「……動くんじゃない」
突然、誰かがその背中を優しく押した。
「…えっ」
アレンは再び雪の上に突っ伏す。手はすぐ離れた。
「あれ?」
轟音が消えていた。弾幕も粉塵も地鳴りに似た振動も何もかも消え失せていた。雪が変わる事なく、浸食されて黒い星の浮き出た地面 へ丹念に舞い降りていく。まるでここで起こった事を消してしまうように。
アレンは顔を上げた。黒い革靴が目に入る。黄金の鈎爪の隙間から、赤毛の精悍な横顔が覗いていた。
「師匠!」
クロスは不機嫌な横顔を天に向けていた。肩や黒い幅広帽に雪が少し積もっている。
「何でついてきた、馬鹿弟子。ホテルで待ってろと言ったろうが」
「だって……師匠が危ないと思って、教えなくちゃって…必死で」
アレンは周囲を見回した。誰もいない。僅かな破片から立ち上る煙だけが、そこに確かにいたモノの痕跡を留めているだけだ。
アレンは戦慄した。クロスはあれだけの数のアクマを一瞬で消し去ったのだろうか。
音すら立てず。
「俺が危ない? 却って足手まといだ」
予想した通りの解答だったが、やはりアレンはムッとした。
「解ってます、そんな事! でも、視えたんです。アクマの魂だって解ったんです。だから、黙ってなんていられなくて!」
「視た? やっぱり視えたのか、お前?」
「やっぱりって、師匠も視えるんですか、アレを?」
「視えるものか。お前のは呪いのせいだ」
「呪い?」
アレンは思わず左目を押さえた。アレが視える。あのおぞましいものが。
『呪うぞ! 呪うぞ、アレン!』
お前がしでかした事を視ろ。お前が犯した罪を。蔓延していく罪の跡を視ろ。
「そんな……マナ…」
アレンはゆらゆらと首を振る。その時、破片から揺らめいていたものが変化していくのが視えた。蒼い炎が拘束されていた魂の鎖を溶かし、骸骨が崩れて、そこから光が漏れる。破片が灰になるに連れ、光は尚も増し、やがて煙は人の上半身の形を成した。穏やかで解放された人々の笑顔に。久しぶりに暗がりから、日の光を浴びた人のように、彼らは眼を細め、天を仰いだ。
彼らは喜びをたたえ、感謝を込めてクロスを見つめると、また煙のように薄れた。無数の光となって、踊りながら、絡み合うように天上へと昇っていく。
「……人が…」
「ん?」
「みんな、笑ってます。師匠にありがとうって」
アレンは優しく眼を細め、眩しげに雪空を見上げている。
「…エクソシストは本当にアクマを救えるんですね…出来るんだ、それが…」
「さぁな」
クロスは雪空を見上げた。何も見えはしない。自分の仕事に意義があるのだと教えられても実感は湧かなかった。アクマという悪性兵器を破壊した。それだけだ。
クロスがエクソシストで在ろうとする動機は全く別の理由から発生している。教団と相容れないのも一つにはそれがあるだろう。アクマを倒す達成感や高揚感など、とうの昔に終わってしまった感情だ。彼らの魂の救済など見えざるものに関心はなかった。奇跡など、もううんざりしている。神も悪魔も世界に直接、触れてこないからこそ有難みがあるのに。
クロスは神父だったが、魂の救済とは神とは別の所にあると思っている。彼が信仰に至福を見いだす事があれば、恐らくその中に神はいまい。
だが、自分の抱く濁った感情を弟子に伝える気はなかった。特にスタート地点にいる子供には。
「安らかに眠っていた魂が罪もないのに、いきなり煉獄に落とされる。しかも最愛の者の手によってだ。
そして、その愛しい者を手にかけて、罪の皮をかぶり、拘束され、酷使され、絶望と激痛の闇の世界へ引きずり回されるんだ。そのフラストレーションがアクマを進化させるエネルギーとなる。
アクマを壊せるのは対アクマ武器だけだ。それだけがアクマを壊せる。だから、俺達はエクソシスト(悪魔祓い)などと呼ばれるのさ」
「…僕の左手も」
「そうだ。今度は身を守るよりマシな使い方をする事だな。
彼らは解き放たれた。罪は清められた。神の御手に還れ、さ」
クロスは肩をすくめる。
「俺にとれば、かかる火の粉を払ったにすぎんのにな。帰るぞ、馬鹿弟子」
歩き出したクロスはアレンが動こうとしないのに気づいて、歩を止めた。アレンはまだ茫然と天を見上げたままだ。クロスは溜息をついた。
「感動するのもいい加減にしろ。おい…」
アレンは動かない。眼が食い入るように天を見上げている。唇が震えていた。両手がゆっくり上がって、白髪を掻きむしる。
ポツリと呟いた。
「…どうして?」
アレンは首を振った。
「どうして! どうして! どうしてっっ?」
アレンは天に向かって叫んだ。跪き、雪を両手で握り締める。
「見えなかった! 僕はマナの魂なんか見なかった! 怒った顔も笑った顔も天に召されてる姿も何にも!
なのに、何故他の人は見えるの? 何で見せつけるのっ? どうしてこんな事するのっ? ひどいっ! ひどい、マナ!
何で会ってくれなかったの? 僕はただ逢えるなら地獄に堕ちたっていいのに、それだけだったのに、何でマナだけっ?
そんなに僕を憎んでたの? そんなにひどく呪ったの? 何でひと思いに殺さなかったの? あんたなら僕は本当に殺されたってよかったのに!
どうして! どうして! どうしてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
突然、その絶叫はプツンと途切れた。糸が切れるようにアレンは雪の上に頽れる。病み上がりに強い冷気と銃撃の恐怖に晒され続け、こんな激情に翻弄されたのだ。幼い身体は限界を越えてしまったのだろう。
「……………」
クロスはしばし、そのぼろ布のような小さな子供を見下ろしていた。その冷え切った身体にしんしんと雪が降り積もっていく。ティムが子供の傍らに舞い降りて、咎めるように主を見上げたが、クロスは取り合わなかった。
(つくづく罪深い子供だな、お前って奴は)
エクソシストになると言いながら、薄皮をめくればこんなものだ。
光と闇、双方が選んだ子供。右半分は人間なのに、左は神と悪魔の勢力が鬩ぎ合っている異形の子供。エクソシストにもアクマにも、今までこんな存在はいなかった。多分、この少年に世界の運命が凝縮されているのだろう。
しかし、今、子供の命はクロスの掌の上にあった。彼の選択次第で未来が変わるかも知れない。
アレンは神の武器を持ってはいるが、成長次第によっては、世に暗黒をもたらす可能性もある。クロスの生きてきた世界では、愛し、育てた者が自分の前に敵として立つ事は別 に珍しい事ではない。だから、クロスは今まで弟子など取らなかった。人生への執着は少ない方がいいし、自分に後世に伝える価値のあるものを残せるようにも思えなかったからだ。その初めての弟子に銃口を構えるような愚かな轍は踏みたくない。
アレンは最悪のスペードのエースだ。ならば、ただの人間のままで死なせる方が、むしろこの子供の為になるのではないか。
(だが)
『師匠が危ないと思って、教えなくちゃって…必死で』
この子は自分を助けようとした。戦おうとした。自分の身を省みない愚か者ではあるが、この子には気概がある。歯を食いしばって、風の中を前に進もうとする強い意志がある。
どんなに強く結ばれ、もつれた糸も必ずほどく方法はある。
神や悪魔が与え賜うたものより、人の意志こそが運命を変える。
ならば、まだ選択を見極める時ではない。
クロスはアレンを雪の中から抱き上げた。
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