「少し揺れるけど、大丈夫?」
 アルは心配そうに俺を見上げた。
 いい天気だ。俺はアルの右腕に抱かれ肩にもたれて、家路を辿っていた。家に戻るのはあの日以来になる。車椅子は田舎道に向かないし、機械鎧の手術に備えて、傷はわざと塞がないでいるので振動が直に響く。局所麻酔を打ってもらってなければ、とても墓参りなど来れなかっただろう。
 だが、俺は首を振った。この程度の痛みなど明日の手術に比べれば何でもない。痛みすら失った弟の辛さに比べれば、痛みのうちに入らない。だが、麦わら帽子越しでも、さすがに顔色の悪さは隠せなかった。
「まだ無理しない方がいいんじゃない、兄さん?」
「大丈夫だよ。手術したら、それこそ当分動けないからな。今日しかないだろ?」
「うん……」
 アルはまだ少し心配そうだった。そうだろう。俺が死んだらアルは独りぼっちになってしまう。気丈に振る舞っているとはいえ、アルだって心細い事に変わりない。心の宝石だって、拠り所がなければ簡単に砕けてしまう。死ねないなと、ぼんやり思った。アルを直せるのは俺だけしかいないのだ。
 鳥が鳴いている。日差しがきつい。見事な入道雲が青空に聳えている。蝉がうるさい。夏草の匂いが噎せるようだ。白い田舎道に黒々と鎧と少年の影が落ちている。俺の胸元から汗が匂った。
 あの日からリゼンブールは殆ど動いていない。夏まっただ中。成功していれば、母さんと夏休みを満喫していただろう。
 鎧の金属音だけが夏の日に不似合いだった。きつい日差しで熱せられた鉄の表面 がかなり熱い。だけど、俺は何も言わなかった。これが今のアルなのだ。俺が弟に押しつけた現実を俺がとやかく言う事は出来ない。
 それがアルをどんなに傷つけるか、その頃の俺は解っていなかった。
 俺達はまだ始まったばかりだった。
 道端に白ゆりが咲いている。仔鹿のような斑鹿子を散らし、雄しべが赤い。母さんが好きだった花だ。俺達が母さんについて知っていた数少ない事実。
「花束を作っていこうぜ」
 俺がそう言うと、アルは頷いてゆりを摘む。道々摘む。歩くたび、アルの腕の中の花束が大きくなっていく。
「ちょっと大きすぎるかな」
「二つ供えるからこれくらいいいさ」
 俺は肩をすくめる。
 母の正式な墓に半分花束を供え、俺達はやっと家に戻った。家はしん、として窓の中が暗かった。昔のままだ。二週間程度では何も変わらない。俺達がいればそれなりににぎやかだが、誰もいないと途端にがらんとなる母のいない家。
「少し中で休もうか。兄さん、疲れたでしょ?」
 アルは言ったが、俺は首を振った。後でいい。明るい日の下の罪と、暗い家の中の罪のどちらかと問われればどちらの方が楽なのだろう。
 俺達は家の裏手に回った。初めて、畑がひどく荒れているのに気づいた。昔、真っ赤なトマトや野菜がどっさり採れた場所。母が死んで以来、放置された畑は雑草に覆われ、柵も壊れている。もし、母が無事蘇ったらさぞ嘆いただろう。
  あんなに母が丹精込めた場所を俺達は見向きもしなかった。確かにここは母の思い出が強すぎて、立ち入る事が辛かったからかも知れない。だけど、本当に母を想うなら、母との思い出はどんな事でも大事にしようとした筈だ。こんなに荒れるに任せて、放置しなかった筈だ。だが、俺達は母を蘇らせる事だけが正しくて、それ以外何一つ考えなかった。
 今になって、そんな事に気づく。何もかも手遅れになって。俺達は本当に馬鹿だった。俺達は本当に母の事を理解していたんだろうか。母を大事に思っていたんだろうか。
(母に会いたい)
 その想いだけで邁進した。今になれば、母との再会は心の中でいくらでも出来るのに、現実の母をないがしろにして、可能性に惹かれ、ありもしない母の面 影ばかり追った。
 そういえば、母はこの村出身なんだろうか、父とここに流れてきたんだろうか。そんな事も聞いた事がない。いつか、ばっちゃんに聞いてみよう。
 俺達はあの頃幼すぎて、母と一緒でいる事以外、何の疑問も持ってなかった。
 母は優しい。母は暖かい。俺達が知ってるのはそれが全部で、それだけでよかった。母の人となりも、過去も心も、少女時代、故郷、何一つ知らず、ただそれだけで母を創ろうとした。報いを受けるのも当然だ。
 俺達は『全然知らない人』を創ろうとしていた。俺達の母である事。名前。年齢。俺達と暮らした日々。
 それ以外、殆ど知らず、知ろうとせず、調べもせず、表面だけ、人体の神秘だけ追って母を錬成しようとした。
 徹夜して学んだ錬金術ほども、成分すら空で言える人体構造ほども、母の事を調べようとしなかった。探偵みたいに裏を探るような気がして嫌だったのかもしれない。母に醜い部分があるなんて思わなかったが、やっぱり無意識に敬遠したんだろう。
 村人の誰と一番仲がよかったか、心を許したか、誰かを憎んだ事はなかったのか、初恋の人はいたのか、遠い日々に置いてきたものはなかったのか、どんな風景が好きだったのか。そんな事も知らない。俺達に合わせてばかりで、本当に好きだったもの、唄、好物、趣味、昔の夢、悲しみ、希望、そんな事殆ど聞かずじまいで母は死んでしまった。
 愛だけで足りると思っていた。人一人を取り戻すには、それで充分な代価だと思っていた。  バカだった。本当に子供の発想だった。
 人一人。
 余りにも膨大なもの抱えた人間を、『魂の情報』を数滴の血で補えると思ってしまったとは。
 だから、母の魂を錬成するなんて不可能だ。あの破局に戦慄した事もあるけど、母の事をろくに知りもしない俺が、全身で願っても母の魂を錬成できる訳ないんだ。
 俺が知ってるのは、出来るのはアル一人だ。それだって、奇跡だと思っている。例えどんなに側にいても、肌一枚隔てた向こうは別 の宇宙だ。俺はアルの全部を知ってる訳じゃない。そーでなくても『兄さんて無神経』だの『何か誤解してない?』とかよく言われるもんな。
  あの時、俺の叫びに、悲鳴に、アルがあちら側から手を伸ばしてくれたんだと思う。俺は必死でその手を掴んで引っ張っただけだ。代わりに真理に右手をもぎ取られちまったけどな。
 だから、他は…多分出来ない。ああいう事は一番近しい人間にしか出来ないんだろう。48とか66は生きた人間から鎧に魂を移した訳だから、アルとは条件が全く異なる。
 奇跡。
 俺はアルの肩の棘をギュッと握りしめた。焼けるように熱い。だけど、俺は構わなかった。アルがここにいる。もし、あの時アルを取り戻せなかったら、俺はどうなっていただろう。狂ったんだろうか。絶望したまま出血多量 で死んでたんだろうか。
「兄さん」
 俺の思考を遮るように低い声でアルは囁いた。
 涼しい木陰からひなたへ伸びる一面の草花。その中に置かれた小さな石。立派な母の墓に比べると、余りにささやかな見落としそうな石。
「これ…か?」
「……………うん」
 俺は俺達の失敗を見下ろした。何て小さいんだろうか。何て自然にあっさり溶け込んでしまってるんだろうか。
  俺はもっと明々白々な『罪』と大書された光景を想像していた。苦労して隠しても、誰が見ても気づいてしまう犯罪の形跡を、惨劇の残骸を、突きつけられるとばかり思っていた。
 自然に還るとも思えない錬成物が突然、土の中から手を伸ばし、生きた悪夢、地獄からの怨念を二人に向かって吐き散らす。血の匂い。腐臭。人工化合物。硝煙。そんな情景に再び頭をかち割られて、アルに取りすがって、絶叫し、頭を両手で覆う事になるだろう。そうとばかり思っていた。
 あれからたった二週間しかたっていないのだから。
 だが、それは余りに呆気なかった。アルに言われなければ解らなかった。
 二人の『罰』が見下ろしている『罪』の跡は、俺達を糾弾する事もなく、何の未練もないように自然に還ってしまっていた。
「何でだよ……」
 俺は呟いた。何でアルも母さんもあっさり俺を許してしまうんだ。こんなひどい目にあって、こんな辛い目にあって、どうして俺を責めないんだ。俺をなじらないんだ。
「……なあ、アル」
「何?」
「母さんは……」
 俺達の事を恨んでるだろうか。余りに憎くて黙ってるんだろうか。俺の事など見たくもないから、土の下から這い出して来ないのか。俺は喉まで出かかったのをこらえた。
(じゃあ、アルは?)
 そう続けるのが何より怖かったからだ。ここにうち捨てられたくなかったからだ。
「この母さんは……白ゆり、好きかな?」
「好きだと思うよ、きっと。喜んでくれると思うよ」
「うん……だけどさ、ここに花を置いても不自然だし、すぐ枯れてしまう。それより球根ごと植えよう。そしたら、きっと母さんは淋しくない。毎年、俺達がいなくてもゆりが見れる。大好きなゆりを」
「ああ、いい考えだね、兄さん! 後で僕が掘ってくるよ。じゃ、このゆりは母さんの部屋に飾らない?二人の母さん達の為に」
「ああ、そうだな」
 俺は頷いた。機械鎧が馴染めば、俺達はすぐ旅に出る。一年になるか、二年になるか。本当の母の墓は村の管理人が面 倒をみてくれるが、ここには俺達しか訪れない。命日に帰れない事も増えるだろう。あんな事を強いた罪滅ぼしとしては余りにささやかだが、俺はこの母にも何かしてやらねばと思ったのだ。
(結局、こんなもんなんだ)
 俺は小さな溜息をついた。死んだ者に生きている人間がしてやれる事は余りない。花を供える事。いつまでも忘れないでいる事。それ以上もそれ以下もない。それを解らなかった。認めなかった。
 だけど、アルは。
 体温も心臓の鼓動もないアル。成長もせず、魂だけの存在。
 それでも、生きている。俺は信じる。アルは人間だって。
 真理がいたあちら側。あれはあの世と呼べるのか。死者の世界か?天国と地獄の境か?
 俺は神に会ったのか?
 霊的な啓示を受けたのか?
 どうも違う。確かに真理はあったけれど、あの門の向こうが死者の世界とはどうしても思えない。あいつが世界であり、神として世界を司るなら、あいつが牛耳る未来は愛がない。冷笑と嘲りしかない。ぬ くもりも安らぎもない。俺達が死後訪れる世界とは思えない。
 俺は真理を見た。生きた錬成陣となった。
 だが、それだけだ。
 あいつは門番だった。神の一部かもしれないけれど、あそこは世界の流れを見る場所ではあったけれど、あそこにあったのは冷たい方程式だけだ。等価交換。書物の世界。知識の全貌。錬金術師のみが踏み込める場所。俺ですら、提示された情報の公開に興奮し、我を忘れた。錬金術師の性をさらけ出された。
 だからこそ、生命の樹以外何もなかったのだ。それ以外、必要のない世界だから。科学者が、錬金術師が倫理も道徳もかなぐり捨てて踏み込む、醜悪なほど知識欲しかない世界。純化された好奇心と探求心だけで構成されているから、真っ白で、正体のない世界だったのだ。
 そこに俺の手足とアルの身体がある。
 膨大な知識と引き替えに。
『通行料』とあいつは言った。
 天国や地獄に通行料がいるとしたら、それは精神だろう。日頃の行いだろう。
 だが、あそこではそんなものは必要とされなかった。善も悪もない。あいつは『肉体』を要求した。現実にあるもの。実物主義。それはまさに学問の世界じゃないか。想像より、結果 を重んじる科学の世界じゃないか。
 だから、あそこはあの世じゃない。そんなものではない。
 だからこそ、肉体を取り戻す可能性がある。何故なら、学者にとって実験結果、研究成果 は命より大事だ。あいつが学問の世界を司るなら、手に入れたサンプルを絶対に捨ててしまったりしない。俺達の身体はあそこに保管されている。
 母の時とは違う。
 紙一重。万に一つの可能性だが。
 神に挑む事に変わりはないとしても、再び探す価値はある。
 今度こそ命を落とすかも知れないが。

 

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