「空気力学と少年の詩」 1(匡阿)
(…どうする?)
匡平は逡巡しつつ立ち尽くした。
ここまで必死で走って、藪を抜けてきたので息が荒い。
この雑木林を抜ければ座敷牢の裏手に出る。
だが、屋敷が見えてきた今になってどうでも足が進まない。
(何でだよ、阿幾…)
阿幾が先生を殺した。ずっとそう信じてきた。
あの虐殺の血の海。切り裂かれた死骸の山。うつ伏せに倒れていた千波野。
彼女は下着姿だった。それだけで何があったか察せられた。
「これ全部お前が…やったのか?暗密刀で」
血が煮え滾る。それを必死で押さえつつ発した問いを阿幾は否定しなかった。
阿幾は笑っていた。
返り血を浴びて凄惨な姿でありながら、暗密刀を愛でる彼を美しいとすら思った。
遂に狂気が幼馴染を侵蝕し尽くしたのだ。
だから、匡平は阿幾が先生を、千波野を殺したのだと思った。
村はそれだけの事を阿幾にしてきた。
先生の事はきっかけだったに過ぎない。
犬のノォノを殺され、千波野を篤史達に汚されて、逆上して目に入る全てを壊したのだろう。
千波野を助ける代わりに巻き込んで、背中から刺し殺したのだ。
阿幾は村の全てを憎み、疎んでいた。
暗密刀を取り戻した代償に胸の奥に溜め込んだマグマを噴出させたのだろうと。
匡平にとって、千波野は憧れの女性だった。
清らかで、村の汚濁に汚されるべきでない存在だった。
だが、一番望まない形で死んだ衝撃は匡平を誤解による怒りの渦に叩き込んだ。
匡平はそれを全部阿幾にぶつけた。
今になって思えば、匡平自身も解っていたのだ。
ここに至ったのは阿幾のせいではないと。
千波野も聖女ではなく、ただの弱さを持った女であり、同じ境遇の阿幾と近付くのは何の不自然もなかった。
村が彼らを追い詰めたのだ。
だから、阿幾は笑っていたのだ。
匡平の本性を見抜いて。
匡平の怒りは阿幾が先生を殺した事でも、殺戮を行った事によるものでもない。
口先ばかりで、この破局に何の関わりも持てなかった。
何も変えられなかった。
自分の無力さを思い知らされた子供のやり場のない八つ当たりだ。
阿幾は怒りを暗密刀に乗せて外へ解き放ち、匡平は自分の中に渦巻く怒りの矛先を阿幾に向けた。それだけだ。
屍骸の破片と血の海の果てに暗密刀と向き合って立っていた阿幾は、立場が違えばなっていたかも知れないもう一人の自分だった。
だが、結局立場が代わるという可能性すらなかった。
自分は貴重な隻で「匡平様」であり、所詮お坊ちゃんなのだ。
それをかなぐり捨てねば、千波野や阿幾の所までは落ちられない。
あの頃の匡平にそんな度胸も覚悟もなかった。
隻だから通る意見や地位に甘え、それに寄りかかって、最後まで解決しようと思った。
それでいて、かなわぬ事を怒り、打ち震えて、阿幾に拳を振るってる。
村に対しては空回りする拳も、阿幾になら当たる。
阿幾は受け止めてくれる。逃げもせずに。
(…けど)
阿幾は千波野を殺してはいなかった。
篤史に殺されかけた阿幾をかばって先生は死んだ。
彼女を汚したのも殺したのも、皆、篤史達だった。
阿幾は武器も持たず、真正面から来たそうだ。
例え、何とか先生を助け出せたとしても、隠蔽体質にまみれた出口のない山奥の村だ。先は知れている。
阿幾は死に対して常に身を晒そうとする危うい所があった。
誰にも愛されてないから、自分も愛せないのだろう。
一時期であれ彼にとって、暗密刀だけが存在の拠り所だった。
どうにもならない行き止まりの死の淵で、奪われた暗密刀の手にかかろうとしたのかも知れない。
それらを篤史の仲間の生き残りから、今日初めて聞き出した。
そいつがうっかり口を滑らせたのを、匡平が聞かなければ、ずっと勘違いしたままだったろう。
この事件は村の禁忌になっている。
お社が都合のいい方に捻じ曲げた話を黙って受け止める。
この村で生きたければ疑念を挟んではならない。
最後までまともに暗密刀を制御できなかった無能な隻の責任は問われず、誰もかばう者のない問題児に都合よく殺人鬼のレッテルを貼っておしまいだ。
状況証拠が全て阿幾に悪く揃っている事も、先生が外部の人間である事も真実を曲げる事に有利に働いた。
元から厄介者だったのだ。
警察沙汰にするより、性格に問題があると生まれつきの悪党として、一生監禁する事に誰も異論を挟まなかった。
お社の決定は白も黒にする。嘘も時間が経てば真実になる。事実を知らなければ疑う余地もない。
詩緒も阿幾は「元からそういう奴」だと鵜呑みにしている。
それを否定しないのも、こんなザラザラした気分で迷ってるのも、やはり阿幾のせいなのだ。
(…くそっ)
匡平は拳を握り締めた。
面会を求めれば、制限と監視付ではあるが会う事は可能だ。
だが、真正面から会いたくなくて、裏手から忍んでるのは未だにわだかまりが残っているからだ。
『先生を守るから』と自分なりに必死だった申し出はやんわり断ったくせに、千波野は阿幾の手を取った。
『匡平君だけは…ずっと阿幾君の友達でいてあげてね』
自分の想いを知っていながら、千波野は最後まで阿幾の事を案じていた。
彼女にとって阿幾は対等な「男」で、匡平は子供に過ぎなかった。
そう思い知らされた夏。
完全な失恋だった以上に阿幾との差を突きつけられた。
あの時のプライドの傷がジクジクと疼いて、匡平の足を重くさせている。
『隻の力なしじゃ何も出来ないと?』
そう匡平を揶揄した阿幾が身一つで千波野を助けに行ったのだ。
匡平に助力を頼む事だって出来た筈なのに。
あの時の憤怒の理由の一つは阿幾が自分を頼らなかったのもあるかも知れない。
匡平の淡い恋など関係なかった。
阿幾と千波野と篤史との間の事は、もはや彼らだけの問題なのだ。
完全に閉め出されたのがたまらなく口惜しかった。
そして、事件は最悪の結末を迎えた。
(でも…)
阿幾は自分のやった事を弁解しなかった。
阿幾は彼女の為に泣いたのだろうか。
座敷牢に入る時たった一つ望んだ事。
ノォノを埋葬して欲しい。
ただそれだけだった阿幾。
事件から数日経つのに、真夏の庭先で放置されていた犬の死体。
禁忌のあった家には誰も近付かない。憐れみも垂れない。
これが空守村だ。
泣いた。ノォノを埋めた後、ボロボロと泣いた。
千波野を悼み、ノォノを悼み、失った恋を悼み、過ぎ去る夏を、阿幾を、自分自身を悼んで。
俺は部外者だ。傷つく必要はない。
俺を仲間外れにしたのは阿幾達じゃないか。
そう思いながら、阿幾を訪れるのを避けてきた。
(俺は…)
匡平は拳を握り締めた。
結局、何を怒っているのか。何に拘っているのか。
でも、先生の話を聞くなり、走りに走り、ここまで来てしまった。
(会えばいい。会って話をしなければ…)
そうしなければ、いつまで経っても前に進めない。
匡平は足を踏み出した。
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