「冬、咎人に花は咲かず」
(…お腹空いた)
アレンは潜っていた毛布から顔を出した。冬の朝は寒い。宿の暖炉で薪は燃えているが、部屋全体を温めるのは程遠い。漆喰や煉瓦を通 して外の冷気がひいやりと肌を刺す。思わず暖かい毛布の中に退却した。
(…痛…)
全身に巻かれた包帯や顔の絆創膏がシーツに擦れて、傷がチリチリした。窓ガラスに体当たりして、飛び降りようとした傷か、カーテンに放火した時の火傷なのか、記憶をたぐり寄せても何も思い出せなかった。本気で死のうと思ってつけた傷だから、結構深い。
死に損なって、今更痛がっている自分が少し滑稽な気がした。マナの跡を追って謝る事しか考えていなかった時は、火のついたカーテンを握りしめても、砕いたガラスのコップの破片を口に含んでも、何も感じなかったのに。
今はこの毛布のぬくもりが快かった。こんな高級な毛布の感触は滅多にない。マナと泊まった宿ではあり得ない快適さだった。調度品から見ても上等なホテルなのだろう。アレンはその手触りの優しさを愉しんだ。気持ちいいのは生きている故の幸せだ。それが少し切なくて、また涙が滲んだ。
ガラス窓の向こうは、まだ雪景色だった。降りしきる雪が天から舞い降りる魂のように見えて、アレンはしばしぼんやりとそれを見つめた。冥界から引き戻したマナの魂はちゃんと戻れたのだろうか。せめてそれさえ解れば心も安らぐのに。
部屋の中は静かだった。師匠もティムキャンピーもいない。噎せる程部屋に立ちこめていたタバコの香りも薄れている。
(何処、行ったのかな)
身じろいだ拍子に感じた事もないひどい飢餓感が不意に襲ってきた。マナを喪って以来、まともな食事を摂っていなかったのだから当然だが、常の空腹とは度外れている。胃が捻れて、吐き気がする程だ。昨夜、師匠に与えられたミルクしか飲んでないにしても、この肉体の渇望は異常だった。貧乏のせいで、空腹には比較的慣れている。二、三日水だけという日もあった。それでも、こんなではなかった。一体、自分の体はどうなってしまったのだろう。
狂おしく見回すと、テーブルの上の食料が目に映った。パンやサンドイッチ、パイ類などが水差しと一緒に山と積まれている。転がるようにベッドから落ちると、両手にパンと菓子を掴み、ガツガツと頬張った。これほどの空腹だと却って胃が受け付けないものなのに、サンタクロースの袋並に膨張したのか、胃はすんなりと受け入れた。瞬く間に食料は消え失せたが、まだ足りない。戸棚を引っかき回し、酒のつまみのナッツとサラミと大量 の水で何とか胃の賦を黙らせた。
(…寒)
服を求めて、アレンは周囲を見渡した。巨大な暖炉や絨毯はあっても、暖房効果 は知れている。寝間着代わりの師匠のシャツは大きすぎるし、絹の手触りは上等すぎて落ち着かない。立派な調度品も馴れなくて、場違いな気がした。自分の服に着替えれば、いくらかいつもの自分を取り戻せるだろう。
(いつもの自分)
アレンは唇を噛んだ。自分は一度壊れてしまった。もう二度と元の自分を取り戻せはしない。そんな事は解っていたが、外見だけでも体裁を整えたかった。砕け散った自分のかけらを拾い集めて、その中に押し込む事は後で考えればいい。
だが、服は見つからなかった。昨夜と変わらず、紙切れや酒瓶、ゴミが散乱しているが、タンスや師匠の服の下にも自分の服はなかった。特徴ある黒と白の格子縞のジャケットを見落とす訳がないのだが。
(おかしいな)
アレンは諦めて、ベッドに座った。切り裂かれ、血と泥で汚れていたから、師匠が仕立て直しか、クリーニングにでも出したのだろうか。
例え、どんな思い出を掻き立てられようとも、あの服はたった一つのマナの形見だった。マナが半年前に自ら縫ってくれたのだ。元々、少なかった商売道具は全て売り尽くし、最後までアレンが売るのを頑強に拒んだバイオリンも、今はマナの亡骸の代わりに墓の下で眠っている。他に残っている物は何もない。
「あ………」
ベッドの下にさっきまで気づかなかった箱が覗いているのに気づいた。これだろうか。アレンは開けてみた。
「……………」
子供服が一式揃っていた。シャツ、ズボン、ジャケット、ズボン吊りに靴もある。手触りや生地から見て、最高級の物だろう。街の子供より、むしろ貴族の子弟がまとってもおかしくない。クロスがきっとアレンの為に誂えてくれたのだろう。新しい弟子への贈り物として。
だが、アレンは箱を閉じた。自分の服は『あの服』だけだ。例え、どんな思い出がまとわりつこうが、あれがアレンの服だった。こんな服は着たくない。
自分が成長期なのは解っている。どんなに惜しんでも、いずれあの服は着られなくなるだろう。
それでも、物を粗末にするのは罪悪だという生活を送ってきたし、あの服だけは最後まで大事に着たかった。師匠の気持ちは嬉しいし、この服はいつかありがたく着るつもりだ。
だが、いくらエクソシストになるのを決めたからといって、マナとの繋がりをことごとく投げ捨てるなど、そんな事は出来ない。この新しい服に袖を通 すのは、喪った自分を取り戻す縁すら消してしまう気がした。
「……僕の服」
アレンは狂おしく部屋を見回した。何か残っている筈だ。ブーツ、スカート。ベルト、黒のスパッツとセーター。
だが、何もない。師匠に尋ねるしかないだろう。
窓に目をやると、雪が舞い降りている。
(…………マナ)
あの瞬間が体から弾けそうになるのを必死でこらえた。左目がズキズキ痛む。マナに切り裂かれた傷は出血は止まっているものの、塞がる気配を見せなかった。傷口を縫おうとしても、何故か糸が切れてしまうのだ。まるで何者かが強引にそこから中に入り込んだように、いつまでも生々しい。
(師匠…いつ帰ってくるんだろう)
心細くなって、アレンは窓に歩み寄った。あの男を未だに好きになれなかったが、それでもマナとの二人きりの世界に唯一介在していたのは彼だけだった。マナを喪いつつあった、あの狂おしい日々で唯一助けを求めようとしたのもクロスだけだ。
あの男にまだぬくもりも優しさも感じなくても、生き延びる事の喘ぎと、前に進む道がある事を教えてくれた。この神の左手で自殺しようとしたアレンを命がけで救ってくれたのだ。
服の事はともかく、やはり側にいて欲しかった。
「師匠…」
曇ったガラスを擦る。灰色の街がくすんで見えた。何もかも雪で覆われている。雪が音を吸収してしまうので、沈んだ水の底のように街は静かだった。
ふと、そこに赤いものを認めた。クロスがいる。ホテルの中庭の真ん中で焚き火をしていた。深紅の髪と金色のティムキャンピー。そして、彼の足元の焚き火だけが灰色の中で鮮やかに浮かび上がっている。クロスは傍らの雪にワイン瓶を突き刺し、時折グラスをあおっていた。
「師匠!」
安堵に包まれ、窓ガラスに張り付いたアレンは、師匠が何をしているか気づいてギョッとした。
(僕の服……っ!!)
クロスの足元にあるのは、紛れもなく自分の服だった。黒と白のチェックのジャケットとスカート。血で汚れた包帯やセーターもある。それは薪や新聞紙の上に無造作に積まれていた。
焚き火はよく燃えている。クロスは火を掻き立てる為、棒で薪を掻き回した。火花が威勢良く上がるのを見て、無造作にコートを掴むと、焚き火へと投げ込んだ。他の服も掴んでは投げていく。
「駄目っ!!」
アレンは弾かれたように部屋を飛び出した。素足で薄い絹のシャツ一枚を着ただけの包帯だらけの少年の姿に、擦れ違ったメイドが驚いて振り返ったが、アレンは目もくれない。
頭が真っ白になっていた。階段を飛び降り、雪の中へ躍り出た時も傷の痛みや切るような冷たさも何も感じなかった。
僕の服。僕の服。
あれだけ。たった一つだけ。
マナが残してくれたもの。
たった一つ作ってくれたもの。
他にいらない。どんなものもいらない。
血にまみれようが、切り裂かれていようが、あの服以外着たくない。
「駄目――――――――――――――――っ!!」
アレンは絶叫しながら、焚き火の中に手を突っ込んだ。凄まじい熱が手や顔を炙る。火の粉が千々に舞い上がった。
その瞬間、鳩尾に衝撃が走った。うめく間もなく、雪の中に吹っ飛ばされる。腹が重い。苦しさにドッと吐いた。焦げた髪とシャツの匂いが鼻につく。火傷した頬に舞い落ちる雪の冷たさが痛かった。ティムがアレンの様子を心配してか、頭上に舞っている。クロスにブーツで思い切り腹を蹴飛ばされたのだと解るのに時間はかからなかった。
クロスは立ち上がり、グラスにワインを注ぎ直した。
「何しやがる、クソガキ。危ないだろうが」
アレンは聞いていなかった。ただ、炎が容赦なくジャケットを浸食していくのを睨んでいた。起き上がろうとして、また吐く。全身から力が抜けたように重い。
「…かはっ…」
「体中、傷だらけ。昨晩、さんざん俺に犯されて、今朝は火傷。豪勢だな、クソ弟子。お前の手当はもう飽き飽きだ。手間かけさせんな」
その言葉にアレンはギリッと奥歯を噛みしめた。親指が雪を掻く。足が動いた。
「あああああああーっ!」
アレンは体を押し出すように再び焚き火に向かって突進した。呆れたのか、面倒臭くなったのか、今度はクロスも制止しなかった。アレンは殆ど焼け焦げた服の残骸を両手で掴む。再び、火の粉がパッと雪空に散った。
熱い。
「ああーっ!」
キルトの中の綿は熱を含んで焔そのもののようだった。鉄のようにアレンの掌を焼く。だが、アレンは手放さなかった。雪の中に投げ出せば、火は消えるかも知れない。だが、クロスにもう一度焼かれてしまうだろう。それが怖くて、アレンは必死に胸に抱え込むと、雪の中に蹲った。
熱い。痛い。火が肉に食い込んでくる。
まるで千の矢に責められてるかのように痛い。
贖罪のように痛い。
「あーあ、何しやがるんだ、この野郎」
クロスはアレンの頭を掴むとグイと引っ張り上げた。その痛苦にアレンがクロスを涙目で睨み上げる。だが、燃えかすを奪われたくなくて、必死に両手で抱きしめる。
「……ったく、俺のシャツが黒こげじゃねーか。無茶苦茶しやがって」
火傷の心配より、自分のシャツへの苦情を冷たく言い放つと、クロスはまたアレンを雪の上に放り出した。
「さっさと着替えろ。火傷の傷薬は自分で塗れ」
クロスはもう興味なさそうに、アレンに背を向けた。焚き火をつつく。二人の間の空気の重さにも関わらず、火の粉だけがパチパチと陽気な音を立てた。
「…どうし…て」
「…はん?」
「どうして僕の服をっ!?」
「もう要らないだろうが」
クロスの背中が答えた。
「俺は旅芸人を弟子にとった覚えはない。生半可な覚悟なら死ぬぞ、ガキ。お前が踏み込もうと決めたのは、そういう世界だ。そんな服に縋るな。新しい服を着て、襟を正せ」
アレンは火のようにクロスを睨み返すだけだった。クロスは肩をすくめる。雪がまた激しくなってきて、二人の上に降り注いだ。
「俺が気に喰わないならそれでもいい。お前を元の場所に放り出したい所だが、この街にはアクマが多すぎるからな。今更、伯爵に捕られるのも癪だ。俺の元にいるのがイヤなら、すぐにでも教団に引き渡してやる。
だから、一つチャンスをやろう、クソガキ」
クロスは煙草に火をつけた。
「俺が宿に戻るまでに心を決めろ。お前の未来だ。好きに選べ。
ま、俺としては、お前なんか『見なかったし、拾わなかった』事にしてくれると一番楽でいいんだがな」
「……………」
クロスはそれきり振り向きもせず、街の方に立ち去った。吹雪がその赤と黒を掻き消していく。
(……………)
クロスの姿が見えなくなると、アレンのまなざしから急速に炎が消えた。悄然と掌を広げる。黒く焼け焦げた小さな消し炭がツンと匂った。僅かにチェック柄が解るものの、強く握り締めれば粉々になってしまうだろう。腹の痛みと同時にひどく物悲しい気分に襲われて、アレンは力無く雪の中に蹲った。目が涙でかすむ。
「う……く……ひっく…」
ポタポタと膝に涙が落ちた。すぐ冷えて、膝を刺すが、それでも涙は止まらなかった。
確かに、この服はいずれ処分せねばならなかった。だけど、こんなゴミのように燃やしてしまう事はないではないか。いくらみすぼらしくても、人には大事な壊せない、触れられない部分がある。それがあの男には解らないのだろうか。
かわいい服だった。
『ちょっと女の子みたいかな?』
初めて着てみた時、マナはそう言って笑っていた。だから、捨てる時も布のいい部分を切り取って守り袋として、かつ、自分の原罪回帰を促すものとして取っておきたかったのだ。
だが、今やこれはそんな想いすら嘲笑うように無価値なものに見えた。これにいくらかの慰めを求めようとしたのは浅はかかも知れない。
でも
(やっていけるだろうか)
あの男と。
無慈悲にアレンの想いを女々しいと、文字通り一蹴し、焼却し、拾わなければよかったと明白に態度で示された。それでも、食らいついて、教えを請わねばならぬ のか。
エクソシストの総本山という黒の教団については殆ど何も解らないけれど、クロスよりはまともな教師もいるだろう。手厚い庇護や教授も得られるかも知れない。神の使徒は貴重らしいから。
(エクソシスト)
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