ノエル

 

 

(やれやれ)
 マナ=ウォーカーは帽子を拾い上げて、その日の稼ぎを数えた。
 クリスマスということで、いつもより多く『見せ金』を入れておいたのが功を奏したのか、今日の上がりはなかなかである。家族連れも多いし、彼の陽気なクラリネットや手品、軽業は子供達に大受けだった。親の懐も年末に向けて膨らんでおり、子供や妻に対してクリスマス精神を発揮してみせるいい機会だと思ったのだろう。毎日がクリスマスだったら、大道芸という商売も少しは生活の安定を約束してくれるのだが。
(とりあえず何とか年は越せそうだな)
 マナは楽器や商売道具を丁寧にカバンに詰めると、立ち上がって橋のたもとの教会を眺めた。美しい澄んだ鐘が鳴り響いている。
 真夜中になれば、今年も荘厳なミサが行われるのだろう。
 最高の礼服を纏った司祭。マリアベールをかぶった敬虔な信者達。まばゆいばかりに灯されたろうそくで浮かび上がるキリスト像。厳かな深い調べを奏でるパイプオルガン。いと高き天井まで響く聖句。使徒の功績を讃えるステンドグラスは万華鏡のような光を浮かび上がらせ、神の嬰児の生誕を喜ぶ声がこの夜空一杯に満ちるのだ。
 マナは微かに溜息をついた。彼からすっかり遠い場所になってしまった教会に、深い諦念と微かな痛みを覚えながらようやく目をそらす。
(どうも諦めが悪くていけない)
 あれから五年だ。忘れたくても、国中至る所に教会はある。どんな山奥の村にも。神に見捨てられた戦場ですら。嫌でもこの傷は一生引きずっていく事になるだろう。
(……引きずるか)
 マナは自分の左足を見下ろした。我ながら悪い符号だ。戦場で受けた傷は今も彼を蝕み続けている。月に一度、治療で悪化を阻止しなければ、体中に毒が回ると宣告された。月の節目毎につのる傷の痛みはそれが嘘ではないと教えてくれる。あの男は人が悪いから、こういう『遊び』が好きなのだ。
 今日、左足の調子はよかった。クリスマスだから傷ですら神にひれ伏して大人しくしているのだろう。そう思うと、毎日がクリスマスだったらなと思う。
 雪は積もるし、広場で立ちっぱなしで寒さは身体にこたえるが、全身貫かれるような足の痛みに比べれば、まだましだ。
 マナはポケットを叩いた。何はともあれ、クリスマスだ。ハレルヤ。いつもの侘びしい夕食にワインを一本つけて、自分のご褒美にするのも悪くない。禁欲な修道士にも許された唯一の贅沢だ。しがない大道芸人たる自分にだって許されるだろう。
 大通りはにぎやかだった。
 クリスマスの華やかな飾り付けがショウウィンドウを彩り、照明はいつもより赤々と照らされている。肉屋の鳥の丸焼きはこんがり焼けてはち切れんばかり。レストランからはいい匂いが漂い、何処も満員だった。クリスマス最後の買い物を済ませて、家へと急ぎ足で帰っていく人々の顔はどれも明るい。孤独なマナの心すら見ているだけで温かくしてくれる。
 キリスト教徒にとって、クリスマスは家族の為の、家族で祝う祭りだ。
 この日ばかりは恋人達も各々の家族と過ごす。遠距離から故郷へ戻ってきた者も多いのか、通 りは雪も積もる暇がないほど混雑していた。
「おっと」
 お喋りに夢中で道を譲ろうともしない大家族に蹴落とされて、マナは慌てて道の脇に避けた。
 ふと何かが動いたような気がして、建物の隙間に目が行く。
 小さな黒い影が蹲っていた。
 最初はゴミ袋かと思った。下町のアパートの住人はよくゴミを窓から投げ捨てるからだ。
 だが、すぐそれは小さな子供だと解った。かなり小柄だ。まだ5歳程度だろう。栗色の髪は顔の半分を隠し、性別 はよく解らない。手袋の代わりに、左手に薄汚れた灰色の包帯を巻き付けていた。風を避ける為に膝を抱え、小さくなって蹲っている。
 この一見豊かなこの街も浮浪児はごく稀にいた。救世軍が半狂乱になってベルを鳴らし、寄付を募っても素通 りする人間は多い。やはり『貧乏人にクリスマスは来ない』のだ。
 これまでマナに出来る事といえば、夕食に買ったパンを半分分けてやる事ぐらいだった。憐れんでも、自分の上を屋根で覆うのが精一杯の暮らしだ。カトリックは中絶を禁止しているから、孤児院は何処も超満員である。孤児院とは名ばかりの劣悪な所も多いと聞くし、育児放棄に走る親を止めるのは他人には難しい。道端に寄る辺ない子がうろついても、目を合わせないか、野良犬同然に払いのける者が大半である。
 しかし、今夜はクリスマスだ。
 今夜のワインを諦めて、あの子にあったかいミルクとシチューを御馳走してやるという考えは悪くない。自分の孤独な食卓も子供がいれば、幾らかにぎやかになるだろうし、あの子が凍死する幻想も見ずに済む。一時の情けかも知れないが、その手すら差し伸べないのがこの国の現状なのだ。
(じゃあ、まずふかふかのパンでも買うか)
 浮浪児はどの子も世間に踏みにじられている。見知らぬ人間から声を掛けられても、簡単について行きはしない。
(僕を売春宿のポン引きと思ってくれないといいんだがな)
 マナは自分の身なりを見下ろした。元は上等な仕立てだと解るが、さすがに五年も着潰してすっかり型が崩れている。仕事帰りで少し疲れているし、溌剌とした好青年には見えまい。
(まぁ、いいか)
 まずは行動だと思った。飢えた子供はパンを拒否はすまい。それでも疑うようなら、クラリネットを吹いてやろう。子供は音楽を好きなものだ。小さな手品も披露すれば少しは打ち解けてくれるだろう。
 内心、おかしくなった。
 何でこんなに張り切っているのだろう。まだ顔も見ず、声もかけてない相手に。
(多分、自分で何かをしようと思うのが久しぶりだからかな)
 過去を忘れて新しい生活を始めようとした。だが、ことごとく障害に会い、一定地に踏み留まる事も出来ず、流されて、遂に大道芸人にまで落ちぶれ果 ててしまった。
 大道芸は嫌いではないが、未来はない。
 だが、援助と庇護を申し出た友の手をはね除け、自分のプライドを守った故の道だ。友の手は優しく、正論でもあった。いつになく思い詰めた彼を拒むのは辛かった。心身を回復する間だけでもと、甘受するのは容易かっただろう。
 だが、それでは腐ってしまう。前に進めなくなる。そう思ってこの道を選んだ。
 だから、その事を後悔はしていない。
 でも、結局は流されていた。ただ『生きて』いただけだった。それは認めざるを得ない。
 だから、久しぶりだった。誰かと夕食を共にしようなどと。
(あの子が僕の招待に応じてくれたらの話だけど)
 マナは大急ぎでパン屋を探した。
 何処の商店も買い物客で一杯だ。おもちゃ屋は流行の蒸気機関車の模型を奪い合いだし、お菓子屋も宝石のようなデコレーションのケーキが飛ぶように売れている。肉屋は目の色を変えて、鳥の丸焼きの皮を光らそうと、秘伝のタレをかけては巨大なオーブンでクルクル回し、酒屋は惜しげもなくシャンパンの栓を開けては人々に試飲を勧めていた。
 生憎パン屋も行列で待たされたものの、幸い焼きたてのブドウパンとクリスマスクッキーを紙袋に詰めてもらえた。シチューに必要な野菜とバターはまだ少し残っているから、後は肉だけだ。
(少し遅くなったな。あの子がいなくなってないといいけど)
 急ぎ足で肉屋の方に戻ると、何故か人だかりがしている。
(最後の鳥の丸焼きの奪い合いでもしているのかな?)
 入り用なのは、骨付き肉の切り身を少しだけだ。人混みを避けて、店内に滑り込もうとしたマナは騒ぎの理由に気付いてギョッとなった。
(あの子だ!)

 

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