「パティスリー」1

「ふぅ〜」

 アレンは小さく溜息をついて、肩の凝りをほぐした。まただ。特に気を張ってるつもりはないが、ストレスが体に来ているらしい。
 任務だけから来る疲労ではない。本部にいるせいだ。

(前は本部に戻ってくるのは、本当に家に戻ってくるようで嬉しかったんだけどなぁ)

 自室に戻る靴音すら、コツコツと冷たい反響がする。やるせない。
 原因は解っている。ルベリエとコムイが14番目の件について内々に公表したからだ。
 スパイ疑惑の頃はまだよかった。あの時は教団中から視線を浴びたが、根も葉もないと黙殺できた。左眼や左手に向けられる好奇のまなざしには馴れているし、クロス共々というのもプラスだったろう。何だかんだあっても、アレンは師匠を心強く思っている。
 幸か不運か、ルル=ベル襲撃のせいで嫌疑は晴れたが、真実はもっと過酷だった。しかも『14番目』とアレンの関係について語ったのは、クロス本人だったのだ。

 心が折れた。
 一瞬にして、足元が崩壊した。
 頭が真っ白になって、投げつけられた真実を拒否したがっている自分がいた。

 クロスがアレンを弟子にしたのは14番目の宿主だったから。
 マナがアレンを拾ったのは14番目の兄だったから。
 そして、アレンが『14番目』の宿主となったのは、クロス曰く「運が悪かった」から。
 まるで『14番目』の輪舞曲(ロンド)だ。
 アレンが不要であっても構わないかのような、『14番目』を中心にしたロンド。

(何だ、それ…)

 不愉快だ。不愉快極まる。
 あの話で一番傷ついたのは、いずれ『14番目』になる事でも、クロスが弟子にした理由でもなかった。
 マナが最後に言ったあの言葉。

『アレン、お前を愛してるぞ』

 あの全身を振り絞るように紡がれた言葉。
 アクマに身を堕して尚、投げかけた言葉。

 あれが自分になのか、『14番目』に対してなのか、解らなくなってしまった事だ。
 あの時はショックでつい失念してしまったが、14番目の本名を確かめようにも、師匠は行方不明だ。生死も解らない。
 マナとの日々が、あの素晴らしい日々が全部嘘だったなど信じられない。
 あれが計画と欺瞞の上にあったなら、アレンの原罪も贖罪も希薄なものになってしまう。
 アレンが立てた誓いもひどく空々しくなってしまう。
 アレンがマナを好きだという気持ちは本当だ。クロスに出会うまで、マナは世界の全てだった。だからこそ、改めてその上に神殿を築いた。

 でも…マナがそうでなかったら。
 アレンを通して『14番目』しか見ていなかったら。
 その悲しみがあの日以来、埋み火のようにチロチロと胸の底を焼いている。


(師匠があんな事を言わなければよかったのに)

 アレンは唇を噛んだ。
 ずっとクロスに会いたかった。疑念を晴らして欲しかった。アレンにまとわりつく14番目の影も楽譜の事も納得の行く説明が欲しかった。
 クロスの言葉はいつだって力強くて、修行時代、常時抱えていた劣等感やガキ臭さを嗤い飛ばせる大人の傲慢さと説得力に満ちていたから、力づくでいいから、強引でいいから、アレンの不安を払拭して欲しかった。出来るものだと思っていた。

 でも、クロスはアレンに都合のいい事は一つも言ってくれなかった。
 クロスらしくなく、優しかった。
 木っ端微塵になりかけている自分を抱いてくれた。
 まるで心から大事なもののように。傷ついた心までも癒すように。

「『14番目』になったら、お前は大事な人間を殺さなきゃならなくなる」

 そんな呪いの言葉を嘯きながら、それでも、クロスの胸は温かくて、優しかった。
 アレンを言葉で切り刻みながらも、その胸はいつもの煙草の香りがした。

(僕が『14番目』でなかったら、僕を拾いはしなかったんだろうか。
 僕が『14番目』でなかったら、あんな風に接してこなかったんだろうか)

 解らない。答をくれる前にクロスは消えた。まるで暗殺されたかのように、夥しい血痕を残して消えてしまった。
 砕けた仮面とティムに不可解なメッセージだけを残して。

(…らしくない。師匠らしくない。全然ない)

 だからこそ、クロスの事を想っていられる。信じている。このメッセージを解く事で繋がっていると感じられる。
 クロスはいつも自分を試すような事をする。だから、これも多分、試練の一つなのだ。どんなにその問いが難しく、提出に心が痛もうとも、血を流そうとも、正解を聞かぬ まま有耶無耶にしてしまう事は絶対にない。
 だから、クロスはアレンが解答を見出す頃に必ず現れる。どんな再会だかは不明だが。

 クロスの話は受け入れがたかったが、やはり事実なのだろうし、自分が『14番目』であろうとなかろうと、クロスはクロスとして、アレンと接してくれたように思う。
 クロス=マリアンはそう簡単に自分自身を譲歩しない人間なのだ。
 アレンの中にどんな謎が潜んでいようと、二人の関係にこれっぽっちも影響しないだろう。
 だから、クロスは余程言葉を選び、日を選んで、自分に『14番目』の事を語ったのだ。
 クロスはアレンの成長を待ってくれたのだ。
 あの慈悲心のない男が、方舟潜入任務を請け負ってから、4年以上の歳月を引き伸ばしてくれた。
 他人を道具にしか扱わない男が、アレンが自我を確立し、仲間を得るまで計画を延期してくれた。
 クロスをよく知るアレンにとって、それがどれ程の意味を持つか痛いほど解る。

「奏者の資格」としか見ないなら、幼いアレンを方舟の秘密部屋に放り込み、覚醒を促せば済んだ。
 とっとと『14番目』にしてしまえば、クロスの任務は終った。
 『14番目』という共犯者と再会する事も出来た。


 でも、クロスはそれをしなかった。
 マナも愛する弟に身を切るように再会したかったろうに、ひとっことも言わずに死んだ。
 本当にひとっことも。
 彼らは『14番目』でなく、『アレン=ウォーカー』を優先したのだ。
 新しい命を。
 アレンを心から愛していたから。

 クロスの話の八割は曖昧だ。自分と『14番目』の関係は見事にかわし、重大な事は全てぼかした。
 マナが何故二人で暗号を作ったのか。そして、左眼に何故呪いをかけたのか。その疑問だって残っている。
 それでも、自分は二人に愛されたのだ。こんなにも強く。
『14番目』の宿命を越えて、アレン自身を二人は愛したのだ。
 だから、アレンはエクソシストでいられる。もし『14番目』が教団を襲うなら、自分を殺してでも止めてみせると皆にはっきりと言える。

『もうマナの仮面をかぶるのはやめろ』

 クロスの言葉はまだ少し胸を刺すけれど、マナの影に隠れるのは辞めて、自分自身を見つめなければ、『14番目』に乗っ取られるという事なのだろう。
 自分の罪と、自分自身と正面から向き合えと。

 そうしなければならない。それは解っている。
 でも、だから、仲間であるエクソシスト達から微妙な線引きをされたのは、想像以上に辛かった。

 自分の心は決まっている。
 だが、リナリーやチャオジー達の心を曲げる事はできない。時間をかけて解ってもらうしかない。
 仲間だというスタンスは変らなくても、彼らはどこかアレンの下にノアの気配を探している。
 彼らの肉親や仲間を殺した人類の裏切者を。
 方舟でティキが覚醒した時のように、真っ黒な怪物がアレンを突き破って出てこないか、危ぶみ続けている。

 人は言霊が弾けた以上、それを心の戸棚にラベルを貼ってしまいこむか、パチンとファイルしない限り、いつまでも未決済の棚に入れてペラペラめくり続けてしまうものだ。
 アレンに「ノアの可能性」があり、アレンが自分で始末をつけると告げたところで、彼らの心をざわめかせるだけで、揺らがせる事は出来ない。事はそうあっさり終らない。
 それが可能なのは神田だけなので、コムイは今の所神田とばかり組ませるのだろう。

 だから、任務の間はいい。
 教団でリナリー達と顔を合わせた時が問題なのだ。以前と違う微妙なぎこちなさ。曖昧な間。くぐもった気遣い。取り繕った仲間気分。その下に漂う冬の霧のように冷たい探るような気配。
 それが手に取るように解るから、アレンは気が重くなる。
 作り笑顔になってるとありありと解る。
 さんざん、ピエロの頃、そうならないようマナに叩き込まれたというのに。
 恐らく、それは観客に対してではなく、リナリー達が気を許した『家族』なのだからだろう。取り繕えない、取り繕うともしない家族への甘えの気分が生まれ始めているからだ。

『アレンて、時々、敬語が外れてきてるよな』

 アレンの仮面の隙間から、その剥き出しの部分へ棘を刺す。それは痛くて、苦い。
 彼らは何も悪くない。
 自分だって悪い覚えはない。厄介なのはそれなのだ。

(僕も神田みたいに『どうでもいい』って言えたらなぁ)

 神田の強さが羨ましい。だが、自分がクロスにも神田にもなれない事は解っている。
 如才ない人付き合いは旅芸人時代からのアレンの処世術だ。そう簡単に変えられるものではない。
 神田といると、どうも自分の本性の方が前面に出てしまうので、ある意味、気が楽だが。

(…確かにコムイさんの人選は間違ってないなぁ)

 今の現状では、しみじみ思ってしまうあたり、ちょっと悔しい。


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