小さな横顔と体つきだけだったが、すぐ解った。栗色の髪と青い瞳。怯えきってやつれた子供が、肉屋の太い腕に掴まれて、壁に押しつけられている。
「ふてぇガキだ!一番大きいもも肉を盗みやがって!」
 子供は締め上げられながらも必死で抗議した。
「痛っ! 僕は盗ってない!店の中にも入ってないよ!」
「嘘つけ! こいつが見たと言ってるんだ!」
 肉屋は自分の後ろに立っている少年を指差した。肉屋のロゴがついたエプロンをしている。この店の雇われ小僧らしい。
「そうだよ、俺は見たんだ!お前がさもしい顔つきで親方の目を盗んで、こっそり肉に手を伸ばしたのを。お前はさっきからずっとショウウィンドウに張り付いて、よだれを流してたじゃないか。俺はずっと見てたんだ。この泥棒猫!」
「違うよ!僕は外からちょっと見ただけだよ!何にもしてない!何にもしてないったら!」
 肉屋は容赦なく子供を振り回した。
「全くどのガキも同じ事を言いやがる!薄汚い野良猫が!さぁ、盗んだ肉を返せ!」
「泥棒は僕じゃない!」
(やれやれ、困ったな)
 事情を見て取って、マナは頭を掻いた。貧乏人にとって面倒は最も避けるべき事態だ。只でさえ、人生そのものが厄介事である。金もなく、バックもなく、援助もない。警察は常に『立派な』市民の味方だ。マナが属する階級、すなわち税金を納めない者はこの時代、人格があるとみなされていない。
 人々の福利厚生の概念は未だ稀薄で、国家も福祉に関心も予算を回すゆとりもなく、伝統的に貴族か教会か慈善家の気まぐれによって、慈善事業は支えられている。
 好きこのんで面倒に飛び込む馬鹿はいない。
 ましてこの少年は見ず知らずで、しかも『手癖が悪い』とレッテルが貼られたばかりだ。街に気の毒な浮浪児は大勢いる。何もこの子でなくても構わないではないか。
 しかし。
(へぇ)
 マナは目を見張った。
 少年は首を締め上げられていたが、肉屋を苦しい呼吸の合間に見つめるだけで、何処にも視線を彷徨わせようとしていない。これだけ群衆がいるのだ。普通 、助けを求めてキョロキョロするか、隙を見つけて逃げ出そうとするだろう。
 だが、少年の唇からは浮浪児にありがちな汚い罵詈雑言も、獣のような憎悪も、卑屈な謝罪も一切漏れてこなかった。苦しい環境で育ったろうに、世間の悪意はこの子を汚す事がなかったのだ。
 周囲を見渡さないのは、たった一人で生きてきて助けなど得られないのが解っているからだろう。暴れないのは、飢えても野良犬に堕ちない強さを持っているからだ。しぶとく生き延びようとするあざとさはないけれど、だからこそ、この子は決して盗みを働いたりしない。
 マナはこの子が気に入った。
「さぁ、来い!警察に突きだしてやる!」
 肉屋は少年の細い首を締め上げた。
「カ……フ…」
 息が詰まって、抵抗を失い、少年は喘ぎ声を上げる。肉屋の顔に卑しい残忍な笑みが浮かぶのを見て、マナは思わず一歩足を踏み出した。
「その手を離しなさい」
「何だ、お前は?」
 凛とした声に肉屋は一瞬怯んだが、マナの貧しい身なりを一瞥し、睨め付けるように見上げた。
「こんな小さい子にやり過ぎだ」
「何だと? 盗人はこれでも足らねぇ位だ。毎日、野良猫どもにどれだけ損害を受けてると思ってる?やっと捕まえたんだ。子供だからって容赦しねぇ。たっぷりお灸を据えてから、警察に放り込んでやる!」
「そうだ!そうだ!」
 肉屋の小僧が声援を送った。
「この子が毎日、盗んでたって言うんですか?」
 マナは少年を見下ろした。少年はいぶかしむようにマナを見上げている。今まで只の一度も誰からも手を差し伸べられなかったのだろう。
「そうだ、こいつに決まっている!」
「それにしては痩せ細っているようですが」
「一回でも盗人は盗人だ! 大体、あんた、こいつの何なんだ!? 盗人の頭か!?」
 肉屋はこれ見よがしに少年を物のように振り回した。少年は苦しがって思わず腕に爪を立てる。引っかかれた痛みに肉屋は少年を壁に投げつけた。
 ビッと少年の左手を包んでいた包帯が裂ける。

 

 深紅。

 

 雪の白さと対称的なその色は一層目を引いた。怪我をしているのかと一瞬見間違えた程だ。
 刹那、ほどけた包帯から異形の手が覗いた。幼児の手には思えぬ程、異常な皺にまみれている。関節はまるでからくり人形のようだ。手のひら全体が変形し、歪に膨らんでいた。漆黒の爪が禍々しい。しかもどうやら腕までそれは続いている。
 一瞬、居合わせた全員が言葉を失った。
 岩をひっくり返すと虫がたくさん這い出てきたような不快感を覚える。少年の顔がかわいいだけに、その手は余りにもおぞましい。凝視と、目をそらす者に人々は真っ二つに分かれた。
「………き、気色悪ィ! 何だ、そりゃ!? ば、化け物だ、こいつ!」
 肉屋は思わず総毛立てて指差した。地面に唾を吐いて、後ずさりする。少年は思わず左手を隠すように右手で覆ったが、遅すぎた。両膝をついたまま、項垂れる。その姿に首を締め上げられた時のまなざしの強さは、もう何処にもなかった。
「大丈夫かい?怪我は?」
 肉屋の罵倒や人々の蔑視から守るように、マナは少年の傍らに片膝をついた。人の気配に少年は身をすくませる。だが、痣の浮いた首筋だけでなく、躊躇いもなく肩や腕に触れられて、少年は声もなく、マナやその触れている手を見つめた。
「大丈夫のようだね」
 と呟き、マナは少年に笑いかけた。少年はただ息を飲んで彼を見返している。
「化け物とはあんまりだ。この子に謝りなさい」
「化け物は化け物だ! こんな薄気味悪い手、見た事ねぇ! 大体お前ェ、さっきから…!?」
「僕はこの子の父親です」
 マナはサラリと言った。肉屋も群衆も、少年ですら驚愕してマナを見つめる。

 

前へ  次へ

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット