気づくと下街に入り込んでいた。
(キツイ……)
 体がだるかった。衰弱しきった体は、少しの距離でもう息が上がっている。アレンは壁に手をついて、呼吸が整うのを待った。コートの下はシャツ一枚で、全身が寒さで痺れたようになっている。アレンは腕を必死で擦った。
 師匠と追っ手の足跡は尚も路地の奥へと続いている。ここは数十年前まで農村だった場所が産業革命によって、急激に成長した街だ。都市整備の概念がなく、大通 りを一歩入ると呆れるほど路地が入り組んでいる。いつしか煉瓦の壁や建てかけの建物が犇めいている場所にいる事にアレンは気づいた。雪はまだ降りしきり、どうかすると、薄れた足跡を見失いそうだ。ティムが道案内をしてくれるが、病み上がりのアレンは遅れがちになっていた。今も遥か上の煉瓦の出っ張りに羽のある猫のように止まって、アレンを待っている。

(戻ろうか…)

 アレンは一瞬迷った。師匠に蹴られた腹がまだ痛む。だが、ここまで来てしまったのだ。気後れと寒いのを必死でこらえる。唇を噛みしめて、両腕を擦り、黄金のゴーレムに呼びかけた。

「ティムキャンピー、師匠は何処?」
 ティムは舞い上がった。だが、アレンの思惑と逆にホテルの方に戻り始める。アレンは慌てた。師匠を追い越してしまったのだろうか。いや、そんな筈はない。足跡は奥へと続いている。
「違うよ、ティム。僕は師匠の所に行きたいんだ」
 ティムは振り返った。もどかしげにホテルの方へ団扇のようなしっぽを振る。
「僕の身体を心配してくれるの? 大丈夫だよ。師匠に伝えたい事があるだけだから」
 ティムは逡巡していたが、突然、クンと上を見た。アレンも視線を感じて振り返る。

 影があった。

 幽鬼の群がアレン達を囲むように取り巻いている。柱や壁の上で、最初に見たものと同じ不気味な視線をアレンに注いでいた。彼らの頭上には蒼い影が揺らめいている。忌まわしい、おぞましい人の形をした鬼火が。
(いつの間に…!!)
 思わずアレンは立ちつくした。足から力が抜ける。悲鳴を上げなかったのは唇まで凍り付いていたからだ。
「あっ……あ」
 戦わなければ。今は武器も持っている。でも、どうすれば『発動』するのだろう。

(発動して!)

 アレンは念じた。だが、左手はピクリとも反応しない。振り上げてみたり、拳を握ってみたが、十字架は貝のように沈黙している。
「発動して! …どうして…変わってよ!」
 必死に念じた。だが、同じだ。身体が恐怖に強張る。追いつめられて、アレンはじりじりと壁の方に後退いた。

「…オ腹ガヘッタ」
「殺セ」
「殺セ」

 金属音のさざ波が広がっていく。アクマが一体ゆらりと動いた。瞬時に頭部が巨大な銃口に変化する。ジャキンとアレンに照準を定めた。
「………ヒッ」
 アレンは必死で避けた。が、強張った身体は足がもつれて蹲るのが精一杯だ。凄まじい弾幕がアレンを襲った。壁が弾け、雪が地面 ごと抉られる。衝撃で身体がビリビリと震えた。

(撃たれた!)

 が、痛くない。恐る恐る目を開けると、大きな金色の籠の中にいた。巨大な鈎爪が楯になってアレンを守っている。左手はいつの間にか発動していた。彼の周囲は穴だらけになっていたが、アレンは傷一つない。
「エクソシスト…」
 アクマ達はざわめいた。猜疑心と憎悪にまみれた眼がアレンを睥睨する。合図もなく、今度は全員が銃口を向けた。
「ああっ……!」
 容赦なく弾の雨が降り注いだ。腕で守る以外の全てが破壊され、ウィルスに浸食し、ボロボロと崩れていく。その中心でアレンは身動き一つ出来なかった。体勢を立て直すには余りに激しい銃撃で、まともに考える事も出来ない。
 腕は相変わらず無傷だったが、アレンの精神の方がダメージを受けていた。自分が殺されようとしている。人間の皮をかぶった生きた銃の群に。その現実がアレンを打ちのめしていた。
 こんなものが敵なのだ。これからの自分の。
 マナが完全なアクマになっていたら、こんなものになっていたのだ。

(いやだ…)

 身体が震え、歯が鳴る。涙が滲んだ。音と振動に怯えて、ひたすら丸くなる。アレンは右手を口に押し込み、必死に恐怖をこらえようとした。死への渇望が消えると自分は何と臆病になってしまったのだろう。


 だが、泰然と揺るぎない黄金の檻の中で、その堅固さにアレンは次第に落ち着いてきた。神の武器。嫌い、憎悪し、切り捨ててしまいたいと何度思ったか知れない深紅の醜い左手。

『君を苦しめるこの腕を、君が嫌うのも無理ないね』
 昔、マナが左手を握って、しみじみと呟いた事があった。
『けど、これがなければ、僕とアレンは出会わなかった。だから、僕は愛しい。この左手が。心から感謝してる』

 そう言って、マナは左手の十字架にキスしたのだ。そして、今、その腕がアレンを守ってくれている。あれほど嫌い憎んだ、その腕が。
(だから、やらなきゃ。戦わなくちゃ)
 彼らを壊すのだ。簡単に出来る。
 マナを壊した時のように。
 アレンの唇が引きつった。

(出来ない…)
 降りしきる雪。否応なく鈎爪に引きずられた身体。柔らかいスポンジに食い込んだような感触。弾け飛んだネジやコード。金属的な悲鳴。饐えた焦げ臭い匂い。
 あれをまた再現するのか?
 左目の傷が激しく疼いた。まるで獲物を嗅ぎつけた猟犬のようだ。だが、その疼きが一層あの時を突きつけてくるようで、身体が緊張病を起こしたように動けない。動悸で頭がガンガンする。心が二つに裂けそうだ。

(出来ない…)
 やらなきゃ。
(できないよ)
 やるんだ。

 アレンは唇を噛みしめた。前に進むのだ。そう誓った。拳を握る。ガバッと身体を起こした。

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