「……僕にお客さん? 珍しいな」
 マナは音も立てずに降り立つと、引き戸を開いた。内から開けたので驚いたのだろう。宿の使用人が目を丸くして彼を見返した。
「やぁ、もう演奏の催促かい?」
 無口な使用人はグッと籠を突きだした。
「…ご主人が持ってけって」
「ああ…ありがとう。メリークリスマス」
「メリークリスマス」
 朴訥な顔に笑みも浮かべず、使用人は去った。マナは籠にかかったナプキンを取り除ける。カードを読み、思わず大声でアレンに呼びかけた。

「アレン! あったかいシチューと飲み物の差し入れだよ。気の利かない僕の代わりに、君へのクリスマスプレゼントだってさ!」

「……僕に?」
 アレンは目をパチパチさせた。驚きと嬉しさで足が地に着かない気がする。二階の柵の間から手を伸ばし、マナから籠を受け取った。
「どうして僕に?」
「君が余程気に入ったんだろうね」
マナは笑った。アレンは籠を抱きしめたまま、スープの入った壺やコーヒーやミルクのポットを見つめる。

初対面から顔を顰められる。距離を取られる。どんな病気なのと保母達が囁き合ってるのを見たり、聞かされたりするのが新たな孤児院に着いた時の儀式であり、人とのつき合いの始まりであり、終わりでもあった。
 かわいい子供は言葉や態度に傷つく事はあっても、醜い子供は胸を抉られる事など決してないという法則でもあるかのように。
 アレン自身は特に努力もしていない。なのに、何が変わったというのだろう。
 マナと出会ってから、みんな物事がいい方に転がっていく。

「どうした、アレン。温かい内にいただこうよ?」
 マナは鳥の丸焼きを切り分けながら言った。
「…ねぇ、マナ。今度はどんな魔法をかけたの?」
「ハハ、やっぱり僕は魔法使いかい?」
 アレンはこっくり頷いた。マナは肩をすくめる。
「だとしたら、今日という日に魔法がかかっているのかも知れないね。今日はクリスマスだから」
「…じゃ、明日になったら解けちゃわない?」
 マナはちょっと片眉を上げた。
「解けたら、またかければいい。明日も明後日も。
 だけど、魔法なんか、もう僕はいらないよ」
「どうして?」
 アレンはびっくりした。魔法使いが魔法を捨てるなんて信じられない。
「だって、君に出会ったからさ。君が僕を幸せにしてくれる。だから、僕が君を幸せにしてあげる。それで充分だよ」
「…分かんない。僕は何もしてないよ?」

(この子は賢いな)

 戸惑うアレンを見ながら、マナは一人ごちた。幼子はただ状況を受け入れ、順応する。それがどんな歪な世界でも。アレンのように状況を見極めようとするなど滅多にない。そうする事がアレンが世間の毒に染まらずに済んだ理由なのかも知れなかった。
「だって、僕一人じゃ鳥の丸焼きもシチューも食べられなかった。アレンのおかげさ。君がいなければ、今夜はワイン一本で我慢していただろうね」
「どうして? 僕は…」
「ただ、いただけかい? でも、だから僕は肉屋相手に頑張れたし、宿屋のご主人は君が『いい子』だと思ったから、プレゼントを贈る気になった。
 僕にとっては、君こそ神様からの贈り物さ」
「僕が?」
「最高のクリスマスプレゼントだよ」
「…本当?」
「本当さ」
 アレンは胸が痛い程疼いた。世界は変わったんだろうか。僕のいた世界。寒くて遠かった世界は、もう終わりを告げたのだろうか。
 あの時、思い切って馬車を飛び降りてなかったら。
 あの音楽を聴いてなかったら。
 この人に出会えなかったのかも知れない。
(そうだ、マナならあの曲の題名も知ってるかも)
「じゃ、アレン。メリークリスマス」
「メリークリスマス」
 両手をテーブルで組んだアレンは、いきなりマナが食事を始めたのに驚いた。

「お祈りしないの?」
 教会付きの孤児院では何処でも何かにつけ長たらしい祈祷の後、日々の行事が行われる。それを怠る者は最大の罪の一つに数えられたものだ。食前の祈りを省く事など考えられなかった。腹痛になるのは(実際は明白に不衛生が原因だったにせよ)感謝の心が足りないからと何度説教されたか知れない。
 それとも、それも一般家庭は信心深さが重きを置かないのだろうか。
 マナはほろ苦い顔をした。

「…うん。僕はもうしないんだ」
「どうして?」
「足が痛くなるからね」
「どうして?」
「僕の足は神様が大嫌いなんだよ」

 冒涜的発言をしているにも関わらず、マナはあっさり答えた。その表情に罪悪感の影は伺えなかった。
「僕がしても痛くなるの?」
「…うーん、きっと大丈夫だよ」
「………じゃ、しない」
 アレンは組んだ両手を放した。少しでも可能性があるならイヤだ。神様への義務より、マナの方が大事だった。
 同時に刷り込まれていたと思っていた習慣を、いともあっさり捨ててしまえる自分に我ながら驚いた。同時に胸が軽くなったのに気づく。自分の中には子供らしい単純な信仰心しかなかった。むしろ神様より孤児院の幻影から逃れたかったのだ。
 マナは笑った。
「でも、した方がいいよ。僕の真似なんかしないでいい」
「ううん、いいんだ。感謝はもう一杯したもん。神様だって解ってくれるよ」
「でもね、アレン」
「マナはどうなの? マナも神様が嫌いなの?」
 一瞬、マナは言葉に詰まった。少しだけ眉をひそめ、苦しそうな微笑を浮かべる。
「…難しい質問だね」
(しまった!)
 アレンは思った。マナにこんな顔をさせた事がひどくつらい。だが、どうしても納得できなかった。大司教からの拝礼を当然のように受け入れたマナと、今の彼の表情が重ならないのだ。
「マナ、神様はいるんだよね?」
「いるよ………残念ながら」
 マナは少し天を仰いでから、笑った。
 アレンは当惑する。何故『残念ながら』と付け加えるのだろう。キリスト教徒にとって、神が天においでになると確信するのは、一番大きな意味を持つものなのに。
 その瞬間、アレンは重大な事に気づいた。


「…マナは、神様を捨てちゃったの?」


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