「絶対ダメ!」

 

「わ!」
 肘に当たったコーヒーカップがひっくり返る。アルが慌てて立ち上がった。だが、間に合わずアルの飾り布がみるみる茶色に染まる。
「うわ、アル。ごめん!」
 俺は慌てて謝った。アルは手を振る。
「いいよ、洗面所で洗ってくるから」
「本当、悪ぃ。テーブル拭いとくから」
「うん」
 アルは雫が宿のじゅうたんを汚さないように気を付けながら、洗面所に消えた。エドはテーブルを片づけながら溜息をつく。街で見つけた本が面 白くて、つい議論に熱中してしまった。そうなると身振りが大きくなってしまうのは自分の悪い癖だ。コーヒーはとっくに醒めていたから、片づけてしまえばよかった。普通 はアルの方が先に気を回すのだが、議論に白熱すると周囲が二の次になるのはアルも同じだ。アルだってつい忘れる事だってある。
(アルに悪い事したな)
 水音がやんだ。エドは茶色に染まったタオルを洗う為、アルと交代しようと洗面 所に向かう。
「アル、もういいか?」
「うん」
 アルが出てくるのを待って、洗面所に入った。小さな宿だから、洗面所も小さい。アルは出入りすら大変だろうに、不思議にすっぽり入り込んでいる。
(全くこいつ、どんどん器用になっていくなぁ)
 エドは感心した。
『人間はさ、何でも馴れちゃうんだよね。確かに最初、鎧とか戸惑ったけど前みたいに凄く困るって事感じなくなってきたんだ』
 エドにしても機械鎧をつけた当初、接合部の苦痛とは別にその重さや感触に馴染めず、また無感覚ゆえに勝手が解らなくて戸惑う事が多かった。だが、今は色々不自由は感じるにせよ、自分の身体の一部として機械である事を忘れている時もある。
 感覚が全くなく、世界と切り離されたアルでも、鎧に定着した頃に比べれば、その動きは全く自然だ。見かけはどうあれ、この中がからっぽなんて誰も思わないだろう。鎧は大きいが、その動きは昔のアルの動きと変わらない。当惑した時、小首を傾げる癖。組み手の組立方。好きなものを扱う仕草。ちょっとした癖。やっぱりそこにアルがいるのを感じる。時折、兜を外したら本当にアルが顔を出すんじゃないかと思う程だ。
 エドはタオルを絞って、洗面所から出た。アルは窓際で飾り布を干している。大きな鎧が洗濯物を干している姿は奇妙にかわいい。
 でも、アルが鎧の身体に馴染み切ってしまっている姿はやはり悲しかった。
 だが
(……………?)
 同時に奇妙な違和感も覚える。何となく頭の中がもやもやした。
「よかった、兄さん。シャツ乾いたよ。全く長雨が続くとイヤになっちゃうよね」
 アルはシャツを片手にエドの脇を通り過ぎた。途端にエドの心臓が跳ね上がる。
(はぁ?! な、何で?)
 エドは混乱した。別に変なものを食べた訳でもない。大佐に出所不明の薬を飲まされた訳でも、奇妙な異臭を嗅いだのでもない。多少、眠くはあるが、それは深夜まで弟と仲がよすぎるからであって、それが原因とも思えない。
(何が原因なんだ?)
 一度浮かんだ疑問は究明しないと収まらないのが、錬金術師の性だ。
 自分を顧みて何もなければ、今度は周辺を探る。アルを見てからだから、多分原因は弟だろう。
(だけど、別にいつもと変わらないし)
 上から下まで眺め、自分がアルの腰に釘付けになっているのに気付いた。あるべきものがない。
「あっ!」
 思わず口を塞いだエドをアルは不思議そうに見つめた。
「どうしたの、兄さん。真っ赤になって」
「い、いや。何でもな……い」
(………………………重傷だ、俺)
 エドは恥ずかしさの余り、思わず目を閉じた。
 アルが飾り布をつけていない。
 エドは無意識にずーーっとアルの股間やお尻を目で追っていたのだ。といっても、鎧だから急所よけの蛇腹板があるだけで、特殊な構造になっている訳ではない。
 ないのだが。
(…………………)
 そらそう、そらそうとしているのに、目がどうしても、そっちに向いてしまう。
「あーーーーーっ!! もう何考えてんだ、俺はっ!?」
 エドは頭を掻きむしった。別に欲求不満ではない筈だが、何となく目線が外せないのは、結局、自分が元気な優良健康エロ盛りの15歳で、思春期まっただ中で、何でもかんでもそっちに結びつけてしか考えられないお年頃という訳だ。錬金術に明け暮れて、研究に埋没してても、一皮剥けば、ただのガキでしかない。
(昨夜もヤッてんのに、どーして俺ってば、こう……。
 あー、そういえば今日の夕食は何食うかなぁ。デンは今年で何歳だっけ。少佐っていつ頃からあんな禿頭なんだろう。賢者の石でアルを錬成する代償が俺の髪の毛全部だったら、どーすっかな。ずっと略画の顔でいないといけねぇのかな、主人公なのに)
 くだらない事を考えて頭を切り換えようとしたが、思考のすぐ下に忘れたい事は潜んでいて、考えが途切れるとすぐアルの股間に目が行ってしまう。
「うおぉぉぉお! バカ、俺のバカ!」
「………………………」
 アルはそんな兄を生暖かい視線で眺めながら、何も聞かなかった。こういう時のエドに尋ねても、余計パニックを招くだけである。天才と狂人は紙一重とはよく言ったものだ。
「じゃ、ちょっと宿のおばさんにアイロン借りてくるね。シャツが皺になっちゃうから」
 クリーニングサービスなんて洒落たものは都会のホテルにしかない。地方では素泊まりが基本で、後は何でも自分でしなければならなかった。
「え? はっ!?」
 エドは慌ててガバッと起き上がった。
「ア、アル! お、お前、その格好で帳場に行くつもりかっ?」
「そうだけど?」
「バカっ! 恥ずかしいだろうっ!部屋の外なんて!」
「何で恥ずかしいの?別にすぐそこだし」
「恥ずかしいったら、恥ずかしいんだよ!部屋の一歩外は街と同じだろ?誰かに見られたらどうするんだ!」
「もう何言ってるのか解らないよ。アイロン借りるだけじゃないか。僕、別に汚れてないし。ひょっとして、コンデンスミルクでも後ろにこぼしてる?まだ太ももについてるの?やだなぁ、もう」
 首を捻って、腰の回りを覗き込もうとする弟の姿に兄は鼻血を吹きそうになった。
「ミ、ミルクなんて、んな事言うんじゃねぇ!」
「ちょっと、もう何だよ?教えてよ、兄さん」
「そ、そんな事………と、とにかく俺が行ってくる! 誰かに見せられるか、お前のそんな姿…」
 アルはじっとエドを眺める。
「…………兄さん」
 低い声で言った。
「な、何だよ」
「ひょっとして、恥ずかしいって、僕が鎧だから?こんな姿はみっともないから、人に……」
 いきなりアルはガイーン!と部屋の奥へ吹っ飛んだ。ドアがバターンともの凄い音を立てて締まる。エドに思い切り腹を蹴られたのだと解るのに時間はかからなかった。
「………そういう事じゃないのかぁ」
 アルは天井を見上げたまま呟いた。ひどいや、兄さんと小さな声で呟く。アルだってあんな事、言いたくはなかったのだ、ならば何故ちゃんといつも説明しないのだろう。
「なら、何なのかなぁ?」
 ああいう思考の跳ね回りすぎる兄の弟でいるのは、なかなか骨が折れる。しかも常にまずい事は説明不足なのだから、常に先手を打つか、放っておくしかない。どうやら自分の事で色々考えているようだが、どうもロクな事ではなさそうだ。
(だから、聞き難くて放っておいたのに)
 結局、蹴飛ばされて何だかバカみたいだ。物音がして、視線を向けるとアイロン片手の兄が戸口に立っている。相変わらず怒ってるんだか、目のやり場に困っているというか変な顔をしていた。
「バカ兄」
「バカアル」
 同時に言った。同時に吹き出す。エドは寝たままのアルの傍らにあぐらをかいて座った。
「……ったく、変な事言うんじゃねぇよ。お前は堂々としてりゃいいんだ。俺の自慢の弟なんだからさ」
「じゃ、何で出ちゃいけないのさ」
「……それは…っ」
「人、蹴飛ばしといて、だんまりはないよね」
「う〜」
「兄さん」
 エドは渋々といった顔でアルを見た。
「お前、その腰布の替えは?」
「え?ああ、この長雨でしょ?まだみんな乾いてないよ。それが何?」
「いや、まぁ、そっか」
「それが何?」
 アルフォンスの声が刺々しくなる。エドは大きく溜息をついた。
「困るんだよ、お前が腰布つけてないと…その、何だ」
 エドはどうしてもはっきり言えずに、アルの兜に口を寄せると小さな声で白状した。途端にアルは吹き出す。
「ア、アハハハ!やだ、バカ兄!そんな事で悶々してたんだ!」
「わ、笑うなよ!だから、言うの嫌だったんだ!」
「ごめん、ごめん! アハハ! でもバカみたい、だって僕、鎧なのに」
 エドはアルの胸をゴインと殴った。
「俺にとっちゃ、アルはアルなんだよ!鎧も何も関係ない!」
 アルは笑う。笑いながら、睨んでいる兄を心から愛しいと思う。僕ですら僕は鎧だって思うのに、それでも嬉しい。泣きたいくらい嬉しい。
「バカ兄。この変態」
 起き上がって、エドを大きな腕で抱き込む。エドもアルの背に手を回した。
「反応しちまうんだから、しょうがないだろ」
「僕が元に戻っても、兄さんがこの鎧にハァハァいってたらどうしよう。僕に隠れて浮気なんてしてたら、僕、どんな顔で怒ったらいいのかな」
 アルは笑っている。エドも笑った。
「そーかもな。浮気してやろっかな、この鎧と」
 エドはコンとアルの血印のあたりを叩いた。
「バッカ、しねーよ。俺が欲しいのはお前だけだよ。お前が元に戻ったら、ベッドに引き吊り込んで昼も夜もない位 、抱きてぇよ。俺だけで一杯にしてやるよ。俺がされた分、絶対犯り返してやる!」
「その前に兄さんを押し倒しちゃうもん」
「俺が先だ。兄に譲れ」
「何で。僕の方がずーっと我慢してるのに」
「俺の方がずーっと我慢してる!」
 二人は睨み合い、また笑った。堂々巡りの議論を交わしても仕方がない。エドはアルの腰に目を落とした。
「アイロンで乾かすのもいいけど、いっそ新調しろよ。お前、余り着替え持ってないだろ」
 アルは綺麗好きだし、慎重だから滅多に布を破かない。身体の垢も出ないし、こまめに洗濯している。だから、荷物も少ないのだが、エドは少し不満だった。買い物に出ても、エドの下着、靴下、食事、日用品、必要なのはエドの物ばかりでアルの物といえばオイルくらいだ。
  エドはアルの為に何か買いたかった。金は研究費が山のようにあるのに、アルの為の買い物など滅多にしない。四年前に全てを焼いてしまい、幼い服も靴下も、アルの私物は全て灰になった。それ以来、アルの私物は殆ど増えない。それが人間から遠くなった事も意味しているようで悲しかった。アルにだって必要な物はある筈だ。だからこそ、アルの物が、アルの私物が買ってみたかった。
「そうだ、一緒に買い物に行こう!お前の好きな柄で飾り布をこしらえたらいい」
 エドは起き上がり、またアルの腰に目をやった。
「あー、でも、まずいか。そのままじゃ。んー、いっそシーツ巻いていけ」
 アルはシーツを巻いた情けない自分の姿を想像して溜息をつく。
「やだよ、そんなの。雨だし、それこそみっともないよ。いいよ、アイロン貸して。よさそうなの、乾かしちゃうから」
「えー」
「その代わり、兄さんが僕の布、選んでいいよ」
「そうか!よっし、趣味のいいの選んでやるからな!そうだな、前のお前の誕生日もお前、オイルで充分とか言ってロクなもんやってないから、ちょうどいいぜ」
「………普通のにしてよね」
 妙に張り切っている兄を見ながら、アルフォンスは一応釘を差した。

 

後編に続く

エドアルお題へ 


4万ヒット記念。あー、今日中だとここまでしかアップできない!
後編は明日。    

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット