「あの日」



 マナに拾われた日から、ずっと魔法にかかってる。


 そんな気分だった。

『僕は貧乏だけど、アレンと一緒にいたら、僕も君もきっと楽しいと思うんだ』

 と、出会った時、マナが言った言葉に嘘はなかった。孤児院育ちのせいで、節約や倹約が当たり前だったし、粗末な食事もマナと一緒だと不思議においしかった。
 孤児院は食事の内容も量もずっとよかったが、みんなに嫌われていると感じる場所では、砂を噛んでいるのも同然だった。毎日、胸の奥に何か重いものがつかえて、目の奥が痛かった。無表情な顔の下で、行き場のない淀んだ感情が常に荒々しく波打っていた。
 でも、あんなに骨身に堪えた日々なのに、今はもう服の染みのように殆ど思い出せない。マナといると笑ってばかりいるからかも知れない。
  マナは自分の分を削ってでも、自分に多く食べ物を分けてくれる。それに空腹でも、笑うと不思議に腹が張るのだ。

 とはいえ、貧しいと暮らしの制約は大きかった。
 服は着たきり。芸の荷物だけで嵩張るから余計な物は極力買わない。ブーツは入らなくなったら、切れ込みをあちこち入れて、ギリギリまで我慢する。食事だって、ジャガイモとスープばかり。ベーコンなんて、ここ数ヶ月お目にかかった事がない。
 それはまだよかった。親のいる貧乏人の子供は慈善が受けられない為、冬でもコートもなく、裸足なのが当たり前なのだ。7,8歳の子供が工場で14時間も働いて、それでも家族が食っていけない。
 旅回り故、靴を与えられているアレンは幸運な方なのである。

 朝早くから芸の稽古や出し物の準備、午前中の公演が終われば、移動して別の場所でもう二回。休む暇もなくあっという間に夜が更ける。
  遅い夕食の後、針仕事やお手玉の稽古をしながら、今日見つけた事やちっちゃな事件などを二人で楽しくお喋りするうちに、すぐ気持ちよく瞼が重くなってしまう。遊ぶ暇が余りなくても、アレンの毎日は充実していた。


 それに野宿する夜はいつもマナのバイオリンがあった。
 街中では無理だった。アレン達が泊まれるような宿がある下町はゴミゴミして、明け方まで酔っぱらいの怒鳴り声や喧噪が絶えない。
 けれど、誰も文句を言わない森や野原では、マナはアレンが望むままにバイオリンを奏でてくれた。色んな曲を謡ったり、踊ったりする事もあったが、大抵しんみりとバイオリンが謳うのをじっと聞くのがアレンは大好きだった。毛布にくるまり、焚き火の側、降るような満天の星の下で、森や草原に消えていく調べを聞くと、胸がいつもジンとして、痛いほど疼くのだ。
 それだけで充分だった。何も欲しいものなんかなかった。

 マナはアレンを学校に行かせてやれない事をひどく気にしていたが、アレンには学校と孤児院は同意語だった。簡単な勉強なら、マナに教わっている分で充分と思ったし、友達づきあいには懲り懲りしていた。マナの手助けをする為に、芸を一つでも覚える方が遙かに重要だし、面 白い。
 それに学校に行くには誰かの養子にでもなるしかなく、それはマナとの別れを意味する。その方が心から怖ろしかった。この生活が終わる日なんか考えたくもなかった。
 だから、アレンはこの日々を壊すような事をしたくなかった。観客はマナの芸やアレンの愛らしさを心から愉しんで、喝采を送ってはくれるけれど、芸が終わると途端にシビアになってしまう。何も見なかった顔をして散ってしまい、帽子にロクに金も入れてくれない。劇場を持たない大道芸人にそれを咎める術はないのだ。勿論、喜んで払ってくれる客達も多いが、客の気分と景気に激しく左右される職種である事に間違いはなかった。




 だが、今日はクリスマスだ。収穫祭やハロウィン以来、ふっつりと途絶えていた客足もたっぷり戻り、二人はニコニコ顔で今年最後の仕事を締めくくる事が出来た。
  これで当分、春まで旅芸人の仕事はおしまいだ。雪が溶けて、道行く人が足を止めて芸を見る気になるまで、どこかのホテルか工場で住み込みで働く事になるのだろう。

「今年は南イタリアのホテルに行くつもりだよ。皿洗いの合間に応援を頼まれるかも知れないな。新年のパーティの楽士が足りないそうでね」

 マナはスープにパンを浸しながら笑った。今日の居酒屋の料理は鱈と牡蠣の熱々の鍋だ。バターとミルクがよく効いてうまい。冬場の海沿いの街は身が切れる位 寒いけれど、内陸に較べて驚くほど安くてうまい料理を提供してくれる。滅多に食べられないクリスマスのご馳走に二人は存分に舌鼓を打った。暖かい腹持ちのいい物を食べれば、夜はぐっすり眠れる。短い滞在だったが、二人はすっかりこの店が気に入っていた。
 マナは笑っているけれど、実は人前でバイオリンを弾くのが好きではない事を、アレンはとうの昔に気づいていた。

(どうしてなんだろう。こんなに上手なのに)

 アレンは不思議でならなかった。一所に長く滞在するのと同じくらい、それが苦痛の種らしい。アレンがいなければ、多分ホテルの住み込みもやる事はないのだろう。音を聞けば解る。アレンだけに奏でる音と天地ほど違うのだ。
 それでも、一度でもマナのバイオリンを耳にした『騒音と本物の音を聞き分ける耳があるんだ』と称する紳士や貴族達は目の色を変えて『うちのサロン』に呼びたがった。
 マナは旅芸人の分際から一歩も出ようとしないが、それでも、おかげで冬の間は二人とも暖かな場所での仕事に事欠かないでいられる。

(それもきっと自分の為なのだろう、全部)

 薄々そう感じても、アレンは口に出さない。言ってもどうにもならないし、あちこちのホテルや宿に行くのは大好きだからだ。どこでも素晴らしい馬や納屋があり、親切なコックやボーイが時々パイやクッキーをポケットに忍ばせてくれる。左手さえ注意深く隠せば、メイド達を手伝うついでにお客からチップももらえるし、彼らが連れてくる犬や猫達と仲良しになれる。
 旅をするのも大好きだが、ホテル住まいも楽しかった。町中の工場と下宿の往復でじめじめ一冬過ごすよりずっといい。


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