ただ一人のための聖堂

 

 鎧になって十日経った。
 エドワードは意識が戻ったものの、夏だった事もあり、傷が化膿して微熱が続いている。大量 の出血と一緒にあれほど輝いていた気力も一緒に流してしまったらしく、目には未だに生気が戻らない。
 最初の三日間位は悪夢に魘され続けた上、目が覚めた時、アルがいないとパニックに陥る為、アルは昼夜徹して側につきっきりだった。
「多分、強迫観念による発作だろうね」
 ピナコは難しい顔をしていた。兄は普段強くしぶとく怖いもの知らずに振る舞っているが、錬成の失敗は彼の存在理由を根底から覆した。母や弟への罪悪感、禁忌の重さ、手足を失い、道も断たれ、アルですら手を伸ばせないどん底に兄はいた。
 心を癒す為の眠りすら、際限のない悪夢に脅かされて、兄の神経はボロボロになっている。一時期はアルに抱き締められていないと、眠る事もできない有様だった。

「大丈夫かい、アル? ちゃんと少しは寝てるの? このままじゃ、あんたが先に参っちゃうよ」
「平気だよ、ばっちゃん。寝てる時はちゃんと寝てるから」

 アルは笑った。隈の出来ない鎧の身体をありがたいと思った。
 眠くはなかった。恐らく、緊張して気が張っているから、眠くならないのだろうと思っていた。感覚の欠如の方が重大問題だったし、兄の事で頭が一杯になっていた。
 だが、兄の様態が幾らか安定し、三日目も過ぎたあたりから、ふと何かおかしいと感じた。
 朝も昼も気分が変わらない。皮膚も内臓もないのに、手足が痒くなったり、御飯時になるとお腹がすいたような気がしたりする。『幻視痛という奴だよ』とピナコが教えてくれた。
 肉体を失っても、心は体の記憶を忘れないものらしい。
 だから、深夜になると、そろそろ寝ないと、と思ったりはする。だが、床に横になっても眠りは訪れない。昔、あんなに彼を安らぎに誘ったベッドも今は全く魅力を感じなかった。閉じる瞼もないのだから、視界は暗くならず、結局意識が冴え冴えとしたままで朝を迎える。
(僕は眠らないで平気なんだ!)
 最初は喜んだ。兄の看病は昼夜徹してだったし、ピナコ達も忙しい体だ。アルは錬金術師として、多少の医学の知識もあり、ピナコの指導もあって、兄の看護なら何とか一人でこなせるようになっていた。
 それに今まで勉強の最大の敵は睡魔だった。これから存分に勉強に励める。自分の未熟のせいで、体を失い、兄は手足を喪う羽目になったのだ。だからこそ、エドに負担を掛けた分を取り戻したかった。
 しかし――――。
 村中が寝ている時間にポツンと取り残される時間が増えた時、夜の静寂さが痛い程迫ってくる時、初めてその恐ろしさに気付いた。
 自分はずっとこのままなのだろうか。目を見開いて、世界が息を潜めているのを感じ続けていないといけないのだろうか。時計の音だけが静まり返った部屋に冷たく響いている。じっと座っていると、アルは置物と変わらない。アルが呼吸や鼓動を失った事を一番痛感するのは夜だった。昼は何やかやと忙しく忘れていられるのに、自分の体はもう生命活動から遠ざかってしまった事を突きつけられる。
 静けさが否応なく、あの恐ろしかった夜を思い出させる。血だらけの兄を抱えて走った事。母の埋葬。それに見えない将来への不安が追い打ちを駆ける。鎧になってしまった自分にもうまともな人間の生活など送れないという事実に。
 規則正しい針の音だけが部屋を支配していた。まるでしんしんと雪が自分の上に降り積もるように。
 虫が鳴いている。
 野犬が遠吠えし、夜鳥が飛んでいく。
 うさぎが草をはむ音がする。
 だから、自分は一人ではない。世界は動いてる。次の朝への準備の為、待機しているだけだ。この星の反対側では今が真昼じゃないか。
 そう毎夜、自分に言い聞かせてはみるのだが、心許なさは変わらない。
(今夜もまた夜が来る)
 だから、一端思考を中断して、何もかも忘れて眠ってしまいたかった。
 でも、そんな事もできはしない。
 何となく助けを求めるように兄を見た。
 兄は久しぶりに安らかに眠っている。様態が安定した証拠だ。ここ数日の兄の状態からすると、肉体的には回復に向かっている。子供は傷の治りが早い。義肢をつける為の手術も数週間のうちに出来るようになるだろう。
 それは喜ばしい事だったし、せっかく訪れた兄の眠りを妨げる事は出来ない。
 だが、今、アルは淋しかった。兄が安定して、心に余裕が出来たからこそ、初めて自分がどんなに心細くてツライか気付いた。
 明らかにエドの方が危篤状態だった。様態も安定しなかった。傷の痛みや高熱や悪夢に魘され続け、目を離す暇もなかった。
 その点、アルは何もなかった。緊急に治療せねばならぬ傷もなければ、譫言も言わず、激痛をこらえる肉体もない。日頃、アルの方が落ち着いていて、しかも見た目が大きくなったから、アルの『僕は大丈夫だよ』という言葉にみんなが流された。エドの状態がそれほど急を要した事もあるが、アルの体が激変した事も、だが中身はやっぱり10歳の子供でしかない事も片隅に追いやられた。
  だから、誰も、アル自身すら傷は体だけでなく、心にも及んだ事を考えなかった。母の錬成の結果 がショックだったのは、エドだけではなかった事を。
 アルはエドの寝顔を見つめた。淋しかった。兄だけが寝ているという事が、突き放されたように淋しかった。
 小さい頃、雷や嵐や、深夜、押し寄せてくるどうしようもない切なさに襲われた時、怖いとか淋しいとか訴えて、何度か兄を起こした事がある。その時、エドは寝ぼけ眼をうっすら開けて、何も言わないでアルを自分の毛布に引きずり込み、ぎゅっと1度だけ抱き締めて、また勝手にすやすや寝入ってしまう。
『何か一言くらい言ってくれたらいいのに』
 いつもちょっと物足りなかった。頭を撫でてくれたらいいのにとか、眠くなるまでつき合ってくれたらいいのにと思いながらも、次第に兄の安らかな寝息とぬ くもりに慰められて、アルもいつの間にか眠っているのだった。
(兄さんの腕の中なら、世界で何が起こったって、怖い事や悲しい事なんて一つもない)
 朧な母の記憶以上に、アルの体には幼児の頃から、そう染みついている。
 今のアルは、その時怯えていた子供より、遙かにずっと途方に暮れていた。
『兄さん、僕、眠くないんだよ』
 そう言って兄を揺すぶりたかった。濃いコーヒーを飲んだのでも、昼寝をし過ぎたのでもない。不眠症でも、気を張り詰めすぎた神経症でもない。倦怠感も頭がぼーっとする事もない。
『僕、眠れないんだ』
 眠る事が出来ないんだ。一瞬も、一瞬たりと。
 目を閉じる事も、ぼんやりする事も、無になる事も出来ない。夢を見る事も、苦痛から逃避する事も、意識が海の底から浮上するような、覚醒時のざわめきを聞く事もできない。
 ぼんやりしているように見えても、鎧の奥底で思考は続いている。
 鎧の中に入ってくる音、反響する木霊、重なり合う残響、そして、また新しい音と画像。
 そんなものに魂を擦られて、撫でられて、叩かれて、それでも、意識は継続している。  中断も遮断もない。
 甘い憩いもない。
『兄さん、僕、眠りたいよ』
 一緒に眠りたい。こんな体になってしまったけど、固いけど、冷たいけど、でかいけど、兄さんの腕の中で寝息を聞いて、また安心して目を瞑ってみたい。兄さんの心臓の音を聞いていたい。
 物足りなくたっていい。心から安心して、兄さんの優しいぬくもりを感じたい。
 あの『ぎゅっと』をもう一度してほしい。
 今。
 たった今。
 でも、駄目だ。眠れないのが、こんなに不自由だとは思わなかった。魂は千里を駆けるというが、実際は同じ場所で立ち尽くすばかりだ。
「兄さん…」
 怖かった。恐ろしくて、辛くて、ほんの少しだけでも慰めが欲しくて、エドの指に触れた。

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