「誕生日だからな」

 

 リゼンブールは自然に恵まれている。
 野山に行くと、春は野イチゴ、初夏はラズベリー、グミ、木イチゴ、秋は野ブドウ、プラム、冬はひめこうじが南の斜面 に生える。母さんは手作りのお菓子を用意してくれるけど、遊びの合間にそんな甘いものを摘んで食べるのもおいしかった。農家総出で収穫する林檎やブルーベリーとは違う、取るに足らないけど、捨てがたい甘さだった。
 それらは大抵草むらの影にひっそり生えていて、量も限られてるから、見つけた者勝ちだった。ボクと兄さんとウィンリィ。喋りながら、赤い宝石みたいに綺麗な草の実を摘んで、ぽいっと口に放り込む。誰にも打ち明けず、こっそり食べる。酸っぱいけど、甘い実が舌を刺す。獣道を吹き抜ける風は草の上を走ってくるので、いつも涼しい。しつこい藪蚊から逃れて、苔だらけの灰色の岩に座り、色んな、今となっては思い出せないような話を一杯した。
 母さんが死んでからは、ウィンリィと遊ぶ時間が少し減った。僕達が錬金術に没頭したせいもあったけど、ウィンリィも学校に上がって、女子の友人が一杯できた。両親が亡くなってから、義肢に興味が出て、ピナコばっちゃんの手伝いの時間が増えたせいもあったかな。
 疎遠になった訳ではないけど、僕達にはそれぞれにお互いの時間が出来始めていた。僕達が今に至る道が既にその時からあったんだ。
 だけど、僕らはまだまだ子供で、錬金術の勉強に疲れたり、行き詰まったりすると、野山を走った。そこだけは昔の僕らの過ごした時間が残っていた。母さんが家で待ってる頃の無邪気な日々があった。
 木イチゴも花の蕾の蜜も、苦くて甘い昔のままの味だった。
 でも、その頃には僕らはキスの味も覚えてた。下らない、意味のない、無邪気な会話は変わらなかったけれど、その合間に何度もキスをした。罪悪感もなく、いつもの会話のようにキスをした。
 唇が触れるだけのキス。恋人前のキス。
 それでも、ウィンリィの前では見せなかったのは、やっぱり少しは秘め事の気配を感じていたのかな。
 お互いの口の中には、その直前に食べた草の実の味が残っていて、キスの後「あ、木イチゴ食べたな!」「兄さん、ずるいよ」と小さなケンカもした。ケンカして、またキスした。兄さんから、僕から、一杯し合った。草むらの中で、木陰で、僕らを咎める人間は何処にもいなかった。
 頭の上でヒグラシや小鳥が鳴いていた。
 ただ、一回に唇を重ねる時間が徐々に長くなっているのは、お互い薄々感じていた。Tシャツが伸びるほど引っ張り合い、唇だけでなく、肩や背中に手を回し始めてる事実を、僕らは見て見ぬ 振りをしていた。
 そんな事をしていても、尚、僕らはまだ子供だった。
 ラズベリーや木イチゴはいつだって秘密の味がした。

 

 

「あれ、何買ってきたの?」
 僕は軍部から戻ってきた兄さんを振り返った。借りてきた本の束はいつも通りだが、片手には新聞紙でくるんだ包みがある。兄さんは大食漢で食いしん坊のくせに、食生活に無頓着だから、市場で食べ物を買い込むのは大抵僕の役目だ。
「うん、軍部からこの宿まで市場を抜けるのが近道だろ? で、市場を通りかかったら、これ売ってたから。つい、目が止まって」
 兄さんは包みを開けた。
「わー」
 僕は驚いた。ラズベリーだ。真っ赤な透き通った宝石のような実が懐かしい。栽培種なのか、僕らが野山で食べたのよりずっと粒が大きいし、色も濃かった。それにこんな大量 に見たのは初めてだ。
「へー、懐かしいねぇ。ラズベリーかぁ。凄く久しぶりに見るね。西部じゃ田園が少ないから」
 この国は急速に変わりつつある。静かだった田園が工業地帯化し、列車が走り、電話が普及し、交通 も馬車や船が精々だった一昔前までとは信じられない程便利になった。産業や先端技術は皮肉にも軍事が盛んな国が一番急速に発達するのだ。人の命を奪う技術のおこぼれが、人の生活を豊かにする。
 だけど、そこにも等価交換の原則は生きている。生活の豊かさと、精神の豊かさは何故か反比例するのだ。都市圏より田舎の人々の方が楽しげに屈託なく笑う。蛍光灯より、ランプの灯の方が暖かい。
 それでも、人々は元の生活には戻れない。僕らの旅も急ぎだから、機関車に頼りっぱなしだ。兄さんの機械鎧も軍部の技術研究の人体工学の一環だし、馬車の旅は今更かったるくてと、せっかちな兄さんは時々こぼしてる。乗り合い馬車に暖房はないし、狭いから、コートを着てても寒くて縮み上がるわ、関節がこわばるわで大変なんだって。
 だから、市場の食料品も東部の田園地帯に比べると、若干高いし、鮮度も落ちる。ラズベリーだけじゃない。木イチゴなんかが珍しいなんて感覚、西部に来て初めて知った。イチゴ狩りという言葉も初めて聞いた。イチゴを摘むのにお金がいるなんて!
 だから、生のラズベリーも市場に出回るなんて、本当に滅多にないんだ。
 僕はちょっと味を思い出そうとした。酸っぱくて甘い味。でも、酸っぱすぎるのでちょっと摘めば充分だった。生の時は、ヨーグルトやケーキに一粒添える。むしろお菓子用の甘酸っぱいクリームか、ジャムにするのがやっぱり一番おいしい食べ方だと思う。
 第一、兄さんはラズベリーは甘いというより酸っぱいし、種が大きくて、歯に挟まるからそんなに好きじゃなかったと思うけど。
「俺もそう思ってさ。何かラズベリーを『買う』なんて変な感じだったよ」
「でも、一度にこんなに食べられないでしょ? ジャムにするには量が足りないし」
「食べるに決まってるだろ?」
 兄さんは赤いラズベリーを口に放り込んだ。酸っぱいのか顔を顰める。
「ほら、やっぱり。ヨーグルト買ってきて、ハチミツ入れようか?それなら、ラズベリーも食べやすくなるよ? 余った分は宿のおかみさんにあげようか。シャーベットにして、夕食に出してもらおうよ」
 僕は苦笑した。牛乳嫌いはどうしようもないから、他の乳製品で何とかする事にしてる。ヨーグルトって、兄さんが出すミルクに似てるから、兄さんが口から垂らすの見てたら、魂が焼けて困っちゃうんだけどね。
「いや、それじゃ意味ないからさ」
 兄さんはまたラズベリーを一杯、口にして、酸っぱそうな顔をする。無理しなくっていいのに。僕は首を捻った。
「何で意味ないの? ヨーグルトも嫌い?」
「そうじゃないんだ」
 兄さんは僕を見た。
「今日はお前の誕生日だろ? だから、せめてさ」
「え?…ああ、そうだっけ」
 僕は肩をすくめた。今日も明日も去年も今年も、鏡の中の僕は変わらない。背が高くなる事も、体重が増える事も、すね毛やヒゲも生えたりしない。僕の錬金術や体術は進歩してるし、知識も深まっている。精神的に、なら僕は成長してる。
 でも、僕の外見は変わらない。僕はここに張り付いているだけの存在に過ぎない。
 あちら側の僕はどうしているんだろう。少しは大きくなってるのかな。それとも、そのままなのかな。大体、奪った肉体を真理はどうしてるんだろう。僕の肉体に成り代わって、あちら側にポツンと門番みたいに存在して、それに何か意味があるのかな。どちらもただ存在してるだけって点では大差ないのに。
 淋しくないのかな。僕には兄さんがいるけど、あいつは誰かが来ないと独りぼっちだ。僕の身体も向こうで独りぼっちだ。僕の身体は世界に触れる事も出来ないし、おめでとうとも言ってもらえない。僕の心は一杯世界の声を聞けるし、見ることも出来るけど、僕の身体は淋しいまんま。
 それとも、あいつには時間なんて関係ないのかな。
 眠らなくなった僕の体内時計があの日で止まってしまったように。
 だから、僕は誕生日の事を余り考えてなかった。意識してない訳じゃないけど、僕が年を重ねる事は祝うような事なんだろうか。精神的に成長しても、声変わりをちっともしない僕の声は、僕が二十歳を越えた時もこのままなんだろうか。
 兄さんに置いていかれてしまうだけなんだろうか。
「何だよ、忘れてたのか?」
「え?……い、いや、そうじゃないんだけど。このところ忙しかったからさ」
 兄さんの怒ったような声に僕は慌てた。僕はいつだって兄さんの誕生日を一杯祝ってる。この人が僕の全世界。僕の存在理由。僕の世界で一番好きな人。
 兄さんにとって、僕もそういう存在だ。世界で二人きり。だから、兄さんは僕が自分をなおざりにするのを許さない。僕が偏見の目で見られるのも怒るけど、僕がそれに諦めたり、卑屈になるのも嫌う。兄さんは誇り高い。その兄さんが
『お前は俺の自慢の弟だ』
  と、真顔で言う。真剣に言う。だから、怒っていいんだって。僕は胸張ってればいいって。
 全身機械鎧なんて、ほぼ軍人や傭兵しかいない。兄さんでも機械鎧はしんどいのに、子供で全身機械鎧なんてまずあり得ないんだ。初対面 なら、誰だって大男は怖いし、僕を軍人崩れと思うだろう。世間が僕と少し距離を置くのはそれもあるんだけど、兄さんは聞く耳持たない。
『声で解るだろうが! お前みたいにかわいい声の軍人がいるか!』
 そう言われると、僕は苦笑するしかない。勝てないよね、兄さんには。本当はそう言ってくれるのも凄く嬉しいんだ。
「そうだな。どーも、毎日バタバタしてるもんな。本当はここらでじっくり腰を据えて、今までの研究資料を総括してみたいんだけどよ。軍の仕事も途中で入るし、妙な事件に巻き込まれたりするし、落ち着いていられた試しないもんなぁ。
 だからさ、せめてお前の誕生日くらいゆっくり祝ってやりたかったんだけど、ごめんな」
 兄さんはラズベリーの種をプッと吐き出しながら、溜息をついた。
「いいよ、そんなの。僕の誕生日に兄さんがいてくれるだけで。ちょっと特務と重なったらどうしようって怖かったんだ」
「そんなんさせるか!」
 兄さんは種を小鉢にプッと吐いた。
「お前の大事な日に誰がそんな仕事受けるか!大佐の野郎から電話が来たけど、切ってやった。うるせぇってんだよ。前から、この日だけは駄 目だって言ってんのにさ!」
「兄さん」
 僕は呆れる。
「けど、おかげで断れきれない調査とか押しつけられちまって、西部まで足を延ばす羽目になっちまった。最初からこっちを押しつける気だったんだ。くそ!ハメられちまった!
  ごめんな、アル。今年こそはリゼンブールでお前の誕生日祝おうって思ってたのに。どうしても日程のやりくりがつかなくて…ウィンリィやばっちゃんにも、お前の事祝ってもらいたかったのに、こんな西部にお前を連れてきちまって、ごめん!」
「え?」
 僕は驚いた。兄さんはいつも僕の誕生日近辺はバタバタ仕事してる。で、息せき切って、何だかいつもすまなそうに僕の誕生日を祝ってくれてたけど、そんな事を考えていたのか。
「そんな、謝らないでよ。ウィンリィ達にはいつでも会えるもん。ラッシュバレーで修行中なのに、僕の誕生日だからって無理に里帰りしてもらうのも大変じゃない。それに誕生日は兄さんとだけが僕はいいよ」
「だけどな、俺ばっかりヒューズ中佐に祝ってもらってさ、お前だって…」
「いいよ。僕もみんなに祝ってもらったら、それは本当に嬉しいんだけど、御馳走が無駄 になっちゃうよ……ううん、ツライとか悔しいとか思わないでよ、兄さん。僕は生身に戻ったら、一杯食べる気満々だからさ。
 でもね、ちょっと違うんだ。僕は兄さんに祝ってもらうのが、一番嬉しいんだ。僕がここにいていいって、改めてそう思いたいんだ。そりゃ、いつも二人一緒だけど、だけど、今年も兄さんが僕の誕生日に側にいてくれてよかった。
 だってさ、やっぱり出来ないもん。僕の一番欲しいプレゼントをみんなの前で開けるなんて」
 兄さんはちょっと僕を睨んだ。複雑な顔をする。悲しそうな、嬉しそうな、切なそうな顔。そして、真っ赤になって俯いた。
  兄さんは自分じゃ平気で「しよう」とか「もっと欲しい」とかストレートに言ってのけるけど、人から言われるのは全く駄 目なんだよね。変なの。
 僕達は禁忌を犯すのを何とも思っていない。誰かに聞かれても、もう隠す気もない。僕達は兄弟で愛し合っている。人体錬成など犯す前から僕達はとっくに禁忌に触れていた。それを禁忌だとも思ってなかった。
 かといって、あえて触れて回る気もないんだ。
 そういうもんだろう、人の寝室事情なんて。
「………お前ってさぁ。恥ずかしい事をさらっと言うよなぁ、全く。俺は時々、どんな顔したらいいか参っちまうよ。前はそんなんじゃなかったと思うけど」
 兄さんは耳まで赤い。僕は笑った。
「かもね。だって、僕、表情がないから、口で言わないと他人に通じないんだ。だから、その癖がついたんだと思うよ。兄さんやウィンリィ達は解ってくれるけどね。
 でもね、やっぱり人間て、言葉のコミュニケーションで成り立っている生き物だと思うんだ。表情で察してもらおうなんて、甘いよ。言わないと通 じない。兄さんだって、軍部での発言ははっきりし過ぎて僕の方が動揺しちゃうもの。違うかな?」
「違わない。けどさ、それもちょっと淋しいな」
「淋しいね」
 僕は俯く。兄さんは僕の頭をゴンと軽く殴って、笑った。
「でも、俺はお前と兄弟でよかったよ。他のどんな奴よりお前が弟でよかったぞ? 」
「僕もよかったさ。生まれた時から僕にはもう兄さんがいたんだもん」
「俺なんて、生まれて一年間一人だったんだぜ? 年子でよかったなぁ。もし、年が離れててさ、お前がいない毎日なんて耐えられたかな?」
「案外、うるさい、ちっこいのが現れたと思ったんじゃない?母さんを独占できなくなってさ」
「さぁ、どーかな。もう、解らないよ。
  おかしいか? 俺はきっと多分母さんよりお前の方が好きなんだ。母さんの事は諦められても、お前がいなくなるのは耐えられない。あんなに母さんを蘇らせようとしたのに、あの時はお前の事だけで後は吹っ飛んじまった。母さんの魂だって錬成できた筈なのに。
 俺は親不孝かな、アル」
「兄さん」
 僕は兄の言葉を遮った。あの時の事を思い出せば、悔恨ばかりだ。あの錬成に失敗して崩れた肉体を思えば、兄が母より自分を優先したのは当然だろう。あんな目にあわせた上、自分と同じ境遇にするのか?感覚のない身体に?
 だけど、それをはっきり口にはできない。僕は兄さんの思考を止める。何も考えられない時間を作る。それだけしか出来ない。今はもう。
 僕は兄さんにおいでと促す。兄さんは頷く。
 兄さんは最後のラズベリーを食べきると、僕の膝の上にトンと乗った。僕は兄さんの髪ひもをそっと解く。
「でも、本当だよ。僕は兄さん以外、他に欲しいものってないんだ」
 他にない。それは何を望んでも得られないから。兄さんだけが与えてくれるから。僕が欲しいものは兄さんだけ。
 他に欲しいものが減っていく。段々減っていく。僕は閉ざされていく。僕は世界から締め出されている。でも、それは兄さんだけには言えない。この愛しい人にだけは教えない。
「そう…言うん……だよな、お前は。いっつも。……もっ…とわがまま言ったって……いいんだぞ?……俺は…兄貴なんだ…か…らっ」
「結構、甘えてると思うけどな。こんな事させて、もらってるし」
「だけど……今年こ……そはお前を…リゼンブールに連れて……っ。あん……んんっ」
 兄さんの目が潤み始めた。急に抱きついて、喘ぎながら、僕の空気穴に吐息を送り込む。
(ラズベリー)
 僕の魂が、兄さんの吐息を通して、ラズベリーの味を感じる。僕の空洞が、兄さんの吐息で一杯になる。
(ラズベリー)
 僕は一瞬のうちにリゼンブールに引き戻される。あの風の通り道。緑の丘。照りつく夏の日。涼しい木陰。兄さんの汗の匂い。小川のせせらぎ。蝉の声。草いきれ。水しぶき。藪蚊。小さな喘ぎ声。
 触れ合うだけのキス。
 何度も重ねたキス。
 流されるのは簡単だった。
 深くなった口づけをお互い止めもしなかった。
 恋人のキス。
 一線を越えたキス。
 酸っぱいラズベリー。
 いつも、今でも僕らの秘め事の味。
 兄さんは僕をあの日々に連れていく。その吐息で。
 僕らが始めた日。
 兄弟でなくなった日。
 僕らが、今の僕らが生まれてしまった日に。


エンド


「二度と忘れないだろう」のちょっとその後くらい。
初夜を早く書きたいよ(;;)

アルエドお題へ

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット