(……大きい)
 アレンは思わず宿の全景を見回した。
 背後に鬱蒼とした森がある、かなり大きな旅籠だった。駅馬車が停車するターミナルも兼ねているらしく、カンテラに照らされながら、交代の馬達と馬具の付け替えが行われている。街中の格式の高いホテルとは趣が違うが、石材と木を組み合わせた凝った造りなので、それなりに由緒正しい老舗なのだろう。
 五階建ての部屋は明かりが全部灯され、馬車や御者達が通っては長く、短く影を落とす。マントルピースの上の置物や複製の風景画、巨大な暖炉、大きな模様の壁紙がいかにも宿屋らしい。厚い絨毯が引き詰められた立派で広いロビーには馬車の到着のたび、客の鳴らす呼び鈴が響き続けている。
「アレン、危ないよ」
 思わず見とれたアレンの肩をマナは優しく抱いた。夜行の最終便が動くラッシュ時だ。馬車の通 行の邪魔にならぬよう、大きくロータリーを迂回する。
「マナはここに泊まってるの?」
 アレンは大きく吐息をついた。教会以外立派な建造物に縁のない人生だったが、この大きな街で彷徨う内、素晴らしい石造りの銀行や劇場など幾つも見た。この宿は上流階級の人間が泊まる程ではないが、休息を取る分には申し分ない。
 孤児院の石みたいなベッドと薄い毛布しか知らないアレンは、一度でいいから『ベッドの上で跳ねて』みたかった。マットレスや羽布団(!)が痛むからいけないと言われるだろうが、一度くらいならマナも許してくれるかも知れない。
「……まぁね」
 マナは何とも言えない曖昧な笑みを浮かべたが、アレンは宿の飾りや馬に見とれて、それに含まれた苦さに気づかなかった。旅装束の美しい淑女達や大きなトランク。シルクハット。マフ。洋傘。ボンネット。優美で地面 につきそうな程長いスカート。どれも華やかで美しい。
 でも、アレンのお気に入りは馬達だった。手入れもよく、たくましい筋肉は盛り上がり、毛並みもツヤツヤとして、一晩中走っていられそうだ。汗と埃にまみれた馬達の全身からは湯気が立っている。
 田舎で見た馬達はどれもあんなに立派ではなかった。馬具に擦り切れて毛が抜けた革と、生気のない目をした貧弱で疲れ切った馬ばかりだった。
(あの馬達のビロードみたいな鼻面を撫でてやれたらステキだろうな)
 動物達はアレンの左手など気にしない。馬達はアレンに撫でて欲しくて、顔を擦り寄せたり、人参が欲しくて袖を優しくしゃぶったりするだろう。
 玄関に向かおうとするアレンをマナは呼び止めた。
「おいで、こっちだよ」
 マナは裏手に続くこじんまりとした門扉を開けていた。雇い人や納入業者用の通 用口だ。アレンは少し戸惑った。
(大司教様もお辞儀をする人なのに、何で玄関から入らないんだろう)
 まぁ、いいやとアレンは思った。マナは魔法使いだから、きっと普通の人達とは別 の出入り口を使うのだ。
 裏手は静かだった。にぎやかな食堂や中庭に抜ける小道はいくつもあるが、雑木林のせいで客からは比較的目に触れないようになっている。アレンは木々の間から宿の灯をチラチラと見た。にぎやかで楽しそうだったが、マナについて歩く方がワクワクした。真っ暗で足元もおぼつかないけれど少しも怖くない。何だか神秘的な魔法の小道を行くみたいだ。あそこにいる人達は彼らがいるのに気づいていないという所も面 白かった。
(きっと僕らは見ても『見えない』んだ。魔法にかかってるから。ここは誰も知らない秘密の道なんだよ)
 不意にポカリと小さな広場に出た。ちょうど宿屋に隣接した酒場の裏手になっているらしい。窓からクリスマスを踊り明かそうと着飾った人々の笑い声や音楽が漏れ出ている。その僅かな光が広場で立ち尽くす二人をぼんやりと照らしていた。

「もうちょっとだからね」

 マナが重い商売道具を持ち直した時、裏口が開いた。空き瓶のどっさり入った箱を抱えたシェフらしい男が出てくる。扉を開けた事で中の陽気な楽団や歓声が一層はっきりと夜に流れ出した。闇の中にいる人影に気づいて不審そうな顔をした。
「誰だい」
「僕だよ、御主人」
 マナは光の下に歩み寄った。アレンはその後を慌てて追う。今夜はこれ以上知らない人と関わるのが嫌だったが、仕方がない。マナの背中に隠れるようにして立った。
「何だ、今夜は遅かったじゃないか、マナ。あんたがいるといないとじゃ楽団のノリが違うから、みんなでやきもきしてたんだ。すぐ用意をしてくれ。クリスマスにミサにも行かない罰当たり共に、景気のいいメロディを御馳走してもらおうか」
「いや、今夜はまだ遅くなりそうなんだ。僕もクリスマスは家族と過ごしたいんでね……アレン、ご挨拶なさい」
 マナは振り返って、彼のコートに縋り付いているアレンを促した。アレンは酒場の主人を見上げる。肉屋のように太鼓腹で大柄だが、遙かに人のよい顔をしている。白髪交じりのまばらな髪を掻き上げ、意外に素早い茶色の瞳がザッとアレンの品定めをした。
「こ、こんばんは」
 コートを握りしめたまま、アレンは頷くようなお辞儀を一つする。
「ハハ、こりゃ驚いた」
 主人が腹を揺すり上げて笑い出したので、アレンはビクッとした。何か彼のカンに触るような事をやってしまったのだろうか。
「かわいい子じゃないか、マナ。礼儀正しい、いい子だ。何処からさらってきたんだい? 朴念仁かと思っていたら、しっかりこさえてたのか」
「人聞きの悪い。僕は女を泣かすような真似はしてないよ、ご主人。
  この子は僕のクリスマスプレゼントさ。もらえるまで随分苦労したけどね」
 マナは笑った。
「神は常に試練を与え賜う。簡単にもらえる物に価値なんかないと、俺のお袋はよく言ったもんだ。よろしくな、坊主」
 主人はわしわしとアレンの頭を撫でた。うっすらとニンニクやハーブの匂いが漂う。真っ赤になったアレンがマナの背後にますます引っ込んだのを見て、二人は笑った。
「でも、まさかこの子とあそこに暮らすつもりじゃないだろうな」
「そのつもりだよ。今夜はこれからクリスマスディナーなんだ」
 主人は溜息をついて頭を掻いた。
「あのな、マナ。前から何度も言ってるが、俺の所で働かないか? 実際、そのバイオリンは大したもんだ。俺の宿なんて勿体ない位 さ。あんた程の音楽の腕があれば、何処ででも雇ってもらえる。いい部屋にも泊まれる。何も旅芸人なんかしなくても……」
「その答は何度も繰り返すけど、ノーだよ。すまない。気持ちだけは嬉しいんだ、本当に。
 でも、今年一杯という約束は止めて、この冬中はここで泊めてもらうよ。この子を連れて、旅には出られないからね」
「そりゃ、その方がこっちは嬉しいが。今日だって来てるぞ。劇場の支配人が。あんたをどうでもオーケストラの一員にしたいらしい」
「お百度参りされたって、出来ないものは出来ないんだよ。あなたから断っておいてくれないか、ご主人」
「あんたから言いな、マナ。気が狂ってるよ、本当に。あの劇場は国中の演奏者が列をなして入団希望をしてるってのに、あんたはまぁ……」
 マナは頑なに首を振っただけだった。主人は大きく溜息をつく。
「とにかく後でな」
「ああ」
 マナは歩き出した。主人はマナの背中を見送っていたが、もう一度大きな溜息をついた後、扉を閉めた。小道はまた闇に包まれる。


「マナ、僕、初めていい子だって言われたよ?」
 アレンは主人の手の感触を反芻していた。マナといると奇跡ばかり起こる。大人達の会話はよく理解できなかったが、主人がいい人そうなのが嬉しかった。
 返事がない。
 マナは黙って闇を見つめていた。
「マナ?」
 アレンは心配になってマナを見上げた。ほんの少しの間、マナの横顔が誰も寄せ付けない厳しいものに思えたからだ。
 だが、アレンの声に目を向けたマナの顔は、もういつもの顔に戻っていた。
「あの人はね、この宿屋のご主人なんだよ。腕のいい料理人さ。何も総支配人自らフライパンを握る事はないんだが、あの人は気さくな人だし、フロントでの受付が嫌いなんだ。これで君もこの宿のお客さんさ、アレン」
 それでも、少しだけマナの心はここにないようだった。
  酒場の音楽が小さく遠ざかった頃、闇の中でやるせない溜息が一つしたのを、アレンは黙って聞いた。

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