ラビがニコニコしているので、アレンは上目遣いに彼を見上げた。ただの偶然と言われても、恋人が自分と同じ名前を最初に選んだ理由がそんな単純だと思えなかったからだ。まして、過去の失われた事象や裏歴史を保存する一族である。元の名前を捨て、その都度変えていくにしても、言葉を、まして『名前』を無頓着に選ぶとは思えなかった。

「うん…まぁ、確かにそれだけじゃないんだけど」
 ラビは本のページをパラリと捲った。
「俺が爺と最初に過ごした所は国境の街でさ。埃っぽくて、きな臭い、迷路みたいな砂の街だった。まぁ、国境の街ってのは大抵、表とは裏の顔持ってるもんだけど。

 そこを越えりゃ、俺は正式なブックマンの後継者。今までの『俺』とはお別れ。だから、故郷も名前も捨てたけど、何者でもない完全な白紙だったんさー。爺も俺を小僧って呼んでたし、名前がなくても困らなかったしね。自分自身を捨てて、無から己を見定めるには、何かこういう時期が必要なんだって。
 今までのしがらみもなくなったし、何にも縛られない。不思議と晴れ晴れとしてたなー。心細くて、不確かなんだけど、身が軽いってか」
「ラビは今までの自分が嫌いだったんですか?」
「さぁねー」
 アレンの言葉にラビは片眉を上げ、明るく曖昧にはぐらかした。

「ただ、生まれ変わったってのは、気分よかったんさ。誰も俺を知らない。足跡も残さない。ちょっとミステリアスじゃない、俺って。異国のスパイみたいさ」
「そうなんですか?」

 アレンは小首を傾げた。マナと出会うまで、誰もまともに名前を呼んでくれなかった。いつも「おい、お前」とか「おい、そこの」とか代名詞でしか呼ばれた事はなかった。それだけで自分が嫌われているのだなと思った。
 名前を呼ばれないのは、相手に覚える気がなく、存在を認められない事と変わらなかった。孤児院をたらい回しにされて、孤児達からも無視されるか、虐められるしかなかったアレンには、何処の誰でもない自分でいる事にそんな開放感があるように思えなかった。

『名前は?』

 マナに問われるまで、自分ですら殆ど覚えてもいなかったのだ。本当の名字だって、未だに思い出せない。

「もちろん、爺の用は俺の修行なんか二の次で裏の情報だの奇本だの集める事でさ。その国境の町はうってつけだったね。関所がある所は河の堰と同じ。澱とかゴミとか通 過できないものが溜まって、それを糧にする生き物が集まってくるんさ。
 そいつらは色々面白いもんを持ってる事がある。そこでしか売れないもの。買えるもの。聞けない話。

 でも、爺はいわゆる『大人の話』には、すぐ俺を近づけんかったさ。闇を見入る者は闇からも見入られてるって事、気づくには好奇心で一杯過ぎた。経験不足って事すら解らなかった。
 だから、不満たらたらだったさ。俺だって、まぁ後継者と認められるまで色々あった訳で、そこんとこ評価して選んでもらったっつー自負があったからさ」

「ラビも苦労してたんですか?」
「苦労してたんさー」
 ラビは笑った。

『じゃ、どんな苦労をしてたんですか?』

 とは、アレンは詮索しない。すれば、アレンも過去を喋らないとならなくなるからだ。アレンもラビが首を突っ込んだ川の底の、まさにその澱の中に住んでいた人間である。澱や淀みを掻き回せば、真っ黒なヘドロの煙が舞い上がる。澄んだ水を見続けていたければ、何も触れないのが一番だと二人とも解っていた。

 恋人同士になったとて、何もかもさらけ出すのが正しい事ではない。
 もし、それをしなければならない時、その機会、その瞬間になれば自ずと解る。だから、秘め事はそれまで秘めていればいい。
 ラビがアレンを好きなのは、それをわきまえているからだと思う。

 眼帯を外さずに済めばいい。ブックマンの素顔を知られたくない。戦いが激化すれば、いずれ決断しなくてはならなくなる瞬間まで、ラビは『ラビ』でいたかった。

「でもさー、爺に言われた最初の修行は、その街のどっかにあるだろう珍本を探し出す事でさ。爺と迷路探索したくって、ついつい尾行してはバレて何度も叱られたさー」
「ラビらしいですね」
「で、まぁ仕方なく書庫の山をほじくり返してたんだけど、結構面白くなってきてさ。やっぱ俺って本好きだから。探す口実に手当たり次第に本を読み耽ってる内に、こっちの方が凄い楽しくて、知らない知識が一杯あって、ワクワクして、爺についてく事もなくなってた」
 ラビはまたページを捲る。まるで今読んでる本がラビの子供時代を語っているかのように。

「そこはホントは書庫じゃなかったさ。迷路の奥のホントに吹き溜まりみたいな穴蔵みたいな店で、いつもシタールやジャズとかボソボソ流れて、妙な連中が一杯訪れては去ってくような所だった。俺達ブックマンですら『ああ、そう』って言われる場所。何かカウンターやテーブルやカーテンの影でだけ取引や会話が行われるような所。人が人じゃなくて、影みたいな所。危険がうっすい皮一枚の下に蠢いてる所。

 それでも、そこは自由だった。誰も名前がなくて、誰も咎めない。

 名前のない俺にはピッタリだった。自分が誰かなんて問題にされなくて、気持ちよかった。俺みたいなガキが学校も行かずに好き勝手な事してるのに誰も何も言わない。まるで毎日が夏休みさ。
 俺は毎日、本に埋もれて、それで昼になると、屋上に上がって飯を食った。穴蔵から出ると、パーーーッと真っ白に日が眩しくて明るくてさ。埃っぽい白い街並みと真っ青な空の対比が凄い綺麗だった。
 そこで、涼しい風に吹かれながら、肉や野菜を挟んだ熱々のナンを喰うんだ。指にうまい油一杯したたらせてさ。そんで、水差しから冷たい水をキューッと飲む。

 で、空を見上げる。砂漠だから雲なんてなくて、毎日青さが目に染みるようだった。
 お腹は一杯だけど、身体の奥底はすかすかで心許なくて、これから俺は何処行くんだろうなぁって思ったさ。


 ブックマンになる事は自分で決めた。
 爺に言われた本も見つかるのも確かだった。
 んで、俺は何になるんだろうって。
 ホントの俺を故郷に捨ててきた俺はこれから何になるんだろうって。
 あやふやな自分の状態が初めて、コワくなったさ。
 あのきな臭い穴蔵の空気を俺はこれから一生吸っていく。

 あれは怖ろしいもんだった。『闇』って奴だった。あそこにあるもの。あそこの人々。
 本を読んでるだけの俺でも、それだけは解った。爺はそれを俺に見極めさせようとしてたんだと、急に解った。楽しくて、面 白そうな事ばっかじゃない。冒険なんかじゃない。
 ブックマンになるってのは、そういう事だ。一生、闇に身を浸す事だ。それでも、自分を見失わない事だ。
 それでも、俺は国境を越えるかって。この道を越えていけるのかって。
 それで、俺は何者でもないのに、俺があるがままでいられるのかって。
 空は青かった。何処までも高くて深くて、手が届かなくて、明るいのに闇に似てるなって思った。

 そんな時さ、『アレン』が俺の名前を聞いてきたのは」
「『アレン』が?」
「そ」
 ラビはアレンの頭を撫でた。

次へ  前へ

55 STREET / 0574 W.S.R / STRAWBERRY7 / アレコレネット / モノショップ / ミツケルドット