「さて、家に帰ろうか」


 マナは右手をアレンに伸ばした。
 必然的に左手を差し出す事になるので、アレンは躊躇する。左手は包帯をしていても、右手やポケットで隠すのが癖になっていた。手袋をしていても、その習慣は変えられない。
 それに今まで誰からも進んで抱き上げられたり、手を繋いでもらった事はなかった。孤児院でも移動の際、やむを得ない時だけだ。しかも貧乏くじを引いたような顔で、伝染するのを厭うように行われた。
 こんな血のように赤くて、醜い皺だらけの手。アレンだって好きではなかった。手を洗えば直るかのように、毎日何百編も洗った。入浴の時は、かさぶたを洗い落としたいかのように乱暴にタワシでゴシゴシ擦った。だけど、水で荒れるのは右手ばかりで、それで一層左手が憎らしかった。包帯で巻いているのも、人目に触れる事よりずっと、アレン自身が見たくなかったのだ。
 なのに、どうしてこの青年は平気でアレンを抱き上げたり、触りたがったりするのだろう。どうしてごく自然に笑いかけてくれるのだろう。勿論、手は繋ぎたかった。でも、その笑顔が眩しくて、気後れして、アレンはおずおずと右手を差し出した。
「駄目だよ、アレン。こっちだとアレンが道路側になってしまう。危ないよ」
「でも…」
 アレンはうまく説明したかった。だが、五歳児の言語のボキャブラリーは多くないし、アレンは他人と話す機会を殆ど持てなかった。『あれをしろ、これをしろ』という命令か嘲り、拒絶や悪口。友達など只の一人もいない。負けず嫌いだったから、悔しくて子供同士の時は喧嘩になった事もあるが、保母達に嫌われていたアレンは大抵一方的に罰を受けた。
 だから『危ないよ』という思いやりのある言葉など聞いた試しもなかった。
「アレンは人と手を繋ぐのに馴れてないんだね」
 マナはアレンの目線になるようしゃがんだ。見下ろされている事での威圧感が消えて、アレンは少しホッとする。
「……うん」
 アレンは少し俯いた。この人に嫌われたくなかった。アレンが今まで生きてきた中でただ一人『ごく普通 』に接してくれた。あの怖ろしい肉屋から救い出して、しかも魔法みたいに戦利品のでっかい丸焼きを頂戴したのだ。
 なのに、あの肉屋は何となくマナに負けたのが悔しいどころか、一目置いているみたいだし、アレンより醜い足を見せたのに全然嫌ったりなんかしなかった。お客さん達もマナの音楽や手品に浮き浮きして笑ったり、聞き惚れたりしていた。
 マナは堂々としていた。伝説のアーサー王の前に立つ大魔法使いマーリンみたいに。
(こんな人になりたいなぁ)
 心から思った。驚きと喜びと崇拝で、アレンはマナから一瞬たりと目を離す事が出来なかった。
 だから、マナから一緒に暮らそうと言われた時は聞き違いかと思った。今までの不運が全部裏返って、みんな輝く金貨になって空から降ってきたみたいだ。  だから。だから、手を繋ぎたかった。
 でも、左手はアレンの深層心理にへばりついた棘だった。そんなにすぐ人に明け渡せるものではない。
 だが、嫌われたくなくて、アレンは必死でマナの目を見た。
「マナは…マナは僕の手と繋いでも…イヤじゃない?」
 マナの目が優しく見開かれた。
「どうして?」
「どうしてって…僕…」

(手が醜いから)
(伝染しちゃうから)
(汚いから)

 色んな言葉が駆け巡る。だが、それを口にする事すら汚らわしく、悲しくて、アレンは何にも言えなくなってしまった。
 マナは微笑んだ。それは『解ってるよ』という笑みで、アレンはそれに縋り付きたくなる。
 本当に…本当に解ってくれる人がいるんだろうか? そんな幸運を信じてしまっていいのか? 期待して、裏切られて、もうやめよう、何も感じないでいればいいと、何も期待しないでおこうと思っていたのに、まだ?


「じゃね、アレンは僕の足をどう思う?」


 アレンは思いがけない言葉に目をパチクリさせた。
「こんな足の人と手を繋ぐなんて、気持ち悪いかな?」


 アレンは呆気に取られた。尊敬して、崇拝して、優しくしてもらいたくてたまらない人が、誰よりもこの人が自分が思っているのと同じ言葉を言うなんて。
 アレンはブンブン首を振った。マナの足どころか、手や顔も醜くたって、アレンは喜んで手を握りたいと思っただろう。
「僕も同じだよ。アレンが僕なんかの手を握ってくれなかったらって、怖いんだ。凄く怖いんだよ」
「本…当?」
 アレンはおずおずと自分の手を見下ろした。

(本当かな? 怖いって本当にそう思ってるの?)

 尚も躊躇っているアレンの右手を、マナはそっと片手で包み込んだ。ゆっくり手袋を外す。今度はアレンも手を引かなかった。只、自分の前で何でもないように行われている『奇跡』をまじろぎもせず見つめていた。
「ほら、冷え切っている。後で薬を塗ってあげるよ」
 マナはアレンの手を両手で擦り、左手にも同じ事をする。アレンのあかぎれやしもやけだらけのかじかんだ手に血が通 いだした。マナは仕上げにフーッと暖かい息を吹きかける。どうかなと呟いてから、小さい両手を頬に当てた。

「ほら、あったかい」
 マナは笑った。

「同じだよ。僕と同じ。両方とも、みんなと同じ普通の手だよ」

 普通の。
 同じ。

 アレンは笑っているマナの顔に、言葉に、心が洗われていくような気がした。


 同じだよ。


 本当にそれだけ。それだけ言ってほしかったのだ。誰かに。


 アレンの大きな碧い瞳に涙が浮かんだ。涙が浮かんだ事に驚いた。マナの顔が歪むのが悲しいと思った。風景が滲むのを残念に思った。全部、今を、この瞬間を鮮明に覚えておきたかったのに。
 マナの笑顔が壊れて見えるのが、惜しくて、嬉しくて、胸が一杯で、どうしようもなくて、アレンの目からポロポロ涙がこぼれ落ちる。
「ああ、ごめんね。泣かしちゃった。ごめんね?」
 マナが困っている。道行く人がマナが泣かせたと思って睨んだり、微笑ましいと思って笑ったりしている。
(ごめんなさい…でも、マナのせいじゃないのに、何で謝るの?)
 アレンもごめんなさいと言いたかった。大通りで泣いて、困らせてごめんなさいって。もう何年も泣いた事なんかなかったのに。胸の途中で大きな壁があって、そこで全部涙が止まっていたのに、何で突然泣き方を思い出したんだろう。何でこんなに涙が止まらないんだろう。
 何で声も立てられない程泣いているんだろう。もう、どんなに悲しくても平気だったのに、それすらかわいげがないって、嫌われていたのに。
「急に涙の蛇口が取れちゃったのかな?」
 マナがハンカチでアレンの涙を拭いている。
 お願い、跳ね退けないでと祈りながら、両手を伸ばす。自分から初めて人に向かって手を広げる。
 アレンはマナに抱きついた。
 マナの優しいぬくもりが返ってくる。
 頭を撫でられる優しい手が。

(もう何もいりません、神様)

 アレンは思った。
 クリスマスプレゼントなんかいりません。
 この人が何もかもくれるから。


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