兄の名残惜しそうな指をそっと放して、アルは立ち上がった。
(何やってんだろ、僕)
 却って切なくなっただけだった。兄も自分も苦しくなっただけだった。子供じみた甘えがどんどん許されなくなっていく。そう実感させられただけだった。
 洗面所に入ると、一層ガションガションと鎧の金属音が部屋に響きわたる。
(鎧のくせに)
「…バカ」
 しょう事なく呟いて、洗面器の水をタンクに捨てる。
 ふと鏡を見た。
 兜が自分を見返していた。兜に表情などない。ぼんやりとほの赤い光が二つの穴に灯っているだけだ。
 そういえば、自分の新しい顔をちゃんと見たのはこれが初めてだった。今まで忙しかったのと、兄の事で頭が一杯で自分の事にかまけている時間などなかった。それに自分自身と向き合うのが、何となく怖かったのだろう。
(これが僕の今の顔)
 正確には、この鎧が本体で、兜はその付属品にすぎない。兜を外しても、アルの視界に変化はないし、不自由もない。風雨や砂が吹き込んでくるのを防ぐ帽子みたいなものだ。
 それでも、世間はこの兜を見て、これが『アルフォンスの顔』だと思うのだろう。何か変な感じだ。そうすると、鎧だけだった場合、自分の顔は、目は、耳はどこに当たるのだろう。どうして見たり、聞いたり出来るのだろう。
(変な感じ…)
 アルフォンスは一人ごちた。大体、兜から何故まるで目があるように光が漏れてくるのだろう。そこから、ちゃんと自分が覗いているように。
 兜はよく見れば、いかめしくもあり、ユーモラスな感じもする。巨大な体は最初、威圧感があるが、なれてしまえば只の鎧だ。
 中身が10歳の男の子だなんて、誰もすぐには信じてくれないだろうが。
(でも)
 鎧に魂が定着してる理屈は解るのだが、現実には簡単に受け容れがたい。
 確かに鎧は意のままに動くし、突然2m10cmに身長が伸びる訳がないし、自分が内部にいるなら、鎧の内側に触れる筈だし、こんな盛夏に息苦しいわ、暑苦しいわ、汗で気持ち悪くて、とても長時間いられまい。
 自分は鎧になってしまったのだ。それが現実だ。現実なのだ。
(だけど)
 兄に触れたい。
 自分がこの鎧の中にいるような気がしてならない。こんなもの脱ぎ捨てて、兜なんか外して、あの弱り切った兄を抱き締めたい。安心させたい。
 僕は大丈夫。鎧なんてなってないよ。こんなに元気だよって。
(………本当はどうなんだろ)
 アルフォンスは兜に手を掛けた。
 この空気穴から体内に吹き込んでくる風音は大きいけれど、入り込んできた砂がザリザリと内部を擦り、いつの間にか足元に溜まって、波音みたいな音になってやっと気付くような体だけれど。
 机やドアに当たった時、響く音。躓いた時いつまでも続く残響は鐘みたいにうるさいけれど、だけど、そんな事何でもない。
 この鎧の中のどこかにやっぱり『僕』がいて、ただ動けなくて、出られなくなっている。それだけじゃないんだろうか。本当は大怪我して、生命維持か何かでここに入れられてるだけじゃないんだろうか。
 もし、二目と見られない顔になっていたら、それはそれでイヤだけど、兄さんがやった錬成は本当はそっちじゃないかな。自分の何もかもがあっちに行ってしまったなんて、それでもここに魂だけがいるなんて悪い冗談だ。
 だって、僕が全部あっちに行って、こっちで魂だけ錬成されたら、あっちに行った僕の魂ってどうなるの?
 それって、僕なの? どっちが僕なの?
 この鎧が『僕』だとしたら、顔は何処なの? 目は何処についてるの? 僕のほっぺたはどこ? 喉はどこ? 耳は何処についてるの? 僕の前と後ろはどっちなの? 血印に裏表はあるの? 血印に上下はあるの? 血印の中に本当に僕の魂はいるの?
 それは本当に…本当に僕なの?
 嘘だって言って。
 嘘だって言ってよ、兄さん。
 ガチン……と音を立てて兜が外れた。

 穴。

 真っ黒な穴。  

 底知れぬ空間がアルフォンスの前に広がっていた。
「…………………………」

 誰もいない。人の気配はない。ただ、アルの目にはポッカリと鎧の内部が広がっていた。鏡の中にアルの姿は映っていないのに、アルは確かに血印と鎧の内部を真正面 に見つめていた。
「…………………………」
 頭の中が空白になった。何かもっともらしい思考を紡いでみようと思ったが、形にならない。
 手を挙げて、空洞の中に手を突っ込んでみた。何にも触らない。ひょっとして自分が、透明になってしまったアルフォンス=エルリックがいるんじゃないか。触れる事が出来るんじゃないか。ギリギリまで何処かで縋っていた希望はそこにはなかった。
 内部に触れる。空気を掻き回す。でも、手をうんと奥まで入れても、柔らかな髪の毛も、かくれんぼをしてる押し殺した少年の息づかいも、指をそっと握ってくる反動も何もない。
 僕はいない。
 からっぽだ。
 本当の本当にからっぽ。
 アルは懸命に鏡に向かって身を乗り出した。照明の加減で奥まで光が届かない。
 でも、でも、やっぱり僕はどこかにいるんじゃないか?こんなに意識ははっきりしてるのに、ちゃんと見てるのに、僕が鏡に映ってないなんて嘘だ。
「嘘だよ……兄さん…」
 指が少しだけ血印をかすめた。何となくざわつく。風だろうか。とにかく何かを感じたくて、アルは恐る恐る血印に指を伸ばした。それが自分と現世を繋いでいる唯一のものである事は解っている。兄が右腕を代償にして、形成したアルの宇宙。小さな銀河系。
 でも、それでも触ってみたい。だって、このままじゃ納得できない。本当にこんな所に『僕』がいるんだろうか。
 そして、それはどんな風に?  指が血印にそっと触れる。

「…………………………」

 感じなかった。もうざわめきすらなかった。何かが自分を押しているという感じも、冷たさも何もない。空気の上で指を停止させている。そんないつもの無感覚と変わらない。
「……何…んだ」
 気が抜けて、指が無意識に血印を軽く擦った。

 

 途端に天地がひっくり返った。

 

「わあぁああああっ!!!」

 

 感覚がないアルが正確にどう捉えたか、説明が難しい。
 いる部屋が前触れもなく、四方がぐちゃぐちゃに押し潰され、竜巻に引きちぎられ、為す術もなく体を振り回される。静かな虫の声が大音響のノイズに変わり、洪水となってアルを押し流した。

「に………っ!!」

 助けを呼ぼうとしたが、声にならない。

 

 ──────世界が崩れる。

 ──────世界が終わる。

 

 

 アルは気付くと、床に尻餅をついていた。激しい動悸も息づかいもないが、体中が震えている。鎧と擦れているタイルがカチカチと音を立てている。
(……死にかけた…僕は死にかけたんだ)
 アルは震えの止まらない両手を見つめた。ぶつけても痛くもないし、眠りも食事も要らない。血だって流れないし、こんなに怖い目に合いながら、唾も口に溜まらず、心臓が張り裂けそうに脈打ったりもしない。
 こんな体なのに。
 でも、でも怖い。
 死ぬのが怖い。
 アルはホォッと長い溜息をついた。恐怖が去ると、安堵が生まれた。何だか嬉しかった。鎧であっても、人間の時の気持ちと、そこに少しも隔てがなかったから。
 手が震えているのすら好ましく思えた。心臓も脳もないけれど、体は自分に可能な限り、人間らしい反応をしている。しかも無意識に。
 真似事じゃない。
 人間のふりなんかしていない。人間臭い訳でもない。
 当たり前の、アルフォンス=エルリックとしての反応だ。
(僕だ……やっぱり『僕』だよ、兄さん)
 アルは右手を左手で握りしめた。自分は大馬鹿だと思った。兄が命がけで与えたものを疑うなど。その命を今、不注意で失いかけたなどと知ったら、兄は何と思うだろう。
(ごめんっ……ごめん、兄さん)


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