ちゃんのバカッ!」

 

 

 明らかに第2ラウンドのゴングが鳴ったのを感じて、母は深々と溜息をついた。
「エド、アル、大丈夫かい? 何だい、この煙は?!およし、二人とも!ケンカなんてしてる場合かい!」
「もうあんた達、何やってんの?……うっわー、まずそー。何作ってたの?……ヘドロ?」
「違うぞ、ウィンリィ!何て事言うんだよ!」
「ウィンリィの言う事、間違ってないと思うよ。あたっ!また、殴った!」
「もうおよし!少し離れなさい、二人とも!」
 やがて、窓から猛烈に上がる煙を見つけて駆けつけたピナコ達の声も交じり、台所の修羅場は収まる所を知らない。母は熱っぽい身体を無理に起こして、ガウンに袖を通 す。
(もう……絶対直らなきゃ。これじゃ心配で死んでも死にきれないわ)

 

 

『アル……くれぐれも…くれぐれもお兄ちゃんをお願いね』
(確かに母さんも言いたくなる気持ちは解るよ)
 アルは買い物から帰ってドアを開けるなり思った。
 読みかけの雑誌や本は机や床に散乱し、洗濯物なのかまだ着るつもりなのか解らない服や下着が、ベッドや椅子の上に適当に放ってある。お菓子はどれも食べさし。書類か丸めたゴミか解らない紙が、机の上やくず箱を占拠し、カーテンは適当に開けられ、ひもで止める事もしていない。
 兄といえば、シャワーを浴びたのか、下着にシャツ一枚を引っかけた姿で、部屋の惨状を一つも気にする事なく、ベッドの上でひっくり返って本を読み耽っている。
「……もう!宿に着いて一時間しかたってないのに、どーしてこう汚せるんだよ!」
「あー、お帰り、アル。何だよ、うっせぇなぁ」
「うるさいじゃないよ。何だよ、これ!いつもいつも、どうしてこうだらしないの!」
「いいじゃんか、別にー。明日、ここ出ていくんだし」
 エドは本に夢中で顔も上げない。
「もう足の踏み場もないじゃない。いくら出ていくたって限度があるでしょ?」
 アルはプンプン怒りながら、本を拾い上げようとして、ふとやめた。
『アルフォンス君、余りエドワード君を甘やかしちゃ駄目よ。片づけないのは誰かがいつも代わりにやってくれるからやらないの』
 ホークアイ中尉の言葉が頭をよぎる。
『でも…ほっとくとずっと散らかしっぱなしで。ボクはそういうのイヤだから』
『一緒の宿だものね。たまにはシングルにしたら?』
『はぁ』
 アルは曖昧な返事をした。この国では一般的な朝食付きの宿は大抵二人部屋なのだが、大きな街だとシングルしか開いてない時も多い。だが、彼らは常にツイン以上の部屋しか取らなかった。
  子供の頃から一緒に寝るのが習慣になっているし、やはり別々の部屋だと二人とも落ち着かない。夜の散歩に出ようが、それ以外の時間は常に兄といたかったし、エドもそうだった。こういう所が兄弟なのにおかしいと人から言われるのだが、二人はそう言われるのにもう馴れてしまっている。
 第一、アルは宿に一人でいても、風呂も歯磨きも排泄もしないのだから、休む事自体意味がない。本を一人で読んでも、会話や議論が出来ないのは退屈だ。ポツンとやる事もなく、ベッドに座っていると自分の鎧の中の空洞が意識されてイヤだった。本を読み終わって、ふと顔を上げ、部屋に自分しかいない空間に気づくと取り残されたように淋しくてたまらない。兄の世話をする時と、兄と一つになる時だけ、アルは自分の中に吹き込んでくる風の音を忘れていられる。
 それは結局エドも同じ事で、どちらともなくお互いの部屋に押し掛けて居座ってしまう。狭いシングルに二人でぎゅうぎゅうになって泊まる羽目になり、エドが余計疲労するので、二人はツインかダブルしか取らないのだ。
『何でも自分でやる癖がついたら、アルフォンス君も気持ちよく過ごせるでしょ? それとも、エドワード君は小言を聞くのが好きなマゾなの?』
『どうなんでしょう?』
 と、笑う二人の視線の先には大佐とエドがいた。どちらも片づけない事にかけては折り紙付きである。
『エドワード君があんなだらしない大人になったら困るでしょ? 本人はよくても仕事を山積みにして、他人に迷惑をかけるようではね。あんなに大きくなると躾けし直すのも大変だし』
『御苦労なさってるんですね、中尉も』
『聞こえてるぞ〜』
 珍しくハモりながら、噂の二人がアル達を睨んでいる。
『聞こえるように言いました』
 中尉は全く動じていない。
 それを思い出しながら、アルはついクスッと笑った。
 世話をするのは苦にならないが、国家錬金術師である以上、軍の特務で一人で、あるいは軍部の人と行動する事もある。その時、兄がいつものようにだらしなかったらちょっと恥ずかしい。
  他人となら少しは気を遣うかも知れないが、軍人相手だと張り合って余計に迷惑を掛けかねなかった。ブロッシュ軍曹みたいに気のいい人ばかりではない。子供だろうが、国家錬金術師だろうが、頭から相手を押さえ込みたがるマッチョ気取りの軍人の方が多いのだ。
  エドに人の顔色を窺うような器用な真似は出来ないだろうが、余計な軋轢を生んだり、協調性に欠けて仕事に支障を来すのは避けてもらいたかった。
  軍の特務は危険な内容が多い。いざという時、仲間にフォローされないのは命に関わる。
  それに仕事に差し支えるという事は、エドの身が危ないというだけではない。アルの元に戻るのが遅れるという事でもあるのだから。
(結局、ボクも結構独占欲が強いんだよね)
 アルは肩をすくめた。兄がこのまま年を重ねれば、今よりもっと特務が増えるだろう。一般 人のアルには見せられぬ場所にも行かされるのだろう。イヤだ、一緒になんて通用しない事が増える。だから、国家錬金術師になりたいとせがんでも、エドだけでなく、大佐も許してくれない。
 鎧だけの自分は禁忌そのものだ。人体錬成を三大禁忌の一つに数える国家錬金術師の規定にもとる。イシュヴァール内乱に行き、軍の秘技に携わる錬金術師の中には、もうまともな常識を持ってない者もいると大佐はアルに警告した。元々、科学者は研究の為なら、目先の道徳など捨てかねない者が多い。国家錬金術師になればそれこそ、研究向上を盾に取られて、軍部へ協力しろと研究室送りの近道にされかねないのだと。
 そう言われれば、アルも口を噤まざるを得ない。兵器を作る科学者が禁忌などモノともしないのは、兄弟で道を踏み外しても、些かも動じない自分達が一番よく解っている。
 ふてぶてしい科学者であり、錬金術師である自分達が。
(だから、少しくらい自分の身の回りくらい出来た方がいいよね)
 自分がいなくても。
 血印は永遠かも知れないし、期限が短いかもしれない。
 鎧は強固だが、血印は剥き出しなのだ。
 自分がいなくなっても。
(あ、ちょっとムカついた)
 アルはエドの足元に座った。兄を置いて先に逝く。兄に死なれて、何処までも生き続ける。どっちも願い下げの人生だ。
(おかしいな)
  アルは思う。どんな夫婦でも連れ合いに先立たれても、後追いする事なんてない。いずれ来る再会の日まで自分の人生を生きていく。新しく作っていく。
  人間は一人で生まれてきて、一人で死ぬ。双子でも母の胎内から出た時からは同じだ。人間の人生はそうしたものだ。
  充実した老後か、そうでないか。 でも、愛し合った思い出は豊かだ。それが一人残された方を支えてくれる。
 だけど、自分はそうしたくない。
 兄に生きて欲しい。元気でいて欲しい。
 それは本当の願いだ。どんなに辛くても悲しくても二人で生きて生きて生き抜いて、そして身体を取り戻し、やっと人生に足を踏み出せる。人として歩き出せる。
 でも、兄が少しでもいない人生なんて考えたくない。耐えられない。
(ヤダな。もうずっと前に結論を出した事なのにさ)
 アルは思いを放り出した。
(だいたい、部屋を散らかしてばかりの兄さんが悪いんじゃないか)
 だけど、エドも大きくなった。毎日の小言など馬耳東風の兄に『あれやれ、これやれ』と言っても無駄 だと、アルには解っている。アルは買ってきた袋を開いた。
「兄さん、何か食べる?」
「んー、何買ってきたんだ?」
「プリンだよ」
 エドはパタン!と本を閉じた。
「喰う!」
「あげても、いいけどー。じゃ、この部屋片づけるの手伝って」
「えー?」
「だって、こんな汚いところでお菓子を食べさせたくないもん」
「じゃ、後で片づけるからさ。食べたら必ずする!」
「駄目。それじゃ大佐と一緒でしょ?中尉に同じ事言ってたの聞いた事あるもん」
 エドのまなじりが吊り上がった。エドは誰より大佐と比較されると気を悪くする。
「あいつと一緒にすんなよ!」
「じゃ、手伝って」
「うー、面倒臭い〜〜〜。今日は7時間も列車に揺られて腰が痛いし、やっと落ち着いたのに」
「悪い子にはあげないよぉ?」
「あ〜〜〜〜〜」
 もう一押しかな?アルは大きな焼きプリンのカップを取り出した。ちゃんと生クリームも添えてある本格派だ。エドの目つきが変わる。ゴクリと唾を飲み込んだ。こういう所はいつまでたっても子供だ。
「解った。やる」
 エドはフットワークも軽く立ち上がった。もの凄い勢いでタオルを拾い、服を畳み、書類とゴミを分別 する。こんな時、エドはアルよりずっと行動が早い。タオルを洗面所に適当に投げ込むな、洗濯物とまだ洗わない物に分けておいてと、口は添えないといけないが。
「出来た!」
 エドはトンとベッドにあぐらを掻いてご褒美を待った。
(中尉は大佐にどんなご褒美あげてるのかなぁ)
 アルは内心おかしがった。普段は二人とも猫臭いがこういう点は犬っぽい。さすが軍部の狗だ。
「よくできました」
 アルはエドにプリンのカップを渡した。カップは白い陶器で出来ていて、そのままコーヒー茶碗に使えそうだ。さっそくスプーンを嘗め嘗め、エドはプリンを堪能する。
「うわっ、うめぇ! 卵が効いてるな」
 エドは声を上げて笑った。だが、やがて押し黙る。アルは首を傾げた。
「どうしたの、兄さん?」
「……母さんが最後に作ってくれたお菓子がさ、プリンだったな。これ、味がよく似てら。生クリームはついてないけど、卵が一杯入って、うまかった。牛乳も入ってたのに凄くうまかった……熱で味なんて解らなかった筈なのに、母さんの作るものは最後まで全部うまかったな」
「そうだ……ったね」
 アルは俯いた。卵酒は失敗したけれど、残った卵で母は約束通りカスタードプディングを作ってくれた。優しい素朴な味だった。世の中においしいお菓子は一杯あるが、二人にとって一番おいしいお菓子は母の手作りだった。
「ごめん、ね」
 エドは顔を上げた。
「何で、お前が謝るんだよ」
「……だって、思い出させちゃった」
「バカ。忘れたらいけないだろ? 母さんの事は」
「……うん」
 エドはアルの頭をこづいた。アルは肩をすくめて笑う。
「それより、もう一個もらっていい?」
「え、夕飯食べられなくなるよ?」
「だってさ、お前も食べたいだろ、プリン?」
「それはそうだけど……あっ!」
 アルは言葉に詰まった。エドの吐息が血印にかかると、吐息は水滴となり、アルはそれに含まれる味を感じる事が出来る。それはバレンタインの時に実践済みだ。たっぷり食べる程、味は濃厚になる。
「んー、食べたい」
「じゃ、くれよ」
 エドはたちまちプリンをもう一個たいらげると、ベルトを外し、下着ごとズボンを脱いで椅子に放る。壁に凭れ、両足を開いてアルを待ち受けた。
 アルは溜息をつく。
「もー、夕食もまだだっていうのに、兄さんたら」
「いいじゃん」
 エドは笑いながら、アルを抱きしめた。クン…と下半身に与えられる刺激に目を細め、熱い吐息を漏らしながら呟く。
「今は…お菓子の時間」

エンド


母の日記念。
ごめんなさい、母さん。僕達、悪い子です。
バレンタイン★キスの続編みたいなの。

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