アレンは左手を見下ろした。これが『勝手』に発動しなければ、全ては終わっていた。アレンの魂は地獄に堕ち、マナはアレンの皮をかぶって、人を殺して回っているか、クロスに破壊されていただろう。
 いつだって、この左手はアレンに暗黒の運命をもたらしてきた。
 マナとの出会い以外は。

 だが、これはマナの苦しみの始まりを断ち切ってくれた。人殺しになる事もなく、最愛の者を手に掛ける罪も逃れて、壊れて消えた。
 ただ一つ、右目に星形の傷だけを残して。
 だから、自分は幸運なのだと。
 おそらく、あの状況下で生き残ったのはアレン一人だ。だから、同じ痛みを共有できる者も解ってやれる者もいない。
 だから、エクソシストになればいいとクロスは言った。他に生きる理由が見つからないなら、壊す理由がある者になればいいと。そんなに生きるのがツライなら、その程度の理由でいいではないか。大義名分を振りかざすより、その方が人間として余程マシだ、と。
 彼は非情だったが、あの言葉はアレンを救ってくれた。マナを壊した傷をも癒すように。

(僕は……)

 不意にくしゃみが出て、アレンは物思いから醒めた。シャツ一枚で吹雪の中にいるのだ。寒さで体が強張っている。思わず体を両手で抱きしめた。早く部屋に戻らないと凍え死んでしまう。

「わっ!」

 バサッといきなり黒い物が降ってきた。慌ててそれを取ると、黒いフロックコート、マフラーに靴だった。ティムキャンピーが大きな翼を広げて、物言いたげに空を舞っている。

「あ、ありがと、ティム」

 アレンは慌てて、それを纏った。まだ痺れは止まらなかったので、必死に体を擦る。ティムは舞い降りてきて、アレンの髪を引っ張った。
「ああ、ゴメン。解ったよ、さっさと部屋に戻ろ…」

(……………?)

 ふと、視線を感じてアレンは顔を向けた。吹雪の中におぼろな影が見える。
 師匠が戻ってきたのかと思えば、それは只の労務者風の男だった。アレンを見るでもなく、ぼんやりと立ちつくしている。
 妙な違和感を感じた。ここは上流階級の宿泊するホテルで、とてもこの男が踏み入れる事も、まして知り合いなどいそうにない。なのに、何故この中庭にいるのだろう。工事の下見か何かだろうか。

(………!?)

 目を凝らしたアレンの体が強張った。男の体から何か出ている。
 禍々しいもの。
 腐臭すら感じる事が出来た。アレンの頬が引きつった。思わず口を押さえる。
 皮膚は干涸らび、コケやカビに覆われ、墓から引きずり出された死骸の眼窩のない眼が涙を流している。口はひっきりなしに悲鳴を上げ、首を捩っていたが、幾重にも鎖に繋がれて逃げられない。男が動くたび、それは乱暴に輪を締め上げられた。また身を切るような悲鳴が上がる。ツライ重荷を背負わされ、鞭を当てられながら、背中の皮が剥け、血を流し、悲しげに嘶いているロバのように。

 あれが『アクマ』なのだろうか。クロスが教えてくれた、あれがその完成体なのか?
 アレンは『マナ』しか知らないが、そうなのか?
 でも、違う。全然違う。だって『マナ』にはあんなおぞましものは生えていなかった。金属の骸骨というだけで、不気味ではあったが忌まわしくはなかった。
 あれは…あれはまるで怪物だ。
 ガラスのように虚ろな眼がぼんやりと視線を彷徨わせている。

(気づかれる!)

 アレンはゾッとした。あれはよくないものだ。悪霊だ。捕まったら、殺される。首をひっ掴まれて、エビの頭をもぐように二つに引き裂かれてしまうだろう。
 だが、体がどうしても動かなかった。体が震え、歯が鳴る。寒さすら忘れた。それすら気づかない程、アレンは恐怖で竦み上がっていた。

(もし、『見えてる』って解ったらどうしよう?)

 何故、突然あんなものが見えるようになったのか解らなかった。でも、どうしても目が閉じられない。食い入るように目が離せない。きっと気づかれてしまう。バレてしまう。
 ただ消えて欲しかった。夢であって欲しかった。この男の対象が自分であって欲しくなかった。
 不意にまともに男はアレンをまともに見つめた。
 ザクッと音を立てて、一歩踏み出す。
 アレンは口を押さえたまま、ビクッと震えた。

(マナ…ッ! …師匠っ! 師匠っ!)

 悲鳴が喉まで迫り上がった。左手の事など頭にない。ただ恐怖の虜だった。
「……………」


 男は二、三歩進んだ所で突然立ち止まった。
 首を傾げ、ホテルを見上げる。ややあって、まるでギギッと機械音を立てたようにぎこちない動作で、地面 を見下ろした。クロスの足跡が半分雪に埋もれつつもくっきり残っている。
 一瞬だけ、名残惜しそうにギラリとアレンを見やると、男はギクシャクと雪の街へ歩み去った。
 クロスの足跡を踏み潰すように。

(……………助かった)

 緊張が抜け、くたくたとアレンは雪の中に座り込んだ。全身から冷や汗が吹き出す。呼吸が荒い。目元にまた涙が滲んだ。
 死なずにすんだ。あんなものがこの世に存在するのが、まだ信じられなかった。今すぐホテルに駆け戻り、鍵を掛け、毛布に潜り込んでしまいたい。
 そして、全てを忘れてしまいたかった。とても出来ない。あんなおぞましいものと戦うなんて出来ない。
 自分は運がよかったのだ。それでいいではないか。次も幸運とは限らない。この左腕が反応してくれるとは限らないではないか。旅芸人で喰っていけばいい。サーカスでも来ないかと誘われた。半分はこの奇怪な腕を見せ物にする魂胆だろうが、あんなものを相手にするより、余程現実的な人生だと思う。

 ―――でも。

 マナの事をどうして忘れられるだろう。例え、怪物が立ち去っても、マナの残した傷は消えない。マナは永遠に心から離れないし離したくない。呪われたっていい。自分の中はそれだけしかないというのに。

 それに…………。
(師匠…)

 アレンはしばし逡巡した。掌と胸の火傷がヒリヒリと痛む。あんな残酷な男などどうなってもいい。服を焼き、アレンを蹴飛ばした男など。
(でも)
 パラリとほどけた包帯をアレンはしばし見やった。彼には命の借りがある。例え、嫌われていようが、感謝されなかろうが、恩は返さねばならない。
(それに)
 アレンはさっきのものを思い出して身震いした。
 あの忌まわしいものは人間の形をしていた。タッソーの蝋人形が悪魔に魂を吹き込まれたら、あんな感じなのだろうか。方向からすると、二人が泊まっている部屋あたりを見上げていた。あれはきっとクロスを殺しにいったのだ。今なら追いかければ間に合う。

(でも)

 アレンは右手で左手を握り締めた。マナを壊した時、変化した腕(『発動』というのだと、クロスは教えてくれた)を再び変えるにはどうしたらいいのだろう。行ったところで足手まといになるだけだ。戦いには全く無知だが、曲芸の修練を積んできたアレンにも、クロスの身ごなしが鞭のようにしなやかで、筋肉も一分の隙もない事は見て取れた。

(それでも、行かなきゃ)

 アレンは拳を握り締めた。万が一、師匠が隙を突かれる前に、自分なら教えてやる事が出来る。教団に行くにしても、その程度の事だけは、クロスの為にしておきたかった。

「くしゅっ…」
 アレンはくしゃみした。コートの下はシャツ一枚だ。靴下を履いていないので、足が刺すように冷たい。だが、着替えている暇はなかった。貧乏だったので、この程度の薄着には馴れている。
 たった一言。それさえ、クロスに伝えられたらいい。

「行こうか、ティムキャンピー」
 アレンはクロスの跡を追って、走り出した。


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