「ピュア・キャット・とらいあんぐる」

 

 ハァ…と、小さな溜息が漏れた。


 アレンは宿を見上げた。部屋の窓に明かりが灯っている。ティムキャンピーがヘロヘロ飛んでいる影が写 っていた。

(……いるんだ)

 アレンはコートのフードをますます深くかぶり直した。
 いつも女の所を遊び歩いているか、酒場に入り浸っている癖に、今日に限って何故いるのか。
 いずれにせよ、師匠に相談すべき事態だったが、今夜はショックが強すぎて、布団をかぶって寝てしまいたかったのだ。
 しかし、狭い宿である。どうあっても、師匠の前で着替えをせねばなるまい。
(あああ、怒られる。絶対、怒られる)
 普段、アレンの事は放任主義のくせに、こういう時だけ勘が鋭い師匠の事だ。コートのまま寝たりしたら、目聡く見つかって、絶対難癖をつけてくるだろう。
(ああ…帰りたくないなぁ)
 解っているのに、帰る場所があそこしかない。
 旅芸人の暮らしで野宿はなれてはいても、冬は無理だ。それに帰らなければ帰らないで、朝帰りなどすれば二倍返しを喰らうだろうし、逃げたりすれば三倍返しだ。
(いや、五倍返しかも…)
 アレンは震え上がった。愛に満ちあふれていたマナとの生活が懐かしい。
(エクソシストになるより、サーカス団の団長にムチでぶたれていた方がマシだったかなぁ)
 マナの葬儀の時『来たけりゃおいで』という誘いがあったのだが、放心状態のアレンは殆ど聞いていなかった。
 身体が重い。下腹部がズキズキする。胸元から体温で立ち上ってくる甘い香りに目眩がして、アレンは気を取り直すように大きく息を吸い込んだ。仕方なく宿に向かう。とにかく風呂に入って身体を洗いたかった。
「あんた、宿代が嵩んでるよ。今夜はこれでいいけどちゃんと全部払ってくれるんだろうね〜。食堂も今夜はもう閉めちゃったから」
「すいません。ちゃんと明日には払いますので」
 フロントに頭を下げながら、アレンは溜息をついた。師匠はやはり今回も宿代を踏み倒す気でいる。何とか裏酒場に入り込み、カードや競馬で稼いだ金もただ目の前を通 り過ぎて行くだけだ。
 どうして13歳の子供が、いい大人の生活の何から何まで面倒をみないといけないのだろう。他の弟子達の生活は知らないが、みんなこんなものなのだろうか。
(あああ〜、気が重い)
 アレンは階段に足をかけた。せめて今、風呂に入ってるとか、女連れ込んでるとか、さもなくば酒に酔い潰れてくれるといいのだが。
 だが、師匠にとってワインは水のようなものだ。酔い潰れた姿など見た事がない。ああ見えて怖ろしく隙のない男だから。
 アレンは胸元を掻き併せ、のろのろと階段を昇っていった。

 

 

「遅い!!」
  ドアを開けた瞬間、アレンの耳元にナイフが突き刺さった。
「ヒイッ!」
 アレンは涙目になって、ドアに縋り付く。
「この寒空の元、帰ってくれば、部屋は真っ暗。暖炉の火は落ちてる。あったけぇ風呂の用意もメシの支度もしてねぇとはどういうつもりだっ!」
 見事な赤毛の下から鋭い眼光がギラリと光った。
「し、師匠、落ち着いて下さい! そ、それは…っ!」
 アレンは精一杯宥めようと両手を上げた。騒ぎに気付いた客達の顔が『何だ何だ』と一斉に周囲のドアから覗く。アレンは慌ててドアを閉め、そのまま扉に張り付いた。
「寒風吹きすさび、男心も侘びしい冬の夜。帰宅を急ぐ靴音も冷たい石畳に虚しく響く。この世知辛い世の中だ。凍えた男をあっためてくれるような女もそう簡単には見つからねぇ。
 だが、待て。俺にはかわいい弟子がいる。綺麗なシーツにバラの花びらを浮かした湯船。燃えさかる暖炉の脇には極上のワイン。男の帰宅ににっこり微笑むかわいい愛弟子。疲れた男の肩からコートが取られ、テーブルにはうまそうな夕餉が湯気を立ててる………かと思えば、何だこれは――――!!」
 ドカドカドカッと人型を刳り抜くようにアレンの周囲にナイフやコルク抜き、フォークに至るまで鮮やかに突き刺さった。

(ヒ、ヒェ〜ッ! きょ、今日は講釈が長いっ!)

 声もなく涙目のまま、アレンは竦み上がっていた。怒った時、講釈をたれるのは師匠の癖だ。クロスは面 倒臭がりで、二人でいる時はタテの物を横にもしない程、グータラで偉そうにふんぞり返っているが、アレンがもたもたしていたり、気が利かないと途端に機嫌が悪くなる。
 怒れば怒らせるほど、嫌味が文句になり、文句が講釈に変わる。
 つまり、怒りのボルテージが高くなるのだ。
「だ、だって、だって…」
 アレンは何とか言い訳を並べようとした。
 師匠と弟子の関係になったものの、殆ど何も教えてくれない。
 もっと喰え。体を鍛えろ。アクマを見るな。俺がいない限り、気づかない振りをしろ。
 最初にそう言ったきり、外で遊び歩き、ろくすっぽ宿に寄り着かず、たまに戻ってくれば、女連れ込んで外に放り出されるか、反対に息も詰まる程抱かれるか。
 レストランでも背筋が凍るような高い物を頼むし、気がついたら一人置いてかれて、閉店まで皿洗いさせられた事は数知れず。
  暇だったら、金稼いでこいと言われ、人並みに働いた金はシケた稼ぎだと鼻で笑われる。師匠の作る借金に追いつかないので結局今はギャンブル一本だ。
 愛人や知人宅に強引に泊まり込んだ上、一ヶ月近くも行方をくらますのは毎度の事。肩身の狭い思いをして、ひょっとしてこのまま置き去りにされるかと心配し通 したアレンの前に、突然現れて理由も言わずにアレンの首根っこをぶら下げたまま列車に飛び乗って、また次の旅に出る。
 たまにいるかと思えば、今度は梃子でも動かない。ベッドやトイレで新聞を読んでいるか、ワイン喰らってムスッとしている。笑わない。一日の半分は機嫌が悪い。何の脈絡もなく押し倒される。天井で黄色いハエみたいにティムキャンピーが飛び回っている。一時間もたたずに部屋を酒瓶だの雑誌だので汚し、ベッドに上がる時ですらブーツを脱ごうとしない。そんな爛れた生活が半月ほど続く。
 そして、消える。
 書き置きもない。
 それが師匠との生活だ。
 それでどうやって今夜の帰宅を予期しろと言えるのだろう。
「ひょっとして、いい女が捕まらない時の性欲の捌け口兼家政婦というのが『エクソシスト』の事なんですか?」
 と、何度口をついて出そうになった事か。
 今の講釈だって、平たく言えば『女漁りに行ったけど、軒並み振られて、寒いんで帰ってきたら、アレンは外出中でした。プンプン』とそれだけの意味である。
「だっても、クソもねぇ…」
 師匠は鼻に皺を寄せた。フンフンと匂いを嗅ぐ。
「何だ?この甘ったるい匂いは?」
「え?いや、その……シャツにシロップこぼしちゃったから」
 師匠はギロッとアレンを見下ろす。
(バ、バレたかな?)
 アレンは落ち着かず、目をそらした。
「シロップだぁ? おやつとは金があるんだなぁ、馬鹿弟子クン」
「い、いえ、その……」
「出せ、こら」
「なっ、何をですか?」
「金だよ。懐があったかいんだろ、クソ弟子。それで許してやる」
「あっ、ありません!あっても出しません!これは大事な生活費…」
「グダグダ言わずに出せっ!気分直しに飲み直す!」
「ヤです!」
 アレンは必死に首を振った。師匠といいつつ、ロクに稼ぎもしないし、生活費も入れない。本当の本当にエクソシストなのか?
 飲んでは女と遊び歩き、幼い弟子が必死で稼いできた金を無理矢理巻き上げるなど、これではヒモと売女の生活ではないか。
(マナ……マナ…どうして死んじゃったの?)
 祈っても、せっかく甦ったマナを自分でぶち壊したのだから世話はない。そう思うと情けなくて涙が出る。
「逆らうんじゃねぇよ、馬鹿弟子!弟子の物は師匠の物。師匠の物は俺の物だ。出せったら、出せ!」
 クロスは椅子から立ち上がった。アレンの胸元に手を突っ込む。
「ヤですって!……っつ!痛っ!」
 思い切り胸を掴まれて、思わず目に涙がにじんだ。異変に気付いた師匠と目が合う。お互いに凍り付いた。
 クロスは手を離し、軽くアレンの胸を叩いてみた。


 弾む胸の感触。


「……………」
「……………」
 微熱。
「……………」
「……………」


 クロスはアレンのコートの胸元を無理矢理広げた。まぎれもなくふっくらと膨らんだ二つのものがパウダーブルーのセーターを一杯押し広げている。
 クロスは無言でそれを軽く掴んだ。

 ふに。

「……………」
「……………」



「何だ、これは―――っ!!!!!」



「わ〜ん、すいません!すいませんっ!!」
 アレンはクロスの手から必死に逃げようとしたが、クロスは乱暴にコートを掴んで引き戻す。
 その拍子にフードが脱げた。

 

 ぴょこ。

 

 二つの猫耳がアレンの頭の上でピンと立つ。

 

「……………」
「……………!!」

 

 アレンは慌てて胸元とフードを元に戻そうとしたが、もう遅い。

 

 

「アレン――――ッ!!! 死にてぇか、このクソ弟子!!」
「わ―っ!!許してっ!ごめんなさーい!!」
「許せるか、バカが!」
 クロスは片手に黒く光る金槌を握りしめ、アレンのコートの裾を足で踏みつけた。
「女体に猫耳たぁ、俺の前でいい度胸じゃねぇか、クソ弟子。一体、今まで何処で何してやがった? ええ?
 話によっちゃこの場で解体して、マナの墓の前に投げ捨てるぞ、こらぁ!」
「そ、それだけは許して下さいっ!」
 アレンは怯えきって、首をブンブン振った。そのたびに胸元から部屋中に甘いいい香りが放たれ、噎せ返るようだ。猫耳が垂れ下がり、ピルピルと震えている。大きな青い忘な草色の瞳が涙で瞬き、さくらんぼ色の唇が物言いたげに軽く開いていた。
 美少女などに興味のなかったクロスですら幻惑されてしまいそうになる。
「ち、ちくしょう! この野郎! かわいこぶるんじゃねぇ!」
「べ、別にかわいこぶってなんていませんてば!」
 アレンは囚われの少女のように壁にしがみついた。クロスの身体がのしかかっていて、身動きできないのでそうしたのだが、しなやかで柔らかい身体が壁を伝う蔓草のように華奢でしどけない。少年の時とは比べ物にならぬ 扇情的な姿に、クロスは唾をゴクリと飲み込む。
(わ、解ってないでやってんのか、こいつ)
 凶悪な劣情がこみ上げてきて、それを散らす為、クロスは冷酷な目でアレンを見下ろした。
「どう見ても、これは『呪い』だな。しかも露骨に顕れるとは、思い切り凶悪でしつこい奴だ。話せ」
「あ、あの…」
「聞こえん」
「だから!ポーカーしてたんです!宿代を作る為に!」
 アレンは必死で声を張り上げた。
(声まで鈴を振るようなのになってやがる)
 クロスは内心歯ぎしりした。声だけでも男の嗜虐心を煽るに充分だ。
「それで僕、見たんです。双子の女のアクマが男の人にうまい事言って裏口から連れ出すのを。僕、危ないって思って…止めようと後をつけたら…」
「バカ弟子」
 クロスの声が地を這う如きになった。
「無能なくせに、一人でアクマに近づくなと何度言ったら解る!!」
「すいません、すいませんっ! で、でも、殺されるの黙って見過ごすなんて出来ません!何とかなるんじゃないかって思って…」
「ふざけんな! 戦いのイロハもロクに知らない奴に何が出来る!? 思い上がるんじゃねぇ!  いい武器持っていたって、まだ使いこなせないお前には宝の持ち腐れだ。殺されなかっただけありがたいと思え!」
「だって、師匠は何も教えてくれないじゃないですか!何にも!だけど、だけど、僕は見えるから!何もしないでいられないから!」


次へ  Dグレトップへ    

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット