「少し待て」


 昨夜、兄さんとケンカした。


 理由はいつも特にない。いつも通り、つまんないケンカだったと思う。
 ただ、昨夜は大晦日で新年間近で、ケンカするまではそれなりに楽しく盛り上がってただけに、とても辛かった。
 こういう時、兄さんはさっさとフテ寝を決め込んでしまうし、僕は外へ出ていくのだけど、生憎、相当強い雨が降っていて、とても出られそうにない。
 僕は雨自体は平気なのだけど、血印の裏を雨が叩いている感じや湿気が嫌いだ。それを兄さんは知ってか知らずか、雨の日に僕が外へ出ていくのをひどく嫌がる。人間は雨の日は家にいるもんだという。特にこんな雨の夜は。
 普通だったら、僕もそうだねと頷くんだけど、その晩はさすがに僕も機嫌が悪かったんで、つい言い返してしまった。
「何だよ。昔、リゼンブールで釣りに行く時は、いつも雨降りだったじゃない! 何で今行けないのさ!」



 夏の朝、僕らは雨になると、古い麦わら帽子をかぶり、庭でミミズを掘って、川に出かけた。魚釣りは雨の日の方がよく釣れるんだ。もちろん荷物は釣り竿だけ。傘なんかささない。
 パラパラ雨が帽子を叩き、踏むたびにいい匂いのするクローバーやタイムの生えた丘を越えて、草むらを掻き分け、そっと川に近寄った。その頃には身体がポッポと熱くなって、雨の冷たさなんかどうでもよくなってしまう。
 僕らのお気に入りは古い楡の木の下。川がちょっと曲がっていて、いいポイントなんだ。釣り糸を川に落とすと、たちまち魚がかかる。銀色のうろこがキラッと光って、僕らはお互い歓声を上げるのを必死で飲み込む。だって、魚が逃げちゃうからね。
 生きのいい綺麗なブチ模様の鱒が何匹も釣れると、僕らはそれを棒に突き刺し、二人でかついでウィンリィの家まで歌を唄いながら行進する。
 ばっちゃんは驚いたり、呆れたりしながら、鱒をバター焼きやムニエルにして御馳走してくれた。
 昔、当たり前だった僕らの夏の一コマ。



 兄さんはフテ寝を中断して僕を睨んだ。
「何で今頃、釣りの話なんかすんだよ! 冬だぞ、今! 第一、ここは海辺の街だぞ? お前、海釣りなんてした事ないだろうが! 頭おかしいんじゃないか、アル!?」
「おかしくないよ! 僕は雨なんか平気だよ! いくら濡れたって僕は何にも感じないもの! 兄さんがびっくりする位 、でっかい魚を捕ってきてやるから!」
「何言ってんだよ、バカアル! 風邪引くだろうが!」
「僕はもう風邪なんか引かないもの!」
「俺が引くんだよ!バカ!」
「何で兄さんが引くのさ!」
「俺がお前だけ釣りに行かせる訳ないだろーが、バカ!」
「……………!!」
 僕はさすがに黙った。気まずくお互い見つめ合う。兄さんは必死に持て余した感情を散らそうと毛布をいじっているし、僕も行き所がなくなって、立ち尽くす。
「とにかくな……今夜はここにいろ、アル」
「……………」
 兄さんはようやく声を絞り出した。兄さんみたいに感情を爆発させずにおかない人間が、気持ちを抑えて、紛らわすっていうのがどれだけ難しいか僕は知ってる。でも、やっぱり僕は返事しなかった。
 兄さんが好きだけど、大好きだけど、僕だって、時々自分の感情をコントロールできない事はあるんだ。
(そんなにバカバカ言う事ないじゃないか、バカ兄)
 機嫌が悪い時はそんな些末な事に拘ってしまう。鎧だって事に卑屈になった事もきっと兄さんは怒ってるんだろうなって思うと、それもモヤモヤした感情を掻き回した。
 わざわざ僕に背を向けて寝てるのも癪に障る。
 僕は部屋から出て、玄関側の窓際に座った。本を広げても気分は晴れない。
 時間が経つにつれて、頭も醒めてきて、何でさっきは素直になれなかったのか、そっちの方が気になってくる。ケンカの原因の大半はやっぱり兄さんの方にあったんだけど、今はもうケンカなんかどうでもいい。兄さんとの最後のシーンばかり思い出してしまう。
 今は冬だ。こんな寒い夜に夜釣りなんて何て馬鹿な事を言ったのか。よっぽど腹が立ってたんだろう。怒った兄さんは無茶苦茶だけど、頭にきた僕も支離滅裂な発想に振り回されたり、昔の事を蒸し返して混乱したりする。兄さんの方が大抵先に怒るから、軍部の人達は余り気付いてないようだけど。
(悪い事を言った。ひどい事を…)
 僕は項垂れた。兄さんが譲歩した時、謝ればよかった。先に謝ってしまえば、今、こんな気持ちにならないで済んだのに。こんな気持ちで新年を迎えずに済んだのに。
 雨だっていうのに、街の何処かで浮かれ騒ぎが始まっている。シャンパンの栓の開く音がする。歓声が聞こえる。
 イヤな新年の幕開けだ。
 二人きりでなくて、師匠の家かリゼンブールに戻れば、こんな夜にはならなかったろうに。
(今年もやっぱりダメなのかなぁ)
 ついそんな事も思った。
 二人して、こんな事じゃとても元の身体に戻れそうにない。
(元の身体だったら、もっと仲直りは早かったかなぁ)
 そっと近寄って、キスして、触って、撫でて、もっと素直にごめんねと言えたろうか。
 キスして、何度でもキスして、兄さんが許してくれるまで続ける事も出来ただろうか。
 この身体じゃ、ぬくもりがないから、そんなコトできなくて朝まで待ってないといけない。そんな惨めな気持ちにならなくて済んだだろうか。
 鎧の身体でも兄さんは抱けるけど、でも、やっぱりこんな時の僕らは遠いままだ。
「……………バカ」
 僕はやるせなく呟いた。




「アル、行くぞ」
 まだ夜が明けてないのに、兄さんの部屋の扉が開いた。僕は驚く。
「え、え? 何処へ?」
 咄嗟の事に僕は混乱して、謝る事も忘れていた。あんなに謝ろうとそれだけ考えて、復唱ばかりしていたのに。
「いいから行こう」
 兄さんはコートのフードをかぶると、空を見上げた。おお、寒みィと呟いてる。
 まだ雨は上がってなくて、小降りにはなりかけていたけど、外は真っ暗だった。雨音以外、世界は沈黙を続けている。幾らか騒がしかった街も今はもう静まり返ってる。
 兄さんは僕を待たずに、トットットと木の階段を駆け下りた。僕も慌ててバンガローから飛び出して兄さんを追う。
「兄さん、あのね…」
 ただ謝りたくて、僕は必死に言葉を紡いだ。
「……………」
 兄さんは急ぎ足だ。僕の謝罪なんか聞きたくないんだろうか。
「僕、ゴメン。本当にゴメン」
「……………」
 兄さんは空を気にしてる。僕らは駆け足で明け方の街を走り抜けた。足元が暗いし、滑りやすいながらも何とか石畳を走る。
「何で謝るんだよ、アル」
 兄さんの声はやっぱり不機嫌だ。僕の気持ちは沈む。
「お前が謝る事ぁねぇよ」
「でもさ」
 僕らはようやく波止場に出た。桟橋が海に延びている。本気で海釣りでもするつもりかなと僕は案じたが、兄さんは真っ暗な海を睨んだままだ。
「やっぱりね、僕、謝っておきたいんだ」
「つまんねぇケンカだ、あんなん」
 兄さんは首を振った。
「悪いんなら、俺の方が倍悪い。お前の所に行けばよかった。ごめんて抱きついちまえばよかった。何度も夜中中寝返りばっか打って、でも、行けなかった。適当にケンカを中断して、お前に謝り損ねて、お前がずっと怒ってるだろうって」
「適当だなんて、そんな…」
 僕は当惑して兄の背中を見つめた。兄さんがあの時、中断しなかったらもっと気持ちは拗れていたかも知れない。もっとお互いひどい言葉を投げかけ合ったかも知れないのに。
「僕の方が悪いよ。僕は、僕はこんなだから、鎧だからって、それに逃げ込んでて…、素直になれなくて、ただ言葉でしか謝れないって思いこんでて、だから、だからどうしてもドアを開けられなくて…」
 僕は兄さんに振り返って欲しかった。
 だって、だって僕の方が悪いのに、僕の方が抱きついて謝りたかったのに、どうして。


 どうしてお互いうまく謝れないのかな。
 どうして、僕らは子供じゃなくなってきてるのかな。
 何かに塞がって、壁一枚隔ててしまってるのかな。


 兄さんも僕もそれきり言葉をなくして、雨の海を見つめていた。
 海は静かで凪いでいた。雨音も海が吸い込んで殆ど何も聞こえない。チャプチャプと桟橋を洗う音がするだけだ。
 それでも夜の雲に少しづつ銀色の雨がよぎるのが見え始めた。黒い雲が海から生まれ出すように空一杯にせり上がっている。




 沈黙の黒い朝。
 鎧の僕も世界も何もかも灰黒色に塗り潰されている。新年なのに、世界は目覚めた筈なのに何もかも闇に沈んでる。
 だけど、兄さんの真っ赤なコートと金髪だけがくっきり浮かび上がっていた。黒と灰色しかない世界の中でそれだけが、兄だけが『生きて』いるようだ。
 それだけでも、僕らは隔たっている気がした。
 生と死に、僕が日頃考えまいとしてる事実に、僕が人間、いや生命体なのかどうか、この世界に属していていいものかを。
(違う!)
 僕は首を振った。僕は生きてる。僕は兄さんに恋してる。この世界に生きる喜びを知っている。それだけでいい。いつだってそれだけでよかった。
 だって、僕が生命体でないならば、何で死を恐れる? 兄といられなくなる事が世界で一番怖い事なのだ?
「兄さ…」
 僕は思わず足を踏み出した。安らぎが欲しかった。兄さんに触れたという感覚がなくても、ただ兄さんと手を繋ぎたかった。
「少し、待て」
 兄さんは低く呟いた。空を見つめてる。何か一心に、祈るように。
 僕は構わず手を伸ばした。僕はもう隔たりを打ち壊したかった。何でもいいから行動したかった。




「ああ…………」
 兄さんの顔が明るくなった。




 いや、そうじゃない。表情だけじゃない。
 兄さんが輝いてる。金髪も白い肌も。金色の瞳も深紅のコートも。
 兄さんだけじゃない。僕もだ。僕の鎧も銀色に輝いてる。海も輝いてる。細い雨粒も。港も街も空も一つ残らず輝いてる。





 真っ黒な雲の切れ間から、光が射し込んでくる。一つ。二つ。五つ。七つ。次々とこじ開けて、うち砕いて、光の束が世界に降り注ぐ。
 海に、街に、世界に、僕らに、太陽が今年最初の挨拶をする。世界が始まっていく。
 新しい世界が。





「雨、上がってよかったなぁ」
 兄さんは少し眠そうに呟いた。兄さんから世界が始まったように見えたのに、兄さんは事も無げに笑って、目を少し眩しそうに細めただけだ。
「そうだね」
 僕もありきたりな返事をした。何か今、凄いものを見たような、感じたような気がするのに、通 り過ぎると何だかどんな言葉で飾っても、その瞬間を汚すだけのように思えた。
「ああ、眠ぅ〜。帰ろっか、アル」
 兄さんは大きなあくびをする。いつもの兄さんだ。僕は笑った。夜のわだかまりも謝罪も苦さもみんな消えてしまっていた。今年最初の光がみんな押し流していってしまった。まるで浄化作用だ。
 兄さんはそれを知ってるから僕をここに誘ったのかな。解らない。兄さん自身もよく解ってないかも知れない。兄さんの思いつきは説明できない事が多いのだ。ただ初日の出が見たかったからと胡乱な答が返ってくるだけだろう。何となくそんな気がする。
 僕の兄さんにかなわない所はそういう所だ。
「あ、その前にさ」
 兄さんは僕に手を差し出した。
「こんな兄貴だけど、今年もよろしく」
 僕はその手を握り返した。きっと夜明けの空気に晒されて冷え切ってるんだろうけど、僕はその手をとても温かいように思えた。感覚がないからこそ、そう思う。
「僕こそ、ふつつかな弟ですがよろしく」
 兄さんは笑った。手を繋いだままバンガローへの帰路を辿り始める。
「兄さん、あのね」
 僕は囁いた。
「戻ったら、昨夜やり損ねた事をしたいんだけど」
 兄さんは僕をチラリと見上げ、俯いたまま赤くなった。
「……眠い。一寝入りさせろ」
「うん」
 僕は頷いた。いつもの壁の薄い安宿を取らず、一軒家のバンガローなんか借りたのは、新年くらい存分に兄さんの上げる声が聞きたかったから。
 上げさせてやりたかったから。
 そもそも、ケンカの発端はそれをどちらが先に言い出した事、だったりなんかするんだけど。


 でも、今度は壁一枚隔てられても、ニコニコ待ってられるよ、兄さん。

エンド

 新年記念でした。やっぱり年越しはこの二人で。

アルエドお題へ

 

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