「長崎物語」

 

 正太は石畳の坂道を懸命に駆け上がっていた。
 腕に抱えた竹籠に入っているのは畑で取れた太ネギと大根の漬け物。めざしが一束。太ねぎは根深汁と、味噌とジャコと柚子でぬ たにする。めざしと漬け物は酒のつまみになるので、朝餉には出さない。
『また、めざしか』
 と、バカにするくせに、ないと怒るので今度の神父様は面倒臭い。

 彼が住む長崎の街は貿易で潤っており、異人が利益をもたらしてくれる事を知っていた。だから、長崎の人々は彼らに対し、敬意を払っており、親愛の情も深い。異人は取り決めにより、出島に滞在しているが、時代も下ると、技術や医学を教える為に街と往復する者も現れ、彼らの為に唐人寺や南蛮寺も見受けられるようになっている。
 街の世話役を通じて、数件の家が持ち回りでその寺院の世話に当たっていた。無論、キリシタンはご禁制だから檀家という訳ではないのだが、異人に野菜や雑貨を求めにウロウロされては困る。教えを広めないという条件で、長崎ではこんな不文律が成立していた。


 正太の係りは山の上の南蛮寺だ。
 元々は日本の寺院を中国人が借り受け、その後、南蛮寺になったので、色んな様式が混じり合っている。長崎は急な山が湾を取り巻き、人々はその山に張り付くように街を形成した。頂上ともなれば、甍の波や湾を出入りする船も望めるし、特に晴れの日などの翠と碧の対比は鮮やかで目に焼き付くようだ。

 だが、新しい神父はその景色に全く関心がないようだった。
 数週間前、季節外れの嵐の夜にフラリと現れたと思ったら、そのまま居着いてしまった。遠くの海が妙に光っていると漁師の伊佐爺が言ってたし、もの凄い数の死んだ魚が浜に打ち上げられたり、不吉な事さぁと皆で噂していた矢先の事だ。
 正太は未だに神父が『クロス=マリアン』という以上の事は何も知らない。が、子供の彼が神父の世話をするのはそれ相応の訳があった。とにかく新任の神父が変わり者だったからだ。

 普通なら前任者の神父の送迎会があったり、挨拶回りがあったり、何やかやあるものなのに、クロスはそういう習慣を全部省略してしまった。引継といえば、前任者に何やら一言二言告げただけである。それでここの主に治まってしまった。偶然、一緒にいた世話役の話だと『ヴァチカン』とか聞こえたらしいが、世話役はポルトガル語に疎かったし、無論、正太にはさっぱり解らない。
 だが、どうも臨時の対応らしく、前任の神父は別の南蛮寺に移り、ここのミサの為に通 ってくる。どうやらクロスは独りになりたくて、前任者を追っ払っただけらしい。

 しかも歴代の敬虔で温厚で親切な神父達とは全く毛色が変わっている。無口で短気で冷たくて、日がな一日何をする訳でもなく、庭の鶏相手に煙草を吹かし、酒をかっ喰らっている。ワインでないとダメな神父達と違い、異文化の液体にすぐ馴染んだのは助かるが、底なしのウワバミなのは困った。あればあるだけ呑んでしまい、ないと何処かから調達してきて、しかも酒瓶やとっくりを全然片づけない。一晩で部屋が埋め尽くされてしまうので、片づけるだけで一苦労だ。

 何より強烈なのは、その長い赤毛だった。赤鬼といえば、毛唐の異称、攘夷志士の標的である。長崎者は異人に寛大だが、志士も多く集まる場所だ。異人で護衛なしに暮らす者はまずいない。
 クロスはそれを意にも介さず独りを通した。しかも長く伸ばした赤毛を平然と晒し、無精ひげも剃らず、ニコリともしない。一応、十字架を下げ、黒の聖衣は纏っているものの、上に柄物の着物を羽織り、膝を組んで縁側で呑んでいるのでは神父として台無しである。どう見ても、浪人か無法者にしか見えない。

 で、本当に何もしないかと言えば、丸山遊郭から使いがひっきりなしに坂道をフーフー言って上がってくる。既に数人の太夫が彼恋しさに夜な夜な涙に暮れているとか、いないとか。


 こんな神父相手に、かわいい娘や女房を世話に出す家庭はないであろう。幼い正太に白羽の矢が当たったのは、そんな事情だった。いくら不良異人でも、まさか9歳の洟垂れのガキに手を出す物好きはあるまい。
 母親は『得体が知れないから、すぐお戻り』と言うし、姉は『影があって、よか男さぁ』と言う。もっとも、姉に神父と二人きりになる度胸などなかったが。


 正太は初めからクロスが好きだった。
 街の人々の好奇の目も軽くいなしている様も好感が持てたし、誠実を押し売りし、交流を深めようとする神父達より余程自分に正直そうだ。『ありがとネ、正太サン』とニタニタ笑う神父達が、正太はどうも苦手だった。子供扱いしないクロスの方が、普通 のそこらの男達と同じで気が楽だ。
 正太が大好きな隣の兄ちゃんは『男は無口がよか。喋りの奴はいざという時、からきしじゃ。大事な時だけ大事な事ば言うのが本当の男さぁ』とよく言っていたが、クロスはその通 りの人に見える。


 しかし、放っておくと、寺というより、浪人長屋になってしまうので、正太は日に三度は坂を駆け上らなければならなかった。見ている間は縁側で煙草を吸っているようにしか見えないのに、寺中が見る見る散らかり、荒んでいくのである。
 他の神父はこんな風ではなかった。病的な綺麗好きも多くて、掃除も殆どする必要がなかったのに、クロスがいると壁はヤニで黄ばみ、埃が部屋の隅に溜まっていくのである。掃除したばかりでもだ。あの赤くて長い髪が静電気で引き寄せているのか、クロス自身に磁気でもあるのか、気づくと、埃の玉 が部屋の隅を転げていく。
 おかげで、正太はすっかり掃除上手になった。しかし、家の手伝いは嫌々やってるのに、クロス相手だと何の苦にもならない。礼も言わなければ、駄 賃をくれる訳でもないのに不思議な事だ。これが以前の神父だと姉に押しつけて、魚釣りに逃げてしまう事もしばしばだったのに。

(この人は俺がいなきゃダメだな)

 クロスが長い赤毛の頭をボリボリ掻きながら、縁側に座っていると何となくそう思う。根拠はない。あるとすれば時代のせいか。
 時は幕末。長崎は常にきな臭い匂いで一杯だった。正太は志士を知らないが、この時代の空気だけは存分に吸っていた。
 何となくここを離れがたいのは、クロスの周囲にピリリと火薬のような気配を濃厚に感じているからかも知れない。
 小春日和のうららかな昼下がり、鶏に囲まれて、酒を呷るクロスの何処にそんな気配があるのか、まるで説明できないのだけど。


 だから、正太はその日も元気に坂道を駆け上がっていた。クロスはたまに異国の話もする。最後は教訓話で終わる神父達とは違い、何やら生臭くて妙な逸話が多かった。乾いた積み木造りの街ではなく、濡れた裏通 りの石畳の匂いがする。またあんな話を聞かせてもらえるかも知れない。
 正太はそれだけでワクワクしていた。



 が、今日は勝手が違った。

「もう、師匠は! 何ですか、この酒瓶の山はっ! 髪も伸び放題だし、布団は敷きっ放しだし! 干すからせめて畳んで下さいよ! 茶碗もどーして全部戸棚から出すんですか! 一個あればいいでしょ!」

 自分がいつもクロスに言ってるのと同じ怒気が寺から発散している。正太の時と多少違うのは、クロスが縁側で座っているどころか、畳に寝転がっている事だ。

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