「空気力学と少年の詩」 13


「ご、ごめん。痛かったろ」

 匡平はおたおたと阿幾の腕を撫でていた。
 縄で擦れた傷から血が手首を伝い、紅い筋が幾つもついている。

「いいさ。俺が縛ったままでいいって言ったんだから」
「ダメだって!ちゃんと手当てしないと!」

 引っ込めようとする阿幾を制して、匡平は二つに裂いたハンカチを不器用に巻きつける。

「ほら、体も拭いてやるからこっち!」

 釘にかかっていたタオルを水で濡らし、阿幾に横になれと床を叩く。

(何か…調子狂うよなぁ)

 苦笑しながら、阿幾は大人しくされるままになった。
 正直、起きているのも億劫だ。ひどく眠い。寝ながら匡平を見上げる。
 匡平の顔から獣気は消えていた。いつもの匡平の顔だ。
 からかいたくなる程呑気なお坊ちゃん顔だが、阿幾はこの顔も好きだった。
 絶対言ってやる気はないけれど。

「さっき…手立てって言ったのは何だ?勝算があるのか?」

 匡平の手はとても優しかった。丁寧にゆっくりと清めていく。

「これ」

 匡平は携帯電話の録音を聞かせた。
 阿幾は携帯を持った事がないので感心する。

「便利なもんだな」
「これは動かぬ証拠になるだろ?お館様の事も入ってるしね。
 これで脅せば、奴等も阿幾には手が出せない。
 だから、俺自身もここにいたって事が重要なんだ。きっと今頃皆で探してるだろうし」
「そんなにうまくいくかね」

 阿幾は懐疑的だった。

「行くさ。
 いや、絶対成功させなくちゃいけないんだ。
 こんな悪習を断つんだよ。今まで死んだ人達の為にも」
「必要悪だってあるさ」
「阿幾…」
「奴等はそう思ってる。安全弁てな」
「だからって、こんなガス抜き許されないよ」
「お前、俺が殺した遺族にも同じ事が言えるか?」

 一瞬、匡平の目が大きく見開かれた。
 泣きそうな顔で阿幾を見返す。

「満足しない…でも、納得してもらうしかないよ。
 一生幽閉される事だって充分惨いじゃないか」

 阿幾は苦笑した。
 匡平は千波野が何故村に呼ばれたか解っていない。
 都合よく「病欠」した老教師の代わりに赴任した美人の若い教師。
 女がいないで荒れている篤史の嫁として宛がわれる予定だったのは明白だった。
 だから、問題のある逃げ場のない女性が選ばれたのだ。

 だが、千波野は粗野な篤史になびく事もなく、村の空気も読まなかった。
 その上、再三の警告にも関わらず阿幾とくっついた。
 村はまつろわぬ者に容赦しない。彼女の破滅はこの村に来た時に決まっていたのだ。
 その象徴がお社という体制だ。

「この村の奴等は皆ヘドが出る。
 俺は奴等を絶対許さない。奴等も俺を愛さない。これであいこだ」

 手がゆっくりと匡平の手を握った。

「ここも村も俺にとっては同じだ。
 なら、俺はここでいい。…たまにお前がいりゃあな」

 そして、阿幾は懐かしそうに天井を見上げる。

「お前と最後に一緒に空を飛んだ事を、ここにいれられてからよく思い出すんだ」

 天井を越えた果てには青い空が無限に広がっている。
 遠く何処までも。案山子と共に風を一杯に受けて飛んだ日。
 あの頃は先に闇が待ってるなど考えた事もなかった。

「また翔べたらな、一緒に」
「ああ、翔ぼう、阿幾」

 匡平は優しく手を握り返す。阿幾は微笑むと眠そうに目を閉じた。

「ノォノの事…ありがとな」

 ポツリと呟く。

「うん…」

 それきり、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
 匡平は阿幾の手を握ったまま、牢の天井を見上げる。
 暗く冷たく素っ気ない岩壁。
 阿幾はここが村に住むのと同じだという。
 うっすらと涙が滲んだ。阿幾は一生ここから出られないのだ。
 その事実が苦しかった。二人が一緒に飛翔る事などもうない。
 急にしんしんと心細さが募ってきて、匡平は阿幾を抱き寄せるようにして目を閉じた。
 虫が外でしのびやかに鳴いている。
 自然豊かなこの村で、それだけがこの牢内に季節を告げる音だった。



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